あの日見た入道雲を

「あれ? 今日はお花屋さんお休みじゃね」

 いつもお墓参りの時に寄るという花屋は臨時休業で、仕方なく手ぶらでお墓のあるお寺に向かった。

 事務所で受け付けをする。よしのは年配の女性と話し込んでいたが、さいわいお寺で用意してあったお花があり、それをいくつかわけてもらえることになった。


 本堂の裏にあるお墓はビルやアパートに囲まれていた。墓石それぞれが整然と並び、昔よく見た鮮やかな色彩のお盆灯籠とうろうが飾られていた。ミンミンゼミの声があたりに響き渡っている。

「ここよ」

 よしのが案内したお墓には真新しいお花が活けてあった。

「誰か来てくれたって、さっきお寺の人と話しとったんよ。たぶんけいちゃんのお友達じゃろうね…。お花まだ新しいけんこのままにしとこうかね」

 よしのは言いながらちょっとしたゴミを拾い墓石に水をかけ、花器からあふれるほどの花を整えて、線香に火をつけた。

「けいちゃん、あっちで元気にしよる? 今日はね、皆実みなみくんが来てくれたんよ。もうびっくりよね。皆実くんあんまり変わっとらんよ。高校の卒業式以来よね。すっごく久しぶりよね。これで久しぶりにまた3人じゃね。けいちゃんが会わせてくれたんかね…」

 煙が俺の涙腺るいせんを刺激した。

「はい、皆実くん、お参りしてあげて」

 俺はよしのと入れ替わり、可愛川えのかわ家之墓と刻まれた墓石を前に手を合わせた。けい以外の可愛川家の人にも見られているようですこし緊張したが、目をつぶりけいのことを思い出していると、彼女のこと以外は何も気にならなくなった。

 おぼろげだったその姿はだんだんと輪郭がくっきりとしてきて、声も聞こえてくるようだった。そしてその横にはやはりよしのの姿もあった。

 ゆっくりと目を開けると、線香の煙は空高くまっすぐ、澄んだ夏の青空に吸い込まれていた。


「ここ見てあげて」

 よしのはいつの間にか墓石の横にまわりこんでいた。

 俺も横に並び覗き込むと、そこには真新しい彫り跡のけいの名前があった。

 よしのは指でゆっくりとその名前の一画一画をなぞっていく。

「なんか寂しいよね…」

「そうだな…」

 けいがいないことは今になっても信じられず、そんなことは嘘だろうと思う自分もいたが、彫られた名前を見ると、もう現実から逃げることはできなかった。

 俺は悲しみのあまり、そっと目をらした。

 その時、ふと隣の墓石が目に入り、そこに昭和二十年八月六日の日付がみっつ並んでいるのが気になった。

「よしの、お隣のこの八月六日の日付の人って…」

 俺は言ってからすぐに気が付いた。

「それね、原爆で亡くなった人よ。詳しくは忘れたけど、お隣のおじいちゃんの兄弟とその子供らしいんよ」

「そうなんだ…」

「皆実くん、もともと広島の人じゃないから知らんかもしれんけど、けっこうあるんよね。他のお墓にも確かあったはずよ。いっぺんにそんなにたくさん人が亡くなって、ほんとかわいそうよね…」


 そして俺たちはここから立ち去るのが名残なごりしく、花で飾られたお墓を前に、まるでけいがそこにいるかのように見つめ続けていた。

「けいちゃんね、昔から体が弱かったんよ」

 よしのは身動みじろぎせずつぶやいた。

「そうなのか?」

 そんなことは初耳だった。予定が合わない時は、たまたま体調を崩しているのだと思っていた。

「うん。だから運動も制限されてて運動部にも入れんかったし、修学旅行も行けんかったんよ」

「そうだったんだ…」

「海に行ったでしょ? 宮島も行ったよね?」

「ああ」

「やっぱり遠出するとけっこう疲れてたらしくて、何日か寝込んだりして学校休んだりもしてたんよ」

「そうなのか…わるいことしたな。海は暑かったからよけいに疲れたのかもな…。そう言ってくれれば…」

「ううん、それがけいちゃんの望みだったんよね。特別に扱われるんじゃなくて、普通にいろんなことをやりたいって。それに皆実くんには気を使わせたくないって言っとったんよ」

「そっか…。そういうところが、あいつらしいのかもな」

「そうかもね…。ねえ、皆実くん。もしけいちゃんの体が弱くなかったら、どうなっとったと思う?」

「けいの体が弱くなかったら?」

「そう。わたしたち、もっといろんなことができたんかねぇ」

「いや、でもそれ以前に、病院で逢ってないかもしれないから、ただ同じ学校に通ってたまったくの他人だったんじゃないか?」

「皆実くんはそう考えるんじゃね。それはそうかもしれんけど、わたしはそうは思わんよ。もし病院で逢ってなかったとしても、きっとどこかで出逢ってこうやって話をしとると思うんよ。学校じゃなくてもバイト先かもしれんし、働き始めてからかもしれんし、それで、ここにけいちゃんもいたかもしれんなって」

 俺はよしのの考えはしあわせだなと思った。

「そうだな。そうだとよかったな…」

「なんだかこうやって話しとると、ほんとにけいちゃんと一緒にいるみたい」

「俺もそんな気がするよ…」

「振り向いたらそこにいたりして…」

 よしのは泣き笑いのような顔をした。

「わたしたち逢うのが早すぎたんかね?」

「早すぎた?」

「うん。もっとゆっくり時間を掛けて別の形で逢っとったら、違う今があったんかなって」

「どうだろうな…」

 線香の煙はまっすぐと、もう半分くらい燃えかすになっただろうか。


「ねえ、皆実くん。けいちゃんの前でもう一回聞いておきたいんじゃけど、高校卒業してから、わたしたちのこと忘れたわけじゃなかったんよね?」

「ああ、ずっと忘れてなんていない…いや、忘れることなんてできなかった。だって、ふたりが俺にとっての初めてだったから…」

「初めてって、なに?」

「初めて気持ちを伝えてくれたのがお前たちだったから、そんなの忘れられないってこと」

「そういうもの?」

「おまえは違うのか?」

「さあ、ね…。でもけいちゃんにもちゃんと聞かせてあげられてよかった」

 よしのはふふっといたずらっぽく笑ったが、今度は急に真面目な顔になって話しはじめた。

「皆実くん、さっき手紙の話したじゃない?」

「ああ、高校の時のやつな」

「そう。それでね、わたしは手紙じゃなくて相手に直接伝える努力をしようって思ったって言ったじゃない」

「うん」

「最近、よく思うんだけど、言葉を尽くして自分の想いを伝える努力をしたつもりでも、それでも伝わるのはほんの少しだけかもしれんし、間違って伝わることだってあるかもしれん。けど、その努力を続けていかんと、その想いだってないのも同じだから、って。けいちゃんがいなくなってからね、もっとしゃべっておけばよかったとか、あれをやってあげればよかったんかなとか、そんなことばっかり気になってしまうんよ。失ってから気付くんじゃもんね…。ほんとなんなんじゃろ…。いろいろ遅すぎるんよね…」

 ミンミンゼミが鳴きやんで、あたりは急に静かになった。

「だからね、はっきり口にして伝えんといけんの…」

 よしのはそう言うと、ふっとやわらかい表情になって言った。

「皆実くん…」

「なんだ?」

 彼女は一呼吸おいて決心したように続けた。

「わたし、ずっと皆実くんのことが好きじゃった。けいちゃんに負けないくらい、好きじゃった。それをちゃんと言っときたかったんよ…」

 俺は目をつぶり、言葉を選んだが、それはなかなか見つからず、少し沈黙した後に言った。

「俺もお前のことが好きだった……けど、それと同じくらい、けいのことも好きだった…」

「あはは…。あーあ、やっぱり振られちゃった」

「いや、そういうわけじゃなくて…」

「いいの、分かっとるけん。皆実くんは嘘なんてつけんもんね。ちょっといじわる言ってみただけよ」

 よしのは笑いながら言った。こういうところが、けいに似ているなと思う。

「あー、すっきりした。あの頃に戻れたらなぁ。でも、結局同じことを繰り返すんかねえ」

「………」

「結局、あの頃と同じなのかもしれんね」

「そうだな。でも、今だったらもうすこし自分に素直になれる気がする」

「そうかもね。あの頃はまだぎこちない感じじゃったもんね」

「俺たち若かったよな。あれが青春ってやつだったのかな」

「青春ねぇ…。皆実くん、よくそんな恥ずかしいことが言えるね。まあでも、昔のことを懐かしく思えるくらいが、ちょうどいいのかもしれんね。しあわせだった時があったって思い出せると、やっぱいいもんじゃけんね」

「…なあ、よしの?」

「なに?」

「いまさらなんだけど…その…もう一度友達になってもらえないか?」

 俺はどさくさに紛れて思っていることを口に出していた。

「友達? なにそれ? わたしを振っておいて友達になってくださいなんて、都合のいい男の発言?」

「あ、いや…そうだよな。わるい…」

「冗談よ。それにしても、ほんといまさらね」

「やっぱりいまさらだよな。嫌われたって仕方ないよな…忘れてくれ…」

「そうじゃないんよ。いまさらあほなこと言わんといて、ってことよ」

「え? あほなこと?」

「そうよ。嫌いな人だったら電話なんかしとらんよ」

「それじゃあ…」

「もう、言わせんでよ。友達もなにも、連絡先も知っとるんよ? わたしたち」

「そうだよな。ははは…」

 俺は肩の力が抜けるのを感じ、こっちに来てからどこかずっと緊張していたことに自分でやっと気が付いた。

 あの頃は難しく考えすぎていたのかもしれない。いや、たぶんそうだろう。友達から始めればよかったんだ。そんな簡単なことが分かるまでに、俺はいったいどれだけ長い時間を無駄に費やしてきたっていうんだ。ほんといまさらだった。

「ねぇ、そろそろ行こっか」

 気が付くと、いつの間にかセミの声が戻っていた。


 お墓を後に、俺たちはビルやマンションの立ち並ぶ通りを歩いていた。

「よしの、今日はありがとうな」

「気にせんといて。せっかく遠くから来てくれたんじゃし、それに、けいちゃんのためでもあるしね」

「けいのため、か…」

「そうよ。ねえ、皆実くん。やっぱりこうやって歩いとると、あの頃を思い出さん? あとからけいちゃんが追いかけてきたりして」

「ああ、部活のない日の帰りとか、けっこう一緒になって歩いたよな」

「けいちゃん、歩くの速かったよね」

「それに比べてよしのは遅かったよな。バドミントンやってたのに、なんで図書部のけいのほうが歩くの速いんだ?って、実はずっと思ってた」

「えー、いじわるー。皆実くん、そんなこと思っとったんじゃね。あはは、懐かしいなぁ。けいちゃんに会いたいなぁ…」

 よしのは小走りに駆けていき、振り向いた彼女の屈託なく笑う表情は、まるでけいそのものだった。よしのとけいのふたりが重なって俺の方を見ているようだった。

 その瞳には涙がたまり、つーっとひとすじ流れた。

「泣いてるのか?」

「ばっかねぇ。なに言うとるん。泣いとったら、こんなに笑っとるわけないじゃろ」

 彼女はまた「懐かしいなぁ」と言いながら、俺に見せないように涙を指でそっとぬぐった。

「ねえ」

「ん?」

「よかったら、またこうやって話さん?」

「ああ、もちろん」

「東京行ってみよっかなー。けいちゃんも一緒じゃけんね」

「あいつも?」

「そう、このキーホルダー見て」

 彼女はカバンから財布を出し、ぶら下がったイルカのキーホルダーを手に取った。

「それは?」

「宮島の水族館で色違いのやつを買っとったんよ。それでね、これをけいちゃんだと思って、形見に持っとるんよ。だから今はあのこと一緒なんよ」

「ああ、そういうことか」

「皆実くんといる時は、けいちゃんも一緒じゃないとね。のけものにしたら怒られるけんね」

 彼女は少しはにかむように、けれど晴れやかな表情でそう言った

「怒られたことがあったのか?」

「そうよ。いっつも、一緒に何してたのかとか、何を話したのかとか根掘り葉掘り聞かれて、そりゃもうたいへんだったんよ。知らんかったでしょ?」

「そんな話、初めて聞いたな。知らないことばっかりだったんだな」

「まあ、これはずっと内緒にしとったけんね。こんなこと話したら、それこそけいちゃんに怒られるよ。よっちゃんとは絶交よって、口も利いてもらえんかったかも」

「ふーん、そうか…。なあ?」

「なに?」

「今バラしたそれはいいのか? そのキーホルダーの前で思いっきりしゃべってたけど? それ、けいなんだろ?」

「あ…」

 よしのはそう言うと、バツが悪そうな顔をした。

「もういいの。もう隠し事はなしよ」

「え? いいのか?」

 俺は思わず笑ってしまった。

「いいの。けいちゃんは一度は怒るかもしれんけど、優しいからきっと許してくれるんよ」

「ならいいけどな。よしの想いだったしな。けどお前たちのけんかの仲裁なんてごめんだからな」

「何よそれ。元はといえば皆実くんのせいじゃけんね」

 そう言ってよしのは楽しそうに笑った。

 俺もしばらく笑っていたが、そのうちに急にとても寂しくなり、振り返って空を見上げた。

 涙がこぼれないように。

 そんな俺を見て先を行く彼女も立ち止まり、同じように空を見上げた。

 セミの声が一段と大きくなり、街の喧騒けんそうをすべて消し去った。

 山の向こうに、大きな白い入道雲が立ち昇っていた。

 どこまでも真っ青な空に、太陽の光をすべて吸い込んだような真っ白な雲。

 そして俺は思い出していた。

 よしのもまた同じように思い出していた。

 自分たちの想いをうまく伝えられなかった、今思い返すといじらしいほどにおさなすぎた若い頃、3人で見た、あの夏の日の、同じように真っ白な入道雲を。

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