第5話 帰宅

 時刻は9時を少し過ぎた頃だった。彩香は玄関の方へ向かうと、母親の陽子が立っていた。


 「ただいま、彩香。今日も遅くなっちゃってごめんね。」


 陽子は申し訳なさそうな顔をしていたが、そのすぐ後に笑顔を見せた。彼女は朝から夕方まで惣菜屋でパートをし、夜は工事現場の誘導員として働いていた。疲れが顔に出ているが、無理に元気そうに振る舞っているのが彩香にはわかる。


 「おかえりなさい、お母さん。大変だったでしょ。」


 彩香は努めて冷静な声で返事をしたが、その声には少しの苛立ちが含まれていた。陽子は彩香の表情に気づき、一瞬だけ顔を曇らせたが、すぐに再び笑顔を作った。


 「そうでもないわよ。工事現場の人たちもみんな優しいしね。それに、夕方のパートも今日は特に忙しくなかったから。」


 陽子はリビングに入ると、カバンをソファの上に置きながら、何か話題を見つけようと必死だった。


 「花音は、もう寝たの?」


 「うん。さっき寝かしつけたとこ。」


 彩香の返事は短く、冷たい響きがあった。陽子は少し困ったような表情を浮かべ、しばらく黙っていたが、何とか会話を続けようと努力した。


 「そう…ありがとう、彩香。いつも助かるわ。」


 「別に、私がやるしかないから。」


 その言葉に陽子はまた一瞬だけ顔を曇らせ、気まずそうに目をそらした。彩香はその様子を見て、さらに苛立ちを感じながらも、何も言わずに階段を上がった。


 2階の自分の部屋に入ると、ドアを閉めてベッドに横たわった。月明かりが薄くカーテン越しに差し込んでいる。彩香は横になったまま天井を見つめ、ため息をついた。静かな夜の空気が部屋を包み込み、時折聞こえる車の音が遠くから響いてくる。


 彩香は体を横に向け、窓の外に見える月を見つめた。月は明るく、夜空に浮かんでいる。カーテンの隙間から差し込む光が部屋の一部を照らし出し、その光の中に浮かぶ影がゆっくりと動いていた。彩香はしばらくその光景を見つめていたが、やがて目を閉じて、深いため息をついた。


 時計の針が静かに進む音が部屋に響き、彩香は布団を引き寄せて、もう一度目を閉じた。外の世界は静まり返っており、月の光だけが彼女を優しく照らしていた。

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