猿神の罠
冬の日暮れは早い。次の殺害現場である神社まで急がねばならない。ワゴン車は軽快に山道を飛ばして坂道を駆け下りた。
今度は下りなので、二十分ほどで山裾まで降りることができた。ここから神社の境内までの迂回路を登れば、直接、車で乗り入れることができる。細長い階段が参道として一直線に伸びているが、神社の境内まで車が上がっていけるように、側道が斜面を大きく蛇行して神社の境内まで伸びているのだ。砂利を踏みながら、神社の急坂を一気に駆け上った。
山申神社の境内に到着した。
境内には砂利が敷き詰めてあった。真ん中部分が黄色い立ち入り禁止の規制線で囲われている。本殿の賽銭箱の周りにも黄色いテープが張り巡らされている。こちらは生首が供えられていた場所に違いない。
生長はまた西脇たちを規制線の外に待機させると、圭亮を従えて規制線を跨いだ。
昼下がりの神社は参拝客もなく閑散としていた。耳を澄ませば何とか生長と圭亮の会話を盗み聞くことができた。西脇と藤代は顔を見合わせて軽く頷いた。
生長は境内にある規制線の中で地面を指差しながら「碇屋恭一氏はこの場所で殺害され、鋭利な刃物で首を一刀両断、切り落とされたものと考えられています。碇屋恭一の死因は、頭部を切断されたことによる失血死でした。切断面から生活反応が見られました。生きたまま首を切り落とされたことになります」と口にした。
「ひぃ!」と圭亮は小さな悲鳴を上げながら、「碇屋恭一という人物は、確か漁師で、網元の跡取り息子だと聞きました。鋭利な刃物で首を切り落とされるなど、犯人によほど恨まれていたようですが、一体、どういう人物だったのでしょうか?」と生長に尋ねた。
「手の付けられない乱暴物だったようです。最近は父親の代理として漁協に顔を出していたので大人しくしていたようですが、漁師仲間によると、一度、キレると手がつけられないところは変わっていなかったそうです」
「この事件の犯人は、わざと自らの力を誇示するかのように人を殺害しています。碇屋恭一氏よりも自分の方が上であるということを示したかったのかもしれません。犯人は日頃、碇屋恭一氏から虐げられていた。その鬱憤が爆発し、残酷な殺害手段に訴えた。そう考えられます」
「我々もそれは考えました。碇屋恭一氏に恨みを抱いている人物は少なくありません。現在、対象者を絞り込んで捜査を行っております」
「すいません、勝手なことばかり言って。こうやって推理を積み重ねて、一つの結論にたどり着くのが僕の分析手法なものですから」
圭亮は長い身体をくねらせた。仕草が子供っぽい。西脇はハラハラしながら圭亮を見守っている。まるで保護者だ。
「いえ」と生長は短く答えただけだった。
生長がこちらを振り向いた。西脇と藤代は慌ててあらぬ方向に目をやった。盗み聞きを気づかれたかもしれない。
規制線の中にいた浅井が規制線を跨ぐと、こちらに歩いて来て手を振った。「ダメですよ。カメラは――」
振り返ると背後で菊本がカメラを回していた。直ぐに「すいません」とカメラを降ろしたが、西脇は、よくやったと褒めてやりたかった。これで少しは使えそうな絵が撮れた。
生長と圭亮は規制線を出ると拝殿に向かった。生首が供えられていた場所だ。それっと、西脇たちも移動をする。間隔を開けながらついて行く。二人の会話を聞き洩らさないように、西脇も藤代も無言だ。
何故か最後尾を浅井と菊本が並んで歩いて来る。「はは」と浅井の笑い声が聞こえた。若者同士だ。話が合うのだろう。
拝殿の前で圭亮は手を合わせた。参拝なのか死者を悼んでいるのか分からない。「凶器について特定はできているのでしょうか?」圭亮が尋ねた。
「いいえ、まだです。刀身の長い鋭利な刃物だと言うことは分かっています」
「どうしても日本刀を連想してしまいますね。一刀両断、首を切り落とすなんて、日本刀でなければ無理でしょう。犯人は碇屋恭一さんの胴体を持ち去っています。生首伝説では高階泰章は碇屋嘉平の生首を持って宝来家にやって来ましたが、胴体は碇屋家に置いたままでした。手に槍を持っていたからでしょう。槍と生首で両手が塞がっていた訳です。ほんのちょっとした違いですが、生首伝説との違いが気になります」
「ああ、生首伝説。あれには参りました」生長が渋い顔だ。
放送後、県警より生首伝説について問い合わせがあった。報告が上がっていない。聞いていない。どうなっているのだという叱責と共に美嶽貴広から聴取を行うように指示を受けたという。
「余計なことをとは言いませんが――」生長は言葉を切った。須磨にも言われた。事前に一言欲しかったと言いたかったのだろう。
「すいません」別に圭亮の責任ではないが、謝るしかなかった。
「いえ。我々の聞き込み不足でした。ところで、何故、犯人は碇屋恭一氏の胴体を持ち去ったのでしょうか?」
「そうですねえ~正直、分かりません。碇屋恭一氏の胴体部分はまだ見つかっていないのですか?」
「捜索は続けているのですが見つかっていません。山に埋めたか、海に捨てたか、この辺は都会と違って死体の処理には困らないところですからね」
「胴体部分に、人に見られては困る痕跡をつけてしまったからではないでしょうか?犯人であることを指し示すような」
「痕跡ですか?」
「傷跡なのかもしれません。特殊な凶器を使ったとか。死因は分かっているのですか?」
「頭部に目立った外傷はありませんでした。胴体部分が見つかれば死因を特定することができると思うのですが」
「それが胴体部分を持ち去った理由かもしれませんね。死因を特定されたくなかった」
規制線を跨いで、本殿の賽銭箱に近づく。
取り巻きのように二人についてぞろぞろと歩いて行く。西脇は漏れ聞こえてくる二人の会話を聞き逃さないように耳を澄ましていた。傍らの藤代も真剣な表情で聞き入っていた。
「ここ、賽銭箱の前の目立つ場所に、こちらを向く形で生首が据えられていました」
まるでさらし首だ。「ぞっとしますね」
賽銭箱の前に黒く変色した場所があった。恐らく、そこに生首が置かれていたのだ。きっと憤怒の形相で参拝に来る人を睨みつけていたに違いない。第一発見者は肝をつぶしたことだろう。
「碇屋恭一さんはここに来る前に食堂で食事をとった際に、マゴに会ったと言っていたと聞きました」
「よくご存じだ」
「碇屋恭一さんに孫はいません。彼の言ったマゴについて捜査は進んでいるのですか?」
「それが大事なことですか?」
「分かりません。ですが、気になります。マコさんという人に会ったと言ったのを女将さんが聞き間違えたのかと思ったのですが、別の可能性に思い当たりました」
「何でしょう?」
「ほら。馬子にも衣裳という言葉があるでしょう。その馬子です。昔、馬の世話をしていた身分の低い人を馬子と呼んだそうです。誰かを馬鹿にして言った言葉ではないでしょうか?」
「碇屋恭一氏は漁協に出るようになってから、学がないことを気にしてようです。四文字熟語や故事成語を会話に入れて、ひけらかすところがあったと聞きました。誤用が多くて、却って陰で馬鹿にされていたようですが」
「学歴は?」
「高校中退です。碇屋恭一氏が昼間、誰かに会ったとして、それが事件にどうつながるのか」
「何か犯人につながる証拠は残されていなかったのですか?」
「見つかっていません。境内に碇屋恭一氏が乗って来た車が停まっていました。恐らく、犯人も車で来たのでしょうが、御覧の通り、神社までは舗装道路だし、境内は砂利です。足跡もタイヤ痕も残っていませんでした。こんな寂れた場所です。目撃証言も皆無でした。ご覧の通り田舎です。ここに限らず町中、防犯カメラなんて、ほとんどありませんからね」
「まるで猿神の仕業ですね」
「猿神?」
「この神社は猿神を祭っていると聞きました。碇屋恭一氏は猿神の罠にかかってしまった。悪さをして、猿神に胴体を食べられてしまった」
圭亮の言葉に生長が渋い顔をした。
日が落ちるのと競争するかのように宝来家に急いだ。
宝来家は神社の参道を下って直ぐの場所にある。坂道を一気に下り、山道との分岐点で車を泊めた。道が多少、広くなっている。ここから宝来家は目と鼻の先だ。
神社の参道の入り口に宝来家はあった。こぢんまりした戸建ての民家で道路に面した家の周囲がブロック塀で囲われている。ブロック塀と建屋の間には、人が一人、ぎりぎり通ることができる隙間があった。そこから裏庭に回り込むことができる。手入れが悪いので、塀と建屋の間には雑草が生い茂っていた。門には小ぶりな民家に不似合いな立派な御影石の表札がかかっていた。
宝来家の門には黄色い立ち入り禁止の規制線が張られていた。
生長がドアを開けながら圭亮を中へと案内する。「鬼牟田さん、鑑識による証拠の採取が終わったばかりです。中は少々、刺激が強いかもしれません」
殺人事件の現場に立ち入った経験などない。暢気な圭亮も生長の一言で、一気に緊張した様子だった。
西脇たちは門前で待機させられた。
「入ってみたかったですね」と藤代が言うので、「見ていて下さい。先生、直ぐに出てきますよ」と半笑いで西脇が言った。
今回は浅井が中に入らずに残っていて、「何故です?」と聞いてきた。
「先生、小心者でグロいのがダメですから、直ぐに気分が悪くなって出てくると思います」
西脇が返事をすると、「はは」と浅井が笑った。
「刑事さん。被害者は宝来宗治さん、そうですよね?」藤代が尋ねる。
被害者の姓名はまだ発表されていない。
「ぼちぼち警察発表が終わる頃ですから言っても構わないでしょう。そうです。宝来宗治氏です」
「串刺しになっていたという噂ですけど」
「う~ん」と浅井はうなってから「否定はしません」と答えた。
「串刺しですか~⁉こりゃあ驚いた。刑事さん。見ました?」
「現場は見ましたよ。そりゃあもう凄惨な現場でした」と浅井が言った時、「ひっ!」と家の中から悲鳴が聞こえた。圭亮の悲鳴だ。
「はは」と三人で笑った。
西脇が浅井に聞く。「ところで、生長さんって、どういう方ですか?」
「長さんですか。県警刑事部捜査一課のエースですよ。優秀な刑事です。今回の事件の捜査責任者として県警から派遣されて来ています」
「そんなに優秀な刑事さんが、我々の相手をしてくれている訳ですね」
「別に、あなたがたマスコミの面倒を見ている訳ではありません。警視庁のお偉いさんからうちの部長に話があった、あの、鬼牟田という人の相手をしているだけです。正直に言えば、捜査に人手が足りなくて、鬼牟田さんの相手をしている時間さえ、もったいないのですけどね」
随分、はっきりとものを言う青年だ。警視庁のお偉いさんとは須磨のことだろう。西脇が考えていたのより、ずっと大物のようだ。今度も利用できそうだ。是非、圭亮には今の関係を維持していてもらいたい。
「それで生長さん、渋い顔をされているのですね」
「渋い顔?そうですか?不機嫌そうに見えました?いつも通りですよ。いや、むしろ機嫌が良いくらいだ。最初は嫌々だったかもしれませんが、あの妙に縦に長い人、気に入ったみたいですよ。生長さん、ああ見えて、素顔は特撮好きのおっさんです。オタクと言っても良い。そうそう、鬼牟田さんの第一印象はマグマ大使だったみたいです。ぬぼっと縦に長い感じが似ているそうです。僕はマグマ大使って、よく分かりませんけど」
浅井が楽しそうに言う。上司の陰口は楽しいものだ。西脇が「はは。マグマ大使ですか。言われてみれば」と笑った時、家の中からマグマ大使が転がり出てきた。
「どうしました? 先生」
圭亮が青い顔で震えながら言う。「僕には無理です」
「ちょっと生々しかったですか?」浅井が聞くと、「かなりです」と真顔で答えた。
圭亮に続いて、生長が家から出てきた。「さあ、日が暮れて来ました。一旦、美嶽セメントに引き上げるとしましょう」
車に乗り込むと同時に、「先生、先生。宝来家の様子、教えて下さい」と西脇が催促した。
「すいません。西脇さん。気分が悪くなってしまいました」
「そうですか。それで、どんな様子だったのです。被害者は宝来宗治で間違いない。串刺しになっていたというところまでは分かりました」
「ああ~少し休ませて下さい」
「休んでもらっていて構わないので教えて下さい」
西脇は容赦ない。苦しい息の下、圭亮が説明を始める。「玄関からゴミが散乱していました。ゴミ屋敷でした。それでも証拠となりそうなゴミは鑑識が持ち出した後だと生長さんは言っていました。うっ!」
玄関から台所があり、台所の右手に居間があった。
「開け放たれた襖から中が見えました。うっ! 殺害現場のようでした」
圭亮がえずきながら現場の様子を描写した。奥の板壁に大量の飛沫血痕が飛び散っており、そして、畳の上にはおびただしい量の血溜まりがくっきりと残っていた。
犯罪現場を見慣れていない圭亮はそれを見ただけで気分が悪くなってしまった。生長の説明では、宝来宗治は胸を槍で貫かれ、板壁に串刺しになっていたと言う。鳩尾の辺りを槍が貫いていた。
「槍ですか!? あの武士が使っていた槍が凶器だったのですか? 本当に伝説通り、槍で串刺しになっていたのですか?」
西脇でなくとも、にわかには信じられない。
「その槍が凶器だそうです」
「まさかとは思いましたが、本当に槍だったのですね~」と西脇が声を上げる。
「碇屋恭一氏の生首が見つかった後、刑事さんが宝来家に事情聴取に行っています。何せ、神社に一番近い家が宝来家ですからね。自分は何も知らないと答えたそうですが、何でも良いので犯行当夜、何か変わったことはなかったか食い下がったところ、鳥の鳴き声を聞いたと答えたそうです」
「夜中に鳥の鳴き声ですか?」
田舎のことだ。フクロウなど、夜中に鳴く鳥くらいいるだろう。
「碇屋恭一さんが殺されたあの夜、宝来さんは酒を買いに酒屋に行ったそうです。滅多に出歩かない人でしたが、酒の買い出しには行っていたみたいですね。坂下の酒屋まで歩いて酒を買い、一升瓶を提げてぶらぶらと家に戻る途中、鳥か獣か、変な鳴き声を聞いたと言うのです。チェイーという気味の悪い甲高い鳴き声で、昔、何処かで聞いたことがあるけど、思い出せない。そう言ったそうです」
「それで?」
「他に何か見たり聞いたりしていないか尋ねたところ、何も覚えていないと答えたそうですが、明らかに何か思い出した様子だったと生長さんは言っていました」
「何でしょうね?」
「分かりません。うっ!」と圭亮はまた、えづいた。
「しかし、鬼牟田先生。被害者は宝来宗治でした。息子の直樹じゃありませんでしたね」
「そうですね。直樹さんの失踪は一連の事件に関係が無かったのかもしれませんね。噂通り、単なる家出だったのかもしれません」
圭亮はどこか浮かない様子だった。
美嶽瑠璃子の美貌に驚かされた。
日本人離れした整った顔立ちに、凛とした品があって、光り輝くような美しさという表現がぴったりだった。奈保子の美しさの源泉を見た思いだった。
現場取材を終えた後、美嶽セメントに戻ると、貴広から「うちで一緒に食事をしませんか?何分、田舎のことですので、お口に合うかどうか分かりませんけど」と夕食に誘われた。藤代と菊本はホテルに戻って編集作業があるということで、美嶽家に世話になる西脇と圭亮が食事に呼ばれることになった。
美嶽家へまでは貴広が自ら車を運転して連れ戻ってくれるという。
冬の日暮れは早い。
会社を出ると夕闇が辺りを覆っていた。休み無く稼動を続ける美嶽セメントは、工場の明かりで昼間のように明るかったが、工場の前を流れる今井川は、工場の明かりが届かず、まるで地が避けて暗闇がぽっかりと広がっているかのようだった。
美嶽家は美嶽セメントから目と鼻の先の距離にある。美嶽家の庭から続く山道を歩けば美嶽セメントに行き着く。車だと一旦、川沿いを暫く走った後、交差点を直角に曲がり、坂道を上った場所に美嶽家があった。
「ようこそいらっしゃいました」と出迎えてくれたのが美嶽瑠璃子だった。
その美しさに呆然としていると、瑠璃子の背後からぼさぼさの長髪に髭面の男が顔を出した。らんらんと輝く目で西脇と圭亮を睨みつけている。睨み殺そうとしているかのようだ。白目勝ちの異様に鋭い目付きをしている。子供だったら泣き出しそうな面相だ。
瑠璃子と並んで立つと、正に美女と野獣だった。
目立つ上下の緑色のジャージを着ている。美嶽家に住み込みで働いている後藤という男だと紹介された。優雅な美嶽家に似合わない。どういう素性の男なのか気になった。
「さあ、どうぞ」と招き入れられた。先導する瑠璃子が足を僅かに引きずっていた。聞くのも悪いと思って黙っていた。
「ご遠慮なく召し上がって下さいな。田舎なもので、たいしたおもてなしは出来ませんけど」と瑠璃子に言われたが、食卓に料理がところ狭しと並べられている。
美貌の社長夫人、瑠璃子が自ら腕を振るった料理だという。山と海に囲まれた今井町に相応しく、山海の珍味を贅沢にあしらった料理だ。美嶽家には谷という通いの家政婦がいるが、今日の料理はほとんどが瑠璃子の手によるものだという。
東京で会った奈保子が食卓を囲んだ。相変わらず美しい。瑠璃子の凛とした美しさと違い、柔らかさを感じさせる美しさだ。父親の遺伝子だろう。
食事が始まる。こういう時は如才がない西脇が巧みに話題を提供する。芸能界の関することが多かったが、若い奈保子などはテレビでは言えない芸能人の話題に興味津々の様子だった。「まあ」、「本当ですか~⁉」と言いながら西脇の話にくるくると表情を変えた。
賑やかな食卓となった。実際、「今日は賑やかだこと」と瑠璃子も奈保子も言っていた。
後藤は挨拶だけ済ませると、さっさと自室に戻っていった。
美嶽家は山肌を切り崩して造成した平地の上に建っており、今井町を一望に見渡すことができる絶好の立地だ。下手に民家はなく、やや傾斜の急な山肌が続いているだけだ。
敷地の端に物置が立っている。土台を切り崩して地下室を作り、その上にバス・トイレ付きの立派なコテージ風の建物を建て、後藤の住居としている。食事は一人、その住居でとる。「一緒に食事をした方が楽しいのに」と瑠璃子は言う。どんなこだわりがあるのか、後藤は一人で食事をすることに拘った。理由は誰も分からないらしい。
「後藤さんって、ご親戚の方ですか?」と聞くと「いえ。うちの運転手です。運転手兼何でも屋さんとでも言えば良いのか」と貴広が答えた。
それ以上は後藤の素性に触れたくない様子だった。
奈保子が笑顔で話し始めた。「タケさん。何時も同じ服を着ているでしょう?」タケさんというのは後藤のことだ。後藤猛という名前だという。
「子供の頃、毎日、同じ服を着て汚いと文句を言ったことがあるの。そしたらタケさん、顔を真っ赤にして、翌日、緑色でデザインが同じジャージを十着ばかり買ってきたんですよ~毎日、着替えて洗濯するから、汚くないんですって。はは。流石にあきれて、タケさんのジャージ姿に文句を言う気が無くなりました」
「後藤さんは奈保子に甘いから」と瑠璃子が言う。
奈保子の物心がついた頃から美嶽家で働いているそうで「子供が見ると泣き出しそうな強面なのに奈保子は後藤さんを怖がったことが一度もありませんでした。むしろ後藤さんに懐いていて、後藤さんも憎からず思ったのでしょうね。奈保子の言うことは何でも聞いてしまうので困っています」
瑠璃子の言葉に奈保子が「えへっ」と可愛く笑った。
結局、後藤について分かったのは、美嶽家の運転手兼何でも屋だということと奈保子が子供の頃から美嶽家で働いているということ、それに常に緑色のジャージを着ているということだった。
「奥さんとは大学のゼミでお知り合いになられたとか」馴れ初めを尋ねると、奈保子が「ロマンチックなんですよ~」と嫌がる両親を後目に二人の馴れ初めを話してくれた。
瑠璃子は貴広の二学年下、病気で半年、休学していたそうで三年でゼミに入ってきた時、本来、貴広は入れ違いで卒業していたはずだった。ところが学費を稼ぐことに夢中でアルバイトに精を出しすぎ、留年したお陰で瑠璃子と知り合うことができた。
美貌の瑠璃子は入学した時から噂の的だった。貴広もその存在は知っていたそうだ。だが、目立たない学生だった貴広にとって瑠璃子は高根の花だった。
瑠璃子がゼミに入って来た時、ゼミの教授から「一番、長くゼミにいるのは君だから」という理由で、貴広は新入ゼミ生の教育係りに指名された。そこで初めて瑠璃子と話をする機会に恵まれた。とは言え、急速に仲良くなった訳ではない。ゼミの先輩として、たまに会話をする程度だった。
転機はゼミの忘年会だった。
留年組の貴広はゼミ生の中で少し浮いた存在だった。本来の同級生は卒業してしまっている。宴席の隅で、一人、ちびちびとお酒を飲んでいた。宴会がお開きに近づくと、貴広の前に瑠璃子が仁王立ちになった。そして瑠璃子が言った。「先輩、送っていただけませんか?」
瑠璃子の一言で、賑やかだった宴席は水を打ったように静まり返った。言われた貴広よりも周りの人間が驚いた。
「えっ、僕がですか⁉」貴広は聞き直したと言う。瑠璃子が頷いた。
貴広は畳の上に投げ出してあった上着を掴むと立ち上がった。瑠璃子を送って行った。二人はこうして知り合った。奈保子はこの二人の出会いの話が大好きだと言う。
「何故、自分なんて選んだのか、未だに分からない」と貴広は笑う。それに対して、瑠璃子は「次男坊で、うちに婿養子に来てくれそうだったから」と笑って答えた。そして、「何時までも愚図愚図、誘ってこないから、私の方から声をかけたの。全く、情けない」と恨み言を言った。
大学四年生の時に奈保子を妊娠し、瑠璃子は大学を中退して貴広と結婚した。貴広は教師としての第一歩を歩み始めていたが、美嶽家に婿に入り、この町にやってきた。
教師になれなかったことは全く後悔していないが、瑠璃子に大学を中退させてしまったことは未だに後悔していると言う。だが、瑠璃子は「大学で、欲しいものはみんな手に入れました。卒業に未練なんてありません」とさらりと言ってのける。格好良い。
二人のやり取りを奈保子は満面の笑顔で見つめていた。
「鬼牟田先生、西脇さん。書斎で、もう少し飲みませんか?」
そろそろ満腹になってきた頃だ。自分たちの話題に辟易したようで貴広が誘ってきた。
「いいですね~美嶽さんからもう少し地元の歴史について話を聞きたいと思っていたのです」
圭亮が直ぐに反応した。
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