さして仲良くない職場の先輩と飲み会の後に毎回セックスして繰り返し記憶をなくしている百合

風見源一郎

さして仲良くない職場の先輩と飲み会の後に毎回セックスして繰り返し記憶をなくしている百合


 目が覚めると、セックスをした後だった。


 朝の日差しが差し込むベッドの上で、一糸まとわぬ姿で起き上がった真雪は、隣でふてぶてしく寝ている巨乳の女を見下ろす。


 見覚えのある顔だった。

 というより、会社の先輩だった。


 昨日は会社の飲み会があって、酔いつぶれた真雪はこの部屋に運び込まれてきたのだろう。

 記憶は全く残っていない。


 もしかしたら服を汚すような事故があって、先輩が親切にも脱がせてくれたのではないかと、そんな淡い期待を抱いて室内を見渡してみたものの。

 玄関からベッドまで乱雑に脱ぎ捨てられた衣類の数々が、記憶のない夜のまぐわいの激しさを物語っているだけだった。


「嘘だよね……」


 誰も答える者のいないその空間で、真雪は独りごちた。

 これまでの二十四年間を品行方正に生きてきて、色事に一度もうつつを抜かすこともなく、大学卒業までを一直線で進んで大企業の事務員として毎日を真面目に生きてきた真雪が、まさかさして仲良くもない会社の先輩を相手に花を散らしてしまうなんて。


「ふぁ……ん……? 真雪ちゃん……?」


 牛のように寝ていた乳のデカい女が起き上がった。

 スルリと肌を滑って落ちるタオルケットから、その胸の脂肪とは対極にくびれたウエストが露わになる。


 この人は名を立花と言ったはずだ。

 エロくてよく名前が挙がるので覚えている。


「あれ? なんで裸なの? どうして、真雪ちゃんがここに?」


 すっかり混乱している様子の立花に、真雪は横目で鋭い睨みを利かせた。

 人の初めてを奪っておいて記憶がないとは甚だ許しがたい悪女である。


「どうしてもこうしても、見たままですよ。……顔を洗わせてもらいますね」

「は、はい」


 真雪は洗面台に向かう道すがら、脱ぎ散らかされた服を一枚ずつ拾って着ていく。

 立花の分も拾ってやろうと考えたが、スイカの持ち運びに使えそうなふざけたサイズのブラジャーが目に入った瞬間、特に意味はないが止めることした。


「……あれ?」


 洗面台を眺めてみると、真雪が贔屓にしているブランドの化粧水や乳液がチラホラと置いてあることに気づいた。

 立花は後輩に手を出すような魔性の女だが、気が合う部分はあるのかもしれないと少しだけ前向きになる。

 不慮の事故とはいえ純潔を捧げた相手なのだから、嫌いになるよりは好きでいた方が建設的だろうと真雪は考えたのだ。


 顔を洗ってリビングに戻ると、立花はベッドで芋虫をしていた。

 服も着ずに布団に簀巻きになって、しかし寝ることはなくコソコソとスマホをイジっているのである。


 たしか職場では気の利くしっかり者で通っていたはずだが、蓋を開けてみればこの有り様だ。

 立花の隠れファンだとかのたまわっている男どもに見せてやりたい。

 いやこの人とセックスしたとバレるのは困るからやはり誰にも知っていてほしくない。


「立花さん、少しお話をさせてください。具体的にはこの悲惨な事故の取り扱いと今後の接し方についてです」

「えー。もういいんじゃないかなぁ」

「よくありません。先輩にとっては豊富な経験のうちの一つかもしれませんが、私にとっては掛け替えのない一つを失った重大な悩みなんです」

「もう……わかったってば……」


 後輩の初めてを奪っておきながらまるで反省する様子のない立花は、どうにかベッドから降りて服を着た。


 そして、すでにテーブルに着席している真雪を一瞥してから、コーヒー牛乳とヨーグルトを冷蔵庫から取り出し、それを二人分並べて真雪の対面に座った。


「……これ、昨日の帰りに買ったんですか?」


 立花が用意した朝食を見て、真雪は目を丸くした。

 コーヒー牛乳もヨーグルトも、どちらも真雪が好きなメーカーのものだったのだ。


「んー? もっと前に私が買ったやつだよ」


 立花は淡々とコップにコーヒー牛乳を注いで、ヨーグルト用のスプーンを真雪の手前に置く。


 食品ぐらい好みが被ることも珍しくはないとはいえ、こんなきっかけでなければもっと立花と仲良くできたのではないかと思うと、真雪の胸中にえもいわれぬ悔しさが滲んだ。


「それで、本題についてですが」

「絶対に他言はしない。私たちの間でも話題にしない。職場で急に馴れ馴れしくしない。これでいい?」

「え、あ、はい」


 これから真雪が言おうとしていたことを全て言われてしまった。

 さすがに職場では頼れる先輩なだけあって聡明な人のようだ。


 早々に話が終わってしまい、真雪は気まずい空気の中で黙ってコーヒー牛乳とヨーグルトを胃に流し込み、ほどなくして立花の家を出た。


 スマホの地図を頼りに最寄駅に行き、そこから電車で自宅へと到着する。

 家に帰ると、朝までぐっすり寝ていたはずなのに、どっと疲れが出て一日のやる気が根こそぎ奪われてしまった。


 真雪は自室のベッドに倒れ込み、じわじわと頭を悩ませてくるその現実に、目を背けることができなかった。


 ──初体験を、恋人でもない女の人と済ませてしまった。


「先輩……あんなエロい体してるから……」


 一人になって、真雪はふと立花の艶かしい裸体を思い出した。

 初めてを奪われたというのに、立花への嫌悪感はなく、それどころかあの卑猥な肉体を想像して気分が高揚している自分がいる。

 ムラムラと下腹部の奥底が疼くような、そんな掴みどころのない欲求が真雪を悩ませるのだ。


「ダメ。やっぱり忘れないと」


 真雪はベッドから飛び起きてキッチンに移動する。


 男女の見境もなく、酔った後輩を襲うような立花が、性関係にだらしないのは明白だ。


 それに対して、真雪は初めてを奪われて動揺している。

 この気の昂りは性的な興奮ではなく、動悸や何かに近いものなのだと、真雪はグラスにウイスキーを注いでそれを喉に流し込んだ。

 そのウイスキーボトルはいつかの宅飲みの余りを引き取ったものであって、決して真雪は酒好きというわけではない。

 飲んだ記憶もないのに見るたびに残量が変わっているような気もするが、アルコールなのできっと揮発でもしているのだろう。


 真雪はお酒を飲めばすぐに眠ることができる。

 昨夜のことはやはり夢だと思い込むのが一番だと、真雪は朝から再びベッドへと潜り込み、その日はひたすら寝ることに徹して一日をやり過ごしたのだった。






 平日になれば嫌でも仕事は始まる。

 真雪は都内にオフィスを持つ大手企業の事務員として働いており、立花は二つ上の先輩だ。


 とはいっても、立花が所属している部署は席が遠いため、必ず顔を合わせるわけではなかった。


 真雪は自席に着いてパソコンの電源ボタンを押した。

 主な業務は課内向けのメール展開とOSアップデートなどの対応管理で、全体通知メールになかなか目を通さないような社員には何度もリマインドをする必要がある。


 対応の遅い年配の社員に電話で催促するのは億劫だ。

 ご機嫌取りも兼ねて色んな連絡が事務員に押し付けられる。

 若い女の子と話せるのは嬉しいだろうが、やる側としてはナメられやすくもあるので堪ったものではない。


 その点、立花は人の扱いが上手いというか、どんな立場の人間が相手でも和気藹々と話をしているし、所属課がソフトウェア更新などの締め切りに遅れたことは一度もなかった。

 対男性の交渉能力としてそのたわわな胸が緩衝材になっている可能性は大いにあるものの、それを差し引いても立花は優秀だと各方面で評判である。

 なにせ、オンライン会議などの新しいシステムが導入されるたびに、立花がマニュアルを作って部長にまで即検印させるぐらいだ。

 部内の通知メールを見るたびに必ず立花のアドレスがCCに入っていて、ちょっとこの人だけ業務負荷がおかしいんじゃないかと思ったことも真雪にはあった。


 が、そんなのは雲の上のお話であって、真雪は真雪でマイペースに仕事をするのである。


「げっ……打ち上げの取りまとめかぁ……」


 画面と睨めっこしていた真雪の顔がさらに険しくなっていく。


 九月になると二年目の研修生が部内に成果発表をするプレゼン会があり、その後はもちろんお疲れ様を祝した打ち上げが催される。


 新人ならびに事務員に参加拒否権はない。


 なんてことは、大企業ともあって昨今のご時世ではないのだが、どれだけ時代が進もうとも顔を通しておくことは必要になるので、よほどの用がない限りはみんな参加をする。


 無論、立花も来る。

 あれがいないだけで弊社の飲み会の華々しさは七割減すると言っても過言ではない。


 先週あんなことがあったばかりでまた飲み会となると真雪としては気が重たくなるばかりだったが、今回は会場予約の持ち回りが真雪なこともあってそう簡単に休むこともできなかった。


 入社三年目とはいえまだ新人の真雪が予約担当になるのは初めてで、まずは前任者がどのようにして予約をしたのかをリサーチすることに。


 ところが、イベント関連のドキュメントを漁っても飲み会の情報を掘り出すことができず、諦めて知り合いにメールで聞いてみると返ってくるのは「立花さんに相談してみたら?」という回答だけだった。

 飲み会が好きな男性陣の好みを把握しているのも立花だったりするので、実質的にお店を決めているのはほとんどが立花だったのだ。


(ほんとすごい人なんだな……)


 人付き合いが上手いだけでも、仕事が早いだけでも、そんな扱いにはならない。

 会社でこれだけ周りから頼りにされるということが、いかに人間として優秀かを表している。


(うーん……)


 頼ってしまったらもう立花を批難することはできなくなる。


 しかし、真雪にはそれほど迷いはなかった。


(……まあ、いっか)


 意外なことに真雪が立花に感じているのは気まずさだけで、処女を奪われた悲しみはそれほどなかったのだ。


 実際、相談のメールをしてみるとわずか五分でお店の情報を載せた返信がきて、ホームページを見る限りでも座席の仕切り方やコースの値段がまさに今回の打ち上げにぴったりだった。

 しかも、お店さえ決まってしまえば後のことは真雪一人でもできたのに、出欠の取り方や当日の進行まで丁寧に教えてくれる優しさぶり。


 いざ頼ってみると立花の優秀さを改めて思い知らされる。

 あるいはあの性へのだらしなさは、真面目で優秀な姿へスイッチするために、必要があってそうしていたのかもしれない。


(ふぅ……。だいぶメールも捌いたな)


 お昼になるまでひたすらメールを送り続けて、ふと時計を見上げた瞬間にお腹が空いてきた。

 キリがいいのでコンビニが混んでしまう前に昼食を買うことにした真雪は、財布を持ってエレベーターに向かうことに。


 偶然にもそこには立花の姿があって、二人は同時にエレベーターへと乗り込むことになった。


 自分から馴れ馴れしくするなと言った手前、話しかけづらくはあるのだが、お礼を言わないのはさすがに失礼に当たる。


「あのっ、立花さん」


 声が裏返って、ほんのり耳を赤くしながらも、真雪は立花の顔を見上げた。

 真雪も小柄というほどではないのだが、立花は高身長のプロポーションお化けなので、首を上げないと目を合わせられないのだ。


「飲み会の件、ありがとうございました」


 飾り気も何もないお礼の言葉。

 改めて見てみると、立花はその顔の造り以上に魅力的というか、どうにも説明のつかない胸の高鳴りに真雪はドギマギしてしまって、上手く話すことができなかった。


「いえいえ。いつでも頼ってね」


 立花はそれに優しい笑顔で応えてくれた。

 家でグダグダしていたときのぶっきらぼうな風体とは大違いだ。

 これが営業スマイルというものだろうか。


 そんな風に考えると、真雪は胸が急に苦しくなった。

 相手はさして仲良くもない先輩で、会社中の憧れである立花は真雪のものでもないのに、たった一度セックスをしただけで彼女面をしている自分がいる。


(嫌わなきゃいけない相手なのに、私、チョロすぎる)


 真雪は目を瞑って、そんな浅ましい感情を吐き出すように深呼吸をした。


「飲んだときもそれぐらい可愛げがあればいいんだけどねー……」


 急に立花がそんなことを言い出して、さて誰のことかと真雪の脳裏に去来した疑問は、二人以外に誰もいないこの空間に即座に答えを突きつけられることになった。


「私が、ですか……?」


 立花の口調にも驚いたが、それ以上に可愛げがないと断じられたのが意外だった。


 真雪は酒を飲むとすぐ寝るが、人前で粗相をしたことはない。

 どれだけアルコールを入れても気はしっかりと保つタイプなのだ。

 可愛らしく酔った姿を見せた方が喜ばれるというのなら話はわかるが、どうにもそんなニュアンスではなかった。


 そもそも、酔った真雪に可愛げがないと思うのならば、自宅に連れ込んで襲ったりはしないはずだ。


「ま、先輩としてはいくらでも頼ってくれていいから。そのうちランチも一緒にね、真雪ちゃん」


 エレベーターのドアが開いて、立花は真雪にそう告げると先を行ってしまった。


 真雪はわけがわからずぼーっとして、閉まりかけたドアに慌てて飛び出したときには、もう立花の後ろ姿はずっと遠くにあった。






 飲み会当日。

 居酒屋には四十人ほどの社員が集まって、大々的に打ち上げが執り行われていた。


 その店内の一卓で、真雪はおじさん達にお酌をしながら簡単な相槌を打って時間を潰していた。

 乾杯してから、真雪は立花とは一番遠くのテーブルに座っている。

 例のことがあるので立花のほうから気を遣ってくれているようだった。


「真雪ちゃんは良い飲みっぷりだね~」


 絵に描いたようなビール腹の中年オヤジに酒を注がれて、真雪はそれをグイッと喉に流し込む。


 飲んだふりをしてチビチビと口だけをつけていればいいのだが、真雪にはそんな器用なことはできない。


「真雪ちゃん、全然酔わないよね」

「いえ、これでも、かなり酔ってる方で……」

「そう? 顔も赤くならないし、さっきトイレ行く時もしっかり歩いてたし」

「顔に出ないタイプなんですよ」


 真雪は決して酒に強くはない。

 いわゆる気持ちで保つタイプというやつで、人前では酔った様子を見せないのだが、一人になると途端に泥酔するという一番損をする体質なのだ。


 何より女の子を相手にトイレの話を平然と持ち出すとは礼儀がなっていない。

 後少し世の中が厳しくなればこの男はセクハラでしょっ引かれることになるだろう。


 人付き合いにおける要領がそれほど良くない真雪は、そんなこんなで大量のアルコールを仕込まれて、それでも新人たちの発表会感想をどうにか回して一次会を終えた。


(うーっ……気持ちわる……二次会はキツいなぁ……)


 トイレに入ると、途端に真雪は胃の重たさに苛まれることになった。


 まだしばらくトイレに篭っていたいが、幹事である自分がいなくなるわけにもいかない。


 真雪は個室から出て手を洗い、鏡に映る平常通りの見た目をした自分を恨めしく思いながら、「頑張れ」と心の中で繰り返し鼓舞する。


「真雪ちゃーん」


 そんなとき、トイレの入り口から誰かに呼ばれた。


「……なんで隠れてるんですか」


 トイレの入り口から遠巻きに顔だけを覗かせている立花が、心配そうにこちらを見ていた。


「それは、ほら。例のことがあるから」

「ああ……」


 これだけ酔っていればお持ち帰りされる危険性は極めて高い。

 言われてみれば危ない状況なのだが、それ以上に、心配してもらえたのが真雪には嬉しかった。


「誰かに付き添いさせて、帰らせてもらおうか?」


 立花には「自分が」とは言えない。

 今まさにこうしてお喋りをしている後輩を、自宅に連れ込んで処女を奪ったのだから。


「そこまでご迷惑をおかけするわけには。自分から話すので大丈夫です。ありがとうございます」


 立花には今日の飲み会を開くだけでもかなり助けられている。

 これ以上助けられたら、また体を求められたときに断れなくなってしまう。

 そんな価値勘定でいいはずがないのだが真雪にはそう思えた。


 なので真雪は一人で上司に相談しに行くことにした。


「すみません、ちょっと飲み過ぎちゃったみたいで。幹事なのに申し訳ないですけど、二次会は自由開催でいいですか?」

「ん? ああ、いいよいいよ。よく飲んで話してもらえたし、連中もだいぶ満足してるから。てか、ちょっと飲ませすぎだよね。注意しておくよ」

「あ、いえ! あの、自己責任ですので!」

「飲みの話のついでに突いとくだけだから、悪いようにはしないよ」

「そ、そうですか。……ありがとうございます」


 もとよりダメだと言われるとは思っていなかったが、想像していたより和やかに相談ができて、ようやく真雪の肩からは重荷が降りたのだった。


「立花が会計をしといてくれてるから、終わったら一緒に帰りな」

「え、……はい?」


(なんで!?)


 急に立花の名前を出されて真雪はびっくりだった。


「立花さんとですか?」

「君ら最近仲良いだろ? 飲み会があるといつも二人で帰ってるし」

「前回だけでは……?」


 真雪が恐る恐る聞いてみると、上司は片方の眉根を上げて顎をしゃくった。


「あれ? そうだったっけ? まあ俺も解散した後について行ってるわけじゃないからな。……おっ、立花。いいところにきた。帰りの付き添い頼めるか? 何かあったら会社の責任もあるから」


 会計を終えて領収書を持ってきた立花に、上司からご指名が入った。


「箕輪さんのほうが私より家が近かったはずですが……?」

「あいつは二次会に来るから。立花は帰るって言ってたろ? だから、な。よろしく」


 上司はそれだけ言って、二人を残して店を後にした。


 立花は乗り気ではなかったようだが、見捨てると後々問題になるので、真雪の家に向かう電車に乗るまで付き添いをしてくれることになった。


「真雪ちゃん。帰ろっか」

「は、はい」


 居酒屋を出て帰路へとついた二人。


 時間もまだ深夜と呼べるほど夜が更けていないので人通りも多い。

 だいぶ酔いが回っている真雪にとって、道行く人を避けながら歩くのは簡単なことではなかった。


「わっ……と……」


 真雪は足をもつれさせて、転びかけたところを立花が受け止める。


「真雪ちゃん、大丈夫? ゆっくりでいいからね。私の腕でも掴んどく?」

「ありがとうございます。……すごく、楽です」


 真雪は立花の腕にしがみついてヨタヨタと歩きだした。


 肌が柔らかい立花の、高めの体温が心地良い。

 真雪はそう感じていた。


「幹事なのにこんなに飲んじゃってすみません……」

「いーのいーの。逆にさ、幹事が張り切って二次会まで用意しちゃうと、行かなきゃいけない雰囲気になるから。帰れる流れになって感謝してる人もいるんだよ」

「そう、ですか。ならよかったです」


 立花の言っていることは正しい。

 少なくない参加者が一次会だけを楽しみたいと思っていた。


 だが、それと幹事が酔い潰れてしまうのは別の話だ。

 世渡り上手な立花からしたら決して褒められたものではない。

 それでも、今は叱る必要などないと、そう判断しての立花の気遣いだった。


(本当に優しい人なんだよな)


 真雪の心の壁はいつしかなくなっていた。


 立花は、良い人だ。

 まだ取り返しがつく程度の、たった一度の過ちを責め続けるのは、これだけ世話をしてくれている立花に対して仁義に反する。


 真雪は立花をすっかり受け入れていた。


「あの、立花さん」

「なあに?」


 何でも頼ってとでも言いたげな立花の朗らかな笑顔。

 それなりに肌面積のあるスキンシップと、すっかりと回りきったアルコールのせいか、そんな表情を見ているだけで惚れてしまいそうだった。


「もし、立花さんが、お嫌でなければ。お家に泊めてもらえると助かるのですが」


 酔いがかなり体調に差し障っていたため、このまま電車に放り込まれても終点までのピストン運動になりそうだった。


「えっ……! そ、それは……!」


 立花の顔が急に強張った。

 拒絶しているというより、何かに怯えて引き攣っているような表情だった。


「あ、ご、ごめんなさい。水を飲んで床にでも寝かせてもらえれば、次の朝にはだいぶ良くなると思ったんですけど。ご迷惑ですよね」

「う、うーん……嫌ではないんだけど……嫌では、ないんだけどね……?」


 立花は悩んでいた。


 本気で嫌がっているなら、遠回しの表現でやんわりと断るはず。

 こうして露骨な迷い方をするのは、お泊まりOKの気持ちがどこかにあることを暗に示していた。


「何か、ご予定が……?」

「え、えっと……ご予定はないのですが…………あっ、あそこに公園があるから、お水でも飲みながら休も! それで、少し様子を見よう、ね?」

「わかりました」


 立花は公園のベンチに真雪を座らせると、慌ただしくコンビニに駆け込んで、水を片手に走って出てきた。


「はい、どうぞ」


 立花は水の入ったペットボトルを真雪に手渡して隣に座った。


「ありがとうございます」


 真雪はホッと一息をついた。

 すると、意外にもそれだけで体が楽になってきて、思考力が戻ってきたのだった。


「なぜ私はベンチに連れてこられたのでしょうか……」


 真雪は水をガブガブと飲みながら、今更な疑問に思考回路を稼働させる。


 立花の一連の行動は不自然だった。


 いや、そもそも。


「立花さん、なんでそんなに優しいのに、私の初めてを無理やり奪ったんですか?」


 これだけ聡明な立花が衝動的に性欲に走るなんて、どんな事情があったのか真雪には考えもつかなかった。


「あのね。それは真雪ちゃんの勘違いなんだよ?」

「……へ? もしかして、あの夜は何もなかったんですか?」

「いや、それは、かなり激しいのをしたけど」

「したんじゃないですか……」


 どうやらエッチなことをしたのは間違いないらしい。


「いい? 真雪ちゃん」


 立花は真雪の顔を覗き込む。


 どこか緊張した面持ちだった。


「襲われたのは、私なの。真雪ちゃんが私をあの部屋で襲ったんだよ」


 立花は一語一語を強調しながら語った。


 衝撃の事実だった。


「ちょっと待ってください」


 立花の発言が真実ならば大変なことだ。

 しかし、それには不可解な点がいくつもある。


「立場的に考えて、それは非常に難しいはずです。立花さんはお酒も強いですし、勤務年数も実年齢も上です。何より、立花さんの家にいたのは揺るぎない事実なんですから、私が持ち帰られた側なのは間違いありません」


 真雪は一息に話すと、また水を喉に流し込んだ。


「真雪ちゃん本当に酔ってる?」

「酔ってますよ」


 人間には水をがぶ飲みするだけでかなり頭が回るようになる人種がいる。

 真雪がそのタイプだった。


「こほん。じゃあ、私も言うこと言わせてもらうからね」


 ついに立花も腹を括った。

 その頬にはアルコールによるものではない赤みがあった。

 語る側も恥ずかしい内容らしい。


「たしかに最初に手を出したのは私だよ。それは認める。見た目とか、声とか、あと小動物っぽい可愛らしさとか、そういうのが気になってお持ち帰りしたのは、私の過ちだったと認めます」

「認めるんですね」


 告白の内容に歯痒さがあったが、罪を認めてもらえたことに真雪は一つ胸を撫で下ろした。


「あ、ちょっと違うか。お持ち帰りしようとはした。それは認めます」

「未遂だったと?」

「だって真雪ちゃんがお店で私のことメチャクチャにしたんだもん」


 唐突な告白に真雪も咽せた。


「なんですか、その私が立花さんにお店でエッチなことをしたみたいな発言は」

「みたいな、じゃなくてしたんです! 居酒屋の個室でパンツを脱がされてメチャクチャのぐちょぐちょにされたんだから!」

「えっ、ちょっ、そんな」


 夜の公園に思った以上に立花の声が響いて、二人はそれからしばらく黙り込んだ。


 いくらなんでも、そんな話を真雪が信じられるわけがなかった。


「じゃあもうわかった。証拠として、これからその居酒屋に行くからね」

「い、いいですよ?」


 売られた喧嘩は買う。

 という性分でもないが、これは避けられない勝負だと真雪は判断した。


 二人が着いたのはどこにでもある居酒屋のチェーン店だった。

 掘り炬燵式の和室が多く用意されたお店で、暖簾ではなく障子戸によって仕切られているため、なんちゃって個室ではなくきちんと周囲からの視線を遮ることができる。


「たしかに個室居酒屋ではありますね。でも私は来た記憶はありません」

「真雪ちゃんは酔うと全部忘れるから……」


 その真雪の体質が全ての元凶だった。


 この前の処女喪失事件だって、たまたま飲みすぎて記憶が飛んだのではなく、あれでいつも通りのことだったと立花は言う。

 記憶が飛んだのは一度や二度ではないのだとか。


 つまるところ、真雪が処女を失ったのは先週どころではなく、もっとずっと前のことなのだ。


「そんな話、信じられるわけが……」


 立花と真雪が店に入って、下駄箱に靴を入れて鍵代わりの札を取ると、案内役の店員が“ダッシュで”やってきた。


 従業員が店の中を走ってはいけない。


「いらっしゃいませ! 一番奥のお部屋をご案内いたします……!」


 胸に手書きで『板橋いたばし』と書いた名札を付けた店員は、やたらと目をキラキラさせて二人を出迎えた。

 まるで憧れのスポーツ選手や女優さんにでも会ったかのような反応だ。


「あの店員さん、どうしたんでしょうか」

「板橋さんは私と真雪ちゃんを何度も案内してくれてる店員さんだよ」

「やたらとテンションが高いのは?」

「私と真雪ちゃんがここに来るたびにエッチなことをしてるのを知ってるから」

「…………」


 真雪は絶句した。


 もしそんなことになれば、本来なら出禁になっているはず。


 あり得るわけがない。


「こちらの席をご利用ください。周りにお客様も少ないですので。……どうぞ、ごゆっくり」


 店員は何かを期待するような眼差しをひとしきり浴びせてから、別の客の案内へと戻っていった。


 なるほど一つの可能性はある。

 真雪はそれを悟った。


「もしかしてあの店員さん、女の子同士を応援されるタイプの方なのでしょうか」

「本人がどうかは私も知らないけど、そういうのが好きなのは間違いない。私と真雪ちゃんが裸で抱き合ってるところも見られててあれだけ歓迎されてるから」

「そうなんですか……」


 世の中は真雪が思っていた以上に歪んでいた。

 立花が言うには真雪自身もその歪みの一部だということだが。


「で、まさかあの店員さんが証拠だなんて言いませんよね。サクラかもしれませんし」

「もちろん、板橋さんはいればラッキーぐらいに思ってただけだから。他にもまだ証拠はあるんだよ」

「なんだか怖くなってきました」


 自信満々な立花の態度に、試合が始まる前から真雪は押されていた。

 仕事ができる優秀な人物ということは、それだけエッチなハプニングにも抜け目がないということだ。


「今から少しずつ弱いお酒を入れていくからね。記憶が戻ったら観念してね。あと真雪ちゃんが私を襲ってるときの録音があるから聞かせるね」

「えっ、えっ、えっっ」


 立花もやぶれかぶれといった様子で真雪にイヤホンを渡した。


 ドリンクはタッチパネルで注文することができる。


 真雪は耳にイヤホンを装着した。

 それを確認した立花が、録音の再生ボタンを押した。


「────!?」


 イヤホンからはすごい声がいっぱい聞こえた。


 真雪は顔を真っ赤にして、イヤホンをすぐさま外した。


「こ、こんなもの聞かせて……どうやって、録ったんですか……!」


 ぐるんぐるんと耳の奥でリフレインし続ける。


 真雪が立花を襲っているとしか思えないような、淫らな声のやりとり。


『──立花先輩、今日も雑魚いイキ方して可愛いですね』

『んっ、ひゃぁあっ!』

『お店でそんな声出しちゃダメですよ。エッチになるとこんなにダラシないんですね~。また聞かれちゃいますよ? せ、ん、ぱ、い』


 作り物にしてもずいぶんと酷い内容だった。


 真雪が立花を一方的になぶっている。

 これでは真雪が悪者のようだ。


「失礼いたします。ご注文の品をお届けに参りました」


 室内がまだ静かだと判断して店員が迷いなく障子戸を開けてきた。


 サワーのお酒とおつまみが二つずつ。

 盆からテーブルに移されて、店員はまたルンルン気分で戻っていった。


「さあ、真雪ちゃん。飲んで」

「……飲まなきゃダメですか」

「真雪ちゃんは私と二人で飲むと飛んでた記憶が戻る節があるから。確実な証拠なら、これしかないよ」

「うっ……」


 もしあの録音が本物だとしたら。


 真雪には責任がある。

 とりわけ、先日のやりとりに関しては重大だ。

 真雪が立花を襲って、その上であんな無愛想な態度を取っていたことになるのだから。


「んぐっ……ふんっ、ごくっ…………ぷはぁ……」


 真雪はそんな不安を払拭するべくジョッキを一息で飲んだ。


 アルコールの薄いお酒でも一気に飲めばそれなりの血中濃度には至る。


「どう? 記憶、戻ってきた?」

「いえ……記憶は、なにも……」


 思い出したことは何もない。


 しかし、真雪の体は熱くなっていた。


「でも、なんだかムラムラしてきました」

「それはいつものことだよ」

「いつもなんですね」


 どうやら真雪は気の許せる人と飲んでいるときはエッチな気分になってしまうらしい。


「今日はエッチはしないからね」


 立花は断固として拒否する姿勢を示した。


「……立花さん」

「どうしたの」


 立花もお酒を一口飲んで、落ち着いたところで真雪に顔を向けた。


「事の発端は立花さんが私をお持ち帰りしようとしたことですよね?」

「言いたいことはわかるよ。でもそのパターンでいつもエッチに持ち込まれるからダメ」


 立花は鉄壁だった。

 過去の自分が立花を学習させてしまったらしい。


「ならせめてお酒が入る前にこの話をしてくれたらよかったんですよ」

「シラフの時にこんなワケわかんないこと言ったら嫌われちゃうもん」


 真雪はどんどんと強気に、立花は段々と子供っぽくなっていく。

 お酒の力は恐ろしいものだった。


「嫌いませんよ。こっちは先週から立花さんのことが気になってムラムラしてるんですから」

「そうやっていい気にさせても乗らないんだからね!」

「いい大人が……そんなエロい乳をして責任を持たないんですか……!」

「乳は関係ないからー!」


 散々と抵抗をした後、流れで押し倒されることになった立花。


 涙を流して居酒屋のコタツ席に横たわる巨乳の先輩と、その上に覆い被さって息を荒くする真面目な後輩の出来上がりだった。


 もう立花は力尽きている。


「……つかぬことをお聞きするのですが」


 勝勢に入った真雪が、その余裕の中で一つの疑問に思い至った。


「一度はお持ち帰りしようとしたのに、どうして私からせがまれて拒むんですか」


 真雪にエッチなことがしたくてお持ち帰りをしたはずだった。

 そして、立花の言うことが事実だとするならば、立花は真雪と何度も肉体関係を持ったことになる。


「それは…………だって……」


 立花は目を逸らす。


 ほんのりと頬を紅潮させて照れ臭そうにするその顔には、優秀な事務員としての面影はカケラも残されておらず、乙女心をいっぱいにした純朴な女の子としての立花がそこにいるだけだった。


「エッチするたびに、好きになるから。ツラいんだもん」


 立花は酔いの回ってきた顔を腕で覆い隠す。


 朝になれば真雪に忘れられて、距離を置かれて、振り出しに戻るどころか何マスも後方からのやり直しを繰り返してきた。


 だからこそ、酒の勢いでエッチをしたくはなかった。


「なら──」


 真雪は立花の唇を強引に奪って、そのまま舌をねじ込んだ。

 このままでは同じ事の繰り返しになってしまうのに、強く抵抗することができない。


 立花もずっと真雪とキスがしたくて仕方がなかった。

 それは決して、世界がリセットされてしまうような切ない時間のループではなく、その体には立花と何度も柔らかい肌を重ねた経験が確かに刻まれている。


 この一週間余りで真雪は立花のことが好きになってしまった。

 その過程を真雪はごく自然なものだと思ったし、なんならあの事後の直後から真雪は立花のことを意識していた。


 だからこの日も、行為に及んでしまった。

 気が狂うぐらいに気持ちよかった。


「──はぁ、ああっ……うぅ……お店で、こんなことまで……」


 立花が息を切らしてぐったりしている。

 床がもうびちゃびちゃだった。

 座布団にもシミができている。


「ある程度片付けたら、後処理は板橋さんに任せて帰りましょうか」

「……そう、だね」


 服を着て店員を呼ぶと、息の荒い板橋が全てを悟った顔で伝票を渡してきて、二人は会計を済ませて居酒屋を出たのだった。


 夜風が汗ばんだ体に心地よく吹き付けている。


「先輩の家でいいですよね?」

「う、うん。あの……真雪ちゃん、私のことまだ好き……?」


 あんな無様なイキ姿を見てしまって、立花は真雪の気持ちが冷めていないか心配だった。


「好きです。なので先輩の家でセックスがしたいです」

「わっ……す、ストレートだね、真雪ちゃん……」


 真雪の答えを聞いて、立花は高潮した照れ顔を隠した。

 これだけ淫らな本性を晒しても好きでいてくれる真雪が、立花にとってはなにより居心地の良い場所になっていた。


 そして、立花の部屋へと帰宅した二人。

 真雪は幾度となく訪れているようなのだが、やはり二回目の訪問としか真雪には思えなかった。


 お風呂場でイチャイチャしながら一緒にシャワーを浴びて、髪の毛を代わりばんこで乾かして、それからは服も着ずに、二人でベッドに雪崩れ込んだ、またその唇を重ねた。

 お店にいたときよりも深くて長い、本気のキスだった。


 立花が本気で人を好きになるようになったのは社会人になってからだった。


 それまでの学生時代は、ネットや合コンで出会った女性を年齢の上下問わずお持ち帰りしまくっていて、それは完全に体目的だったことを立花も認めている。


 社会人になってから、真面目に恋人を探して、真剣な交際に至った人も何人かはいた。

 ただ、性欲が強いのは立花の生来の気質であり、そのエッチが好きな自分をオープンにするたびに、前向きでない感情を向けてくる者しかいなかった。


 体目的だと疑われ、浮気性だと断じられて、明るく振る舞えば振る舞うほど、立花から彼女たちは離れていった。


 それが、ありのままの立花だったとしても。


 だから、言葉上ではどれだけトゲトゲしくても、心の奥深くでは自分を受け止めてくれるとわかったとき、立花は真雪に恋をしてしまったのだ。


 初めて真雪をお持ち帰りしようとした日、あらゆることを暴露した立花を、逆に真雪が襲い返したそのときである。


 この関係がいつからのものかはわからないが、何度忘れても諦めずに好きでいてくれた立花に、真雪は安心感を覚えていた。


 体はこれまでの蜜月を覚えていて、真雪はとっくに立花のことが好きだった。


「はぁ、はぁ……はぁ…………ふぅ…………」


 心地の良い疲れに身を包まれて、真雪は立花の肌の柔らかさについ眠くなってしまった。


「ううっ……すみません、これからってときに……」

「いいんだよ。お酒も飲んでたのに、ここまでよく保ったほうだよ。私は、もう満足だから」


 立花は真雪を横に下ろすと、背後からハグをする形で密着して、二人は裸のまま就寝することにした。


 直後、真雪は耳朶に温かな吐息がふれていることに気づいた。


「────」


 立花が何かを言いかけたのだと、真雪にはわかった。

 でも、立花は真雪の耳を甘噛みするだけして頭を引いて、まるでそれが目的だったかのように誤魔化したのだった。


 それからは、静寂の時間。

 背中に当たる立花の胸からは、まだ脈の早い鼓動が聞こえていた。


「……呼び捨て」


 眠りに落ちる直前、真雪は反射的な口の動きで言葉を紡いだ。


「ちゃんと、続けてくれたら…………今度は、私も、立花さんのことを……」


 そこまで言って、真雪は、夢の世界へと落ちた。


 それが自分の言いかけたことへの返答だったことに立花は驚いて、それからは、胸の高鳴りも落ち着いて。

 立花は真雪を強く抱きしめて、耳元で最後に想いを呟いてから自らも眠りについたのだった。


 ──ずっと好きで待ってるよ、真雪。















 朝、真雪が目を覚ますと、知らない部屋にいた。


 カーテンから漏れる陽射しが掛かっている壁時計には、9時前の位置に短針が伸びている。


 知らない布団に、知らないベッド。そして、隣には、真雪の見知った女性の裸があった。

 真雪も衣類の一切を身につけておらず、状況を見るに二人が事に及んだのは明白だった。


「嘘……」


 それは真雪が社会人になって初めての過ちだった。

 学生時代にだって色事にうつつを抜かしたことなどなかったのに、おそらくは酔った勢いで、真雪はさして仲良くもない会社の先輩に処女を捧げてしまったのだ。


「んっ……ふぁ……はれ? 真雪ちゃん……?」


 隣で寝ていた乳のデカい女が目を覚ました。

 全身ふわふわでどこを触っても柔らかそうなその豊満ボディの女性は、立花という名前だったはずだ。


 会社ではそのルックスと優秀さで有名な人だった。


「あっ……そっか、私……」


 立花は何かを思い出したようだった。

 そして、すぐ隣で困惑している真雪の顔をジロジロと眺めている。


「な、なんですか、そんなに私のことを見て。よく見たら好みじゃない子とかでしたか?」

「ううん。……すっごく好み」

「────っ!?」


 立花がしっとりとした声で告白じみたことを言うので、真雪の心臓がドキリと跳ねた。


「な、なっ……! わたっ、私、顔を洗ってきます……!」


 真雪は逃げるようにベッドから下りて、ダッシュで洗面所へと向かうと、顔を洗ってから床に落ちていた服を着た。


 どうやら、部屋に帰ってきてからすぐに二人はイチャイチャしていたらしい。


 真雪に続いて立花もベッドから出てきて、お互いに支度を済ませてからは、朝食の時間になった。


「軽食ですが、どうぞ」


 立花はテーブルにコーヒー牛乳とヨーグルトを用意していて、なぜか真雪の朝のルーティーンを把握していたのだった。


 はたしてどのような経緯で真雪が贔屓にしているメーカーを知ったのか、真雪が疑問に頭を悩ませていると、


「真雪」


 耳元でそう囁かれた。


 その声を聞いた瞬間に、真雪の全身の産毛が逆立って、心の中にある何か大切なものに触れられたような感覚に襲われた。


「あ、あの、さっきからなんですか?!」

「ううん。なんでもない。さ、食べて食べて」


 立花はニコニコ笑顔で卓に着いた。


 真雪はやりづらそうに差し出された食事を食べ始める。


 それからは、酔った勢いで処女を散らしてしまった悲惨な事故の取り扱いについて二人で話し合って、長居をすることもなく真雪は帰ったのだった。





 家に帰っても立花の声が忘れられなくなった真雪は、休日を悶々と過ごした。

 平日になるまでそれは続いて、出勤の気の重たさがちょうどそのドキドキを相殺してくれた頃、ようやく真雪の気持ちは落ち着いたのだった。


 真雪が会社に着くと、立花は遠くの席ですでに仕事を始めていた。

 それぞれの所属課が遠くの位置にあるので、何かのきっかけがなければ顔を合わせることもない。


 もうしばらくは課を跨いだイベントはないので、事務員同士のランチにでも誘われない限りは会うこともないだろう。


 真雪はそのことに安心をして、そして、同時に寂しさも覚えた。


 立花の裸が忘れられない。

 たった一回エッチをしただけで、しかも真雪には事の最中の記憶などないのに、どうしてこれほどまでに気になるのか。


(そもそも、なんで私だったのかな。……呼び捨て、されたし)


 名前を呼ぶなんて、世の青春を謳歌している男女からしたら、なんてことのないやりとりだ。


 しかし、真雪にとってはそうではなかった。


 真雪、と呼ばれたときの、立花の声が、まるで録音した音源が脳内で流れているかのように鮮明に思い出されて、ずっと胸をモヤモヤさせた。


 仕事なんて手につくわけがなく、真雪は単調作業で終えられるものから順に片付けていく。

 印刷物の整理など、できるだけ体を動かすタスクも優先して行った。


 ただ、それは真雪にとっては完全に裏目で。

 単調作業に向けていたはずの集中力はすぐに妄想へと費やされ、体を動かしていると立花が目についてしまって、いつしか時計の針が早く進むことを祈るぐらいしか真雪にはできなくなった。


 そうして迎えた退社の時間。

 締め切りを迎えているものがないことだけを確認した真雪は、その日は早めに上がることにした。


 すると、


「あっ────」


 エレベーター前で、また真雪は立花と一緒になった。

 驚いているのは真雪だけで、立花はちっとも意外そうにしていない。


 きっと立花は真雪が混乱していることまで見抜いていて、定時近くで帰ることを予測して自身も早めに仕事を切り上げたのだ。


「お疲れ様」


 立花からの労いの挨拶に、真雪は上手く声が出て来ず、お辞儀だけをして返した。


 エレベーターに乗り込んで、立花は、何も言わなかった。


 定時に帰宅すること自体は何ら不思議ではない。

 しかし、このタイミングは図られたものだ。

 真雪はそう確信していた。


 それでも、立花は何をしてくることもなくて、一階に降りると「じゃ、またね」とだけ言って、手を振りながら去ってしまった。


 いったい、立花は何がしたかったのか。


 もし、ただ真雪の顔が見たかっただけなのだとしたら。


 それは…………嬉しい、


 と、真雪はそう思った。


 真雪は職場のビルから出て、交差点を見渡す。


 立花はちょうど横断歩道を渡ったところで、その瞬間に信号は赤になった。


 もう歩いては追いつけない。

 走って追いついてまで、聞くこともない。


 視界の先に見えている駅に着いてしまえば、真雪と立花は帰る方向が違うので、どうせそこでお別れになるのだ。


 明日になればまた同じ席に立花は座っている。


 用があればそのときに話しかければいいし、そもそも、真雪には立花に用なんてない。


 だから、


 それは、


 ただなんとなくだった。


 真雪はその背中を見送ってはいけないと思った。


「立花さん……!」


 走って立花に追いついた真雪は、息を切らして立花の横に並んだ。


「どうしたの?」


 不思議そうに首を傾げる立花。

 その口元はどこか嬉しそうに緩んでいた。


「あ、あの……」


 真雪は大きく息を吸った。


 どうしてかはわからない。


 でも、立花と一緒にいたいという気持ちだけは、確かに真雪の中にあった。


「……ええと、その」

「うん……?」


 何かを言おうとしたものの、ただ追いつくことしか考えていなかった真雪の頭は真っ白だった。


「特に用があるわけではないのですが」

「えー、なにそれ、何もないの?」


 立花は笑って、嬉しそうにしてくれた。


 そんな立花の顔を見て、真雪は、ふと思いついたことをそのまま口にした。


「これから、飲みにでも行きません?」


 シラフの真雪からの、初めての誘いだった。


「え、いいの? 行く行くー!」


 それを軽いノリで引き受けた立花は、真雪の手を取って、また歩き始めた。


 真雪はその距離感を自然なものだと思った。

 むしろ、真雪の方から腕を掴んで身を寄せていった。


 急なことではなかった。


 二人にとってはそうしていることが一番しっくりきた。


「今日は弱めのお酒で」

「だね。真雪のお酒は、私が注文するからね?」

「そこまでしていただかなくても……」

「しーまーすー!」


 そんな和気藹々としたお喋りをして、二人はまた居酒屋に入って、それからは──





 二人の間には、お店ではキスまでにするルールができた。


 どちらともなく決めたそんなルールを律儀に守って、抑えきれない欲望のままに、立花の家に雪崩れ込む二人は繰り返し愛を育んだ。


 寝ても覚めても、好きな人がいることが日常になった。


 それでも、二人にはまだ足りなくて。


 いつしか、二人の帰る道は、毎日同じ方向へと向くようになっていた。

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さして仲良くない職場の先輩と飲み会の後に毎回セックスして繰り返し記憶をなくしている百合 風見源一郎 @kazamihitori

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