人魚と内緒話

黒中光

第1話 人魚と内緒話

 昨日の晩は嵐だった。風がびゅうびゅう吹き荒れ、雨が窓を打ち鳴らす。朝には晴れ上がっていたが、その余波は通学路を歩いていてもよく分かる。カラオケの前では従業員が、破れて隅っこだけになったポスターを新しい物に貼り替えている。以前の物は十代に人気のアイドル桜木比奈子だったのに、今回は店のロゴをデカデカと印刷したつまらない物になっている。。

 ゴミの散乱した坂道を下った先にある学校は更に酷かった。雨水が集まってきたのか、門の下20センチほどに水の跡がある。ここまで水が押し寄せていたのかと思うとぞっとする。

 校内に足を踏み入れると、友達の琢磨が駆け寄ってきた。弾むように走り方は元気が有り余っていて、同じ高校生とは思えない。まるで小学生みたいな無邪気さを残した男だ。日焼けした肌とは対照的な白い歯を見せて笑いかけてくる。

「おい健吾、聞いたか。人魚姫が出たんだって、プールに」

「はあ?」

 この辺りにプールと言えば、この学校のプールしかない。日本全国どこの学校にだってある、ごく普通の25mプール。そんなところに人魚? あり得ない。

「誰だよ、そんな馬鹿なこと言い出したの」

「江口だよ、歴史の江口」

 江口というのは、熊みたいにずんぐりしたガタイの中年男性教師。いつもむっつり不機嫌そうな顔をしていて冗談を言ったところは見たこともない。この手の与太話とは一番縁遠い人間だ。

「江口は一体いつそんなものを見たんだ?」

 池で悠々と泳ぐ鯉に餌をやっている校長に挨拶した後、琢磨に先を促した。

「昨日の晩。江口が当直だったらしいんだけど、校長に言われて色々と対策をやらされたらしいんだ。それでプールの方に行ったら、なんと! びっくりするほど可愛い女の子がプールで泳いでたらしいんだ。しかも、泳ぎ方がこう人間じゃないんだ」

 琢磨はその人魚の真似だろう、身体を前後にくねくね動かした。

「足もヒレみたいになっていて、明らかに人間じゃなかったらしい。はっきり見たって言ってるよ。なあ、行ってみないか?」

「プールに?」

「決まってるだろ!」

 ニカッと爽やかな笑みだが、腕を掴む力は強い。この男とは小学校からの付き合いだが、特に好奇心の強い奴で変わったことがある度に一目散に駆けていく。そして、俺は毎回それに巻き込まれる運命なのだ。

 中学生の頃まではなんとか抵抗を試みたこともあったが、高校生の今ではもう諦めた。

 好奇心溢れる人種は琢磨だけではないと見えて、プールには五人ほどが集まっていた。なにやらザワついている。そこに、ただ事ではない何かを嗅ぎつけた琢磨が隣で目を輝かせた。

 走って行った琢磨は、ゆっくり階段を昇る俺を振り返り、朝から元気いっぱいに手招きした。

「見てよ、見てよ、これ」

「……魚のウロコ?」

「今日来たら、プールサイドに落ちてたんだって」

 鮮やかな赤や白の薄いウロコを渡される。薄くて少し固い。魚のウロコ。

「なあ、これ人魚のか? それ以外ないよな?」

 琢磨が興奮して喚き立てるせいで、考えがまとまらない。

 俺は人魚なんて信じていない。この世に人間と魚のあいのこなんて奇っ怪な生き物いるわけ無い。ましてや学校のプールなんて、あり得ない。

 もう少しで閃きそうなのに――。皆底を覗こうとしている横でバシャバシャ水遊びをされている気分。鬱陶しいことこの上ない。結局ベルが鳴り、俺達はそれを合図に解散することになった。

 授業の間も、人魚姫の話が頭から離れず授業なんて禄に聞いてもいなかった。

 突然現れた人魚姫は何者なのか、なぜ嵐の中プールにいたのか。そして、あの魚のウロコは?

 昨晩に起こりえたことを一つ一つノートに書き出し、リストを眺めているうちに……俺は一つの結論を得た。


**********


 四時間目は歴史。江口の授業だ。読経のように眠気を誘う奈良時代の話が終わった後、教室を出ようとする江口に人魚姫の話を尋ねてみた。すると、江口はばつが悪そうな顔をして噂を認めた。

「本当に人魚姫を見たんですか。どんな人でした?」

「若かったな。二十代くらいかな」

「金髪ですか?」

「おお、そうだ! 綺麗な人だった。よく分かったな!」

「……単なるイメージですよ」

 むくつけき中年男が恥ずかしそうに照れ笑いしている姿は正直あまり見ていたいものではない。だが、江口の言葉は僕の推理に沿った物だった。

「昨日は雨が酷くて、大変だったんですよね。正門の辺り水浸しになってましたし」

「おお、土砂降りの中で校長に言われてな。あの辺が沈むかもしれんって言うんで――」

 江口の話はこうだった。正門付近に水がやってくると、池にいる錦鯉が外に逃げ出してしまう怖れがある。そのため、校長は豪雨が降る中だというのに、江口に命じて鯉の捕獲をさせたのだそうだ。濡れ鼠になりながら、スイスイ泳ぎ回る鯉を網一つで追いかけ回した苦労話を蕩々と聞かされることになった。

 ところで、この学校には水槽がない。では、獲った鯉をどこに移すのかという疑問が出るが、実はこれがウロコに関係する。

 つまり、江口はプールを巨大な生け簀に見立てて、獲った鯉をプールに放したのだ。鯉は大きくて元気が良さそうだから、放すときにも苦労したことだろう。プールサイドのウロコはその時に剥がれ落ちた物に間違いない。あの鮮やかすぎるウロコが観賞用の物でなくて何だというのか。

 残ったのは人魚姫が誰なのかという疑問だけだ。

 放課後、もう一度プールに行ってみると、朝から時間が経って泥が沈み水は随分と綺麗になって底が見えるようになっていた。

 揺れる水面を透かすようにして探してみると、白くて大きな物が沈んでいるのが見えた。あらかじめ江口に教えてもらった網を使って掬い上げる。網の中には、ふやけてボロボロになった紙。マイクらしき物が印刷されているのが見える。

 そっと広げていくと、ボロボロにはなっていたが、アイドル桜木比奈子の姿が現れた。カラオケ屋に貼ってあったあのポスターだ。

 きっと昨晩、カラオケ店の前に貼ってあったものが千切れてここまで飛ばされてきたのだ。等身大のポスターは下半分がよじれていれば、裏の白い部分が人魚の尻尾に見えなくもない。

 もちろん普通、ポスターと人魚は間違えない。

 それでも。

 真っ暗闇。視界の悪い大雨。ゆらゆらと揺れる水面。三拍子揃った状況で、誤解してしまったとしても江口を責めるわけにもゆくまい。

「おーい、健吾。何か分かったか?」

 好奇心の塊、琢磨がやって来た。暇人め。

「ん? ……いや、さっぱり」

「おい、今何か落ちなかったか?」

「何もないぞ」

「なあなあ、人魚ってどんな人だったのかな。メチャクチャ綺麗だったらしいけど。一回会ってみたいよな」

 そこから琢磨は会うならどんな人魚が良いか、何がしたいかを熱く語り始めた。俺はそっと横目でプールに蹴落としたポスターの行方を追った。水泳部がプールの栓を抜いたせいで、ボロボロと崩れながら排水溝に飲まれていく。

 人魚姫も最後には水の藻屑と相成ったわけだ。

「おい、健吾はどう思う? あの人魚。どこから来たんだろうな」

「さあな」

 謎というのは、解こうとして頭をひねるのが面白いのだ。人魚姫の謎は解けてしまえばあまりにも下らない。ならば、真相はここだけの内緒話としておこう。その方がきっと皆、夢を楽しめるに違いない。

 俺達はくだらない空想話を話しながらプールを後にした。

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