第二十五話 語り・千菊③
夕刻に帰宅すると、家には明かりが点いていた。母が帰ったんだ。
中へ入り、そ、と部屋の戸を開けると、母はこちらに背を向け正座をしていた。そして背中を向けたまま「どちらへ?」と僕に訊ねた。
わざと
母はたまらない、といった様子で振り向くと「西尾さんのところではありませんね?」と険しくその目を怒らせる。
いつもならば否定をしつつなんとか許しを乞おうとするところだが、今日の僕はいつもとはちがう。無表情で黙る僕に母はかまわず続けた。
「あの子にはたしかに光るものはあるわ。だけどあなたには『さつきさん』という立派な許嫁がおりますでしょう? それなのに他の娘にふらふらと移り気をするなんて……母としてこんなに恥ずかしいことはありません!」
す、と立ち上がると、僕と向かい合った。
叱られている最中だというのに「こんなに背が低かったっけ」などとよそ事を思う。
「西尾さんのことはお忘れなさい」
「いいですね?」と念押しされて、僕は俯いてついに「ふ」と笑った。
また一時の間が空く。
隣の部屋にある年代物の振り子時計の音がやたらと耳についた。カッコチ、カッコチ、
「お母さん」
まっすぐ向いて呼んでみると、母はなぜか少し怯えた顔をした。
「お父さんと、会ってきました」
ちょうど振り子時計がボーン、と六つ鳴り出した。真夏の6時はまだぼんやりと明るい。虫の声が遠くで聴こえる。
「……なん、ですって?」
「お父さんと。『龍崎
母の顔色が明らかに変わった。青ざめた、と言っていいと思う。
「手紙をもらったんです。15の誕生日に」
「どうして私に言わなかったの!」
「言ったらすぐに取り上げて捨てたでしょう?」
母は黙った。
「お父さんは、僕の自立を応援してくれるそうです」
「自立……ですって? あなたが?」
「はい」
また
「高校からは、ひとりで暮らします」
「馬鹿なことを言わないでちょうだい」
「真面目に話しています。お父さんと相談して、そう決めました」
母は頬とこめかみを押さえるようにして、ふらりと隅のイスに腰を降ろした。
「子どものあなたに一人暮らしなどさせられるわけないでしょう」
「15はもう子どもじゃない」
「15はまだ子どもですっ!」
ひりひりとこちらを見るその目は赤く、よく見ると濡れていた。そこに追い討ちをかけるわけではないけれど、母にはもうひとつ伝えなければならないことがある。
「お爺様に『お菊』を、終えさせていただきました」
「なっ……」
「お母さんの許可を得ずに申し出たことはお詫びします。ですが」
「なにを勝手なことを! あなた、ご自分がなにを言っているかわかっているの!? これまでうちがあのお方にどれだけのご恩を頂戴してきたことか」
「僕を恩返しの道具にしないでください!」
声を張ると、母は竦んだように黙った。
「……実の親に『気味が悪い』とまで言われて、あんなことを続けられますか」
ひとたび目が覚めてしまったら、もう『人形』には戻れない。
「僕は男です」
自分でも聴こえる、低い声。周りの女性たちを小さく感じる、高い視点。筋張った大きな手。
「僕はスズちゃんが好きだ。さつきさんではなくて、スズちゃんが」
母を苦しめたいわけじゃない。だけど。わかってほしかった。否定しないでほしかった。
彼女を。そして僕を。
「スズちゃんの茶道部復帰を許可してください。それと……、僕とさつきさんとの許嫁の約束を、解消してください」
自分でも嫌になるくらいの、まっすぐ正しいお辞儀を母へと向けた。
母は小さく息をついて、部屋を出ていった。
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