教室にて
井上 カヲル
教室にて
大教室に入ると、すでに人がごった返していた。まだ授業が始まる十分前にも関わらず。しかしそれは仕方がない事だった。なぜならその授業は二年生以降の文学部生で必須の共通科目であり、大教室にも関わらず殆ど全ての席が埋まるからだ。そしてなるべく後ろの席に座って、授業中に映画を見たい学生たちは早めにきて席を占拠するのだ。僕はそのレースに負けてしまったのである。仕方がないので教授の目の前の席に座る事になった。周りにはまだ誰もいなかったが、一緒に受ける友達もいないので、その方が都合よく、気が楽だった。
僕は一人で文庫本を読みながら授業の始まりを待っていた。開始時間が近づくにつれ僕の周りの席もだんだんと埋まっていき、僕は少しずつ不快になっていった。しかし、僕の右隣の席だけは唯一、誰も座らなかった。僕はなんだか不愉快だった。もちろん座りづらい席にわざわざ座り、なるべく近くに人が来ない事を望みはしたが、大教室の中で唯一隣の席が空いていると、まるで僕自身がみんなから忌避されているような気持ちになった。
そして僕の隣の席には誰も座らないまま、授業が始まってしまった。教授は『文学部生のキャリア形成』という授業で、文学部生が社会で生きるためのノウハウを教えるものだった。しかし、それではまるで教授自らが「我が二流大学は研究機関ではなく、職業訓練校です」と言っているようなものではないかと思った。まあ、それが実態であるのは間違いないのだが。後ろの席の学生のように映画を見たり、本を読んだりする事のできない僕は、教授の講義を半分の耳で聞きながら、そのような事を半分の頭で考えていた。
すると、ガチャと大きな音がして、教室の扉が勢いよく開いた。そして女学生が教室に飛び込んできた。彼女はずいぶん急いできた様子で、呼吸を荒くし、顔を赤く染め上げていた。そして三秒ほどして、「すいません」と小さな声で言った。教室にいる全ての人の目線が彼女に向かっていた。教授は「学籍番号と名前を後で」と言い、彼女に座るように僕の横の席を指差した。彼女は「はい」と先ほどよりも小さな声で言い、また「すいません」と言いながら席と机の狭い間を通り、僕の隣の席に座った。
彼女の息が整うまでには時間がかかった。彼女はおそらく、とても多くの酸素を必要としていたが、遅刻という行為を恥じているのか、なるべく目立たないように息をしていた。そのため、彼女の息が整うまでには時間が必要だった。僕はその一連の行為に好感をもった。
僕が彼女を見たのはこれが初めてだった。彼女の髪は赤毛と見間違うほど明るい茶髪で、肩まで伸びており、顔の輪郭に沿うようにウェーブがかかっていた。その髪型は丸い顔と一重だけれど決して小さくない目に似合っていた。
僕は授業中、誰にも気づかれないように、彼女のことを観察していた。そしてノートの端に彼女の横顔を描いた。僕の絵は誰かに見せるほど上手くない。だからいつもノートの端に描いている。
僕は退屈凌ぎのために、この一年間で少しずつノートの端に絵を描き溜めていった。いつもは教鞭をとる教授の絵や常に一番前の席にいるガリ勉の後ろ姿を描いていた。そしてたまに女の人の絵を描いた。
大学には魅力的な女性たちが多くいた。僕が今のところ最も印象深いのは、去年の10月ごろに見た女生徒だ。彼女は僕より四つ前の席に座っていた。小さな頭によく似合う黒髪のショートカットで、耳の上に僅かに眼鏡の先セルがかかっているのが見えた。そして彼女が着ていた薄手のニットシャツの奥に、ブラジャーの紐が透けていた。僕はその授業中、ずっと彼女の絵を描いていた。彼女の髪の毛、薄いニットシャツによって露わになる体のラインと透けているブラジャーの紐。それらの要素は僕に性的興奮を与えたし、優等生に見えるその女生徒が、ブラジャーが透けて見えるような服を着ていることにギャップを感じ、強い印象を受けた。
僕はたまにノートの端に描いてあるその絵を見る。そして実際の彼女の姿が記憶の中で薄れていき、それが絵に置き換わっていくのを実感している。僕は彼女に限らず、記憶をそのように保っている。女性たちは薄れていく記憶の中で、絵に置き換わる。ある出来事も、嫌なことも、嬉しかったことも、全て。
今書いているこの赤毛の女の子の絵も、いつかただの絵として僕の中に残っていくのだ。彼女がどうして息を荒げていて、どうして顔を赤くして俯いているのかも、僕は忘れてしまう。僕は描き途中の絵を見ながら、そんなことを考えていた。
すると、
「あの、すいません」と彼女が僕に声をかけた。僕は驚いて、顔をあげて
「はい?」と答えた。
「筆記用具を貸してくれませんか?」と彼女はまるで怯えているかのように言った。
「え? ああ、いいですよ」と言って、僕はシャープペンシルを赤毛の女の子に渡した。
僕はその間、彼女の絵を隠し続けた。
「ありがとうございます」と彼女は言った。
僕は予感を感じていた。それは恋の予感だった。それは大雨の前の空から降りてくる匂いを感じた時の、雨の予感と同じ感覚だった。
僕は彼女の絵を描き続けた。授業が終わり、彼女がペンを返してくれた。
「ありがとうございました」と彼女は柔らかく言った。
「どうも」と僕は言った。それから僕は彼女の名前を聞こうと思った。しかし僕の勇気を踏み切るタイミングを彼女は待ってくれなかった。
彼女はすぐに荷物をまとめて、教授の元へ行った。そして学生番号と名前を言った。それに遅刻の理由も付け加えた。僕は幸いにも、彼女の声を聞くことができた。
彼女は「32A0134 コンドウアヤカです。」コンドウ アヤカ……。
「遅刻は電車が遅延したためです。」と彼女は言った。
しかし教授は「いかなる理由でも、遅刻は認めていません。」と言った。
「はい」と彼女は言った。少し残念そうに。
「では」と言って教授は、冷淡にも立ち去った。
彼女も出口に向かった。僕は彼女を追いかけた。後から振り返れば奇妙な行動だったが、この時には何も思わなかった。
しかしまたも僕のもくろみは打ち破られた。
「アヤカ!」と誰かが彼女を呼んだ。その声は男の声だった。彼女はその声で振り返った。
僕も彼女と同じ方向を見た。すると短髪で背の高い男が、教室から出てくる群衆をかき分けながら彼女の元へ向かっていた。僕は思わず立ち止まった。後ろから流れ出る学生に押されながら、彼女とその男を見つめていた。
彼女とその男は少し話した後、一緒にエスカレーターに乗って下の階に降りて行った。僕は彼女たちを追ったが、彼らはすぐに人の濁流の中に消えてしまった。
教室にて 井上 カヲル @sodashi_mask
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