ふたりの面影

皆実みなみくん、まだ時間あるよね?」

「ああ、今日は特に用事はないけど」

「だったら、今からあの海、行ってみん?」

「あの海?」

「そう、3人で初めて行ったあの海」

 俺たちの初めての小旅行。

「よしのも今日は大丈夫なのか?」

「うん、遅くなるかもって言ってあるから大丈夫。またあとで連絡しとくけん気にせんといて」

 今から行ってもお昼前には着けるだろう。

 駅から今度は路面電車に揺られ、川の流れに沿って下り、港の終着駅へと辿り着いた。


 港の景色、島の風景はほとんど変わっていなかった。

 島の中を歩いていくと、あの時と同じように洋風の建物で結婚式が行われていた。

 純白のウェディングドレスが輝いていた。

「けいちゃんね、ここで結婚式を挙げたかったって、病院にいる時もずっと言っとったんよ。わたしもそうじゃけど、ずっと忘れられんかったんじゃね…」

 よしのは花嫁の姿から目をそらさずに言った。

 俺は今まで忘れていたが、あの時もふたりはずっと結婚式の様子を見ていたような気がする。

 ふたりにとってそれほどまで記憶に残るようなことだとは思ってもみなかった。

 花嫁が後ろ向きに花束を投げた。

 それは大きく宙を舞い、俺たちの前に落ちた。

「わたし、これ拾ってもいいんかね?」

「やめといた方がいいんじゃない?」

「そうよね」

 そんな話をしていると、突然、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。

 よしのは思わず花束を拾い上げ、「拾っちゃった」と照れたように言った。

 ざーっと大粒の雨が音を立て始めると、そこにいた人たちはみんなあわてて建物の中に入っていった。

「すみません、ちょっとここで雨宿あまやどりさせてください」

 俺たちは従業員らしき人にそう言って、よしのは花束を渡し、玄関の軒下に入れさせてもらった。

 空をのぞき見上げると、俺たちの上にだけ黒い雲があり、周りはどこも青空が広がっていた。

「狐の嫁入りだな。すぐやむだろ」

「急にびっくりじゃね。雨宿りできるとこがあってよかったね」

「ほんとだな」

 雨はしばらく降り続き、空気もすこしひんやりとしてきた。

 俺たちは黙って雨にけぶる景色を見ていた。

「皆実くん…」

「ん?」

「わたしね、結婚しようかと思っとるんよ…」

 よしのが突然そう打ち明けた。

 お互いもういい歳になっているんだから、当然結婚していてもおかしくない。そんなことはわかりきっていたけれど、こんな形で告げられるとなぜかどきりとした。

「…そうか…おめでとう、でいいのか?」

「うん。でもまだちょっと早いかな。ほんとはね、言ってももうしょうがないけん、言わんとこうと思ったけど、やっぱりちゃんと言っといたほうがいいかなと思って。友達なんじゃしね」

「いいや、こっちこそ気をつかわせてるみたいでわるいな…。結婚式はここで挙げるのか?」

「結婚式なんてまだまだ先よ。やるかどうかもわからんし。けど、そうじゃねえ…ここだったらうれしいけど、けいちゃんを差し置いて、わたしだけっていうわけにはいかんよ」

「けいなら喜んでくれるんじゃないのか?」

「そうだとしても、わたしが納得せんのよ。あの頃の………ううん、けいちゃんとの大事な思い出として取っておきたいけん」

「そうか…」

 けいがもし生きていたら、よしのと一緒にここで結婚式を挙げていたのかもしれないと、そんな未来があればよかったのにと、心から思った。

 俺がふと思い描いたそんな未来には、俺は存在していなかった。そんな予感がした。

 俺はふたりと出逢ってはいけなかったのだろうか。出逢っていなければ、ふたりは今も幸せだったんじゃないだろうか…。

 そんなことを考えていると、急に雨はやみ、強い日差しが照りつけてきた。

 屋根からしずくがぽたりぽたりと音を立てて落ちている。

 そして、空に虹が見えた。

 よしのもそれに気が付いたようだった。

 くっきりと鮮やかな七色の帯は、やがて青い空に溶け込んでいった。


 *


 俺は駅前でよしのと別れ、懐かしいあの風景を求めてバスに乗った。

 窓の外を流れる景色は、しばらくすると見覚えのあるものに変わってきた。

 久しぶりに訪れたこの街は、すっかりよそ者になってしまった俺がいてはいけない場所のように感じたが、ここへ来るとなんだか受け入れてくれるような、そんな気がした。


 高台の公園に辿たどり着くと、東の空から夕暮れが迫ってきていた。

 空には一番星。

 丘の上に広がる街と遠く瀬戸内海がよく見えた。

 風がいでいた。

 汗がじっとりと全身にまとわり付く。

 音もなく、ざーっという耳鳴りが頭の中で反響した。

 それはまるで波の音のようだった。


 ふいに誰かに呼ばれた気がした。

『けい…?』

 振り返ると、そこには白い野良猫がいた。

「にゃー」

 ひとりの女がブランコに座ったまま、その猫をあやしていた。

「かわいい猫じゃね。にゃー」

 女はそんなことを言いながら猫の頭をなでていた。

 猫はしっぽを高く上げ、体をこすりつけるようにして甘えていたが、俺の視線に気が付いたのか、女の手からのがれ、俺の方へと歩いてきた。その瞳はきれいなブルーだった。

『こはく…?』

 女はゆっくりと立ち上がり、猫を目で追っていたが、その先に俺がいるのに気が付いたようだった。

 そのひとと目が合った。

 その瞳はやさしく微笑んだように見えた。

 どことなくふたりと似ているような気がした。

 そのひとは俺から目をそらすと、遠く海の方を眺めた。

 俺も釣られて視線をそちらに向けた。

 琥珀こはく色の夕暮れが、ぽつりぽつりと明かりのともりだした街を包み込み、たおやかな海をたゆたう波は、あわいくれない色に染まり、いくつもの島影がたなびいているようだった。

 この高台から見た街と穏やかな瀬戸内海の風景はいつも俺の心の中にあり、そしてそこには必ずふたりがいた。

 彼女たちは屈託なく笑い合い、夏の空はどこまでも青く、そこには満天の星空があった。

 あれは夢だったのだろうか。

 俺の、皆実みなみたけやの人生。

 可愛川えのかわよしのの人生。

 可愛川えのかわけいの人生。

 同じ時の中、この惑星ほしに俺と彼女たちは生まれ、螺旋らせんを描くような人生の流れに翻弄ほんろうされながら交わり、そして離れていった。

 俺はよしのとまためぐり逢い、けいとはもう二度と逢うことはなくなった。俺が先かそれとも彼女が先か、いずれ俺たちもこの世から去り、よしのとも別れる日が来るが、それでも、ふたりとこの同じ場所で同じ時を一緒に過ごせたことは、とてもしあわせなことだと思う。

 複雑に絡み合う運命の糸をほどいていくと、そこには純粋な想いだけが残っていく。この想いは次にどんな人たちのどんな運命を紡いでいくのだろうか。


………気が付くと猫と女の姿はなく、ブランコが静かに風に揺れていた。


〈おわり〉

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運命を紡ぐ想い 蓮見庸 @hasumiyoh

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