第二十四話 語り・千菊②
*
旅館の外は薄暗くなってきていた。僕は静かに鏡の前へと移動すると明かりを点け、化粧をして、旅館の浴衣を脱いで、床に脱ぎ捨ててあった女性用の着物に再び袖を通す。
仕上がった鏡の中の『その
旅館の人に母を呼び出してもらい「お爺様のお屋敷にもどります」と告げると、母は特になにも言わず「では車を呼びましょう」と手配した。
お爺様との茶事のことは、ほとんど記憶にない。お屋敷内での僕は本当にただの人形だった。声も発さない。表情もない。お爺様はそれをとても嬉しがり、その夜は前夜よりもさらに長くなった。
だけど、僕は腹の中で決めていた。
「これで最後だ」と。
日付けを超えた茶事の終わりに、深々とお辞儀をしながら自らの低い声でお爺様にこう申し出た。
「……『お菊』を、終えさせてください」
下げた額はもう畳に付いていた。声を発したこと、辞退を申し出たこと、どんなにお怒りになられるか。殴られるかもしれない、と覚悟していた。
けどお爺様は「ははん、それでか」と納得しただけだった。
「顔、あげんさい」
言われてゆっくりと頭を上げる。僕を見てお爺様は「うん」と頷くと「おおきにな」と笑った。
翌朝は日の出前に起きて中学校の制服に身を包んだ。お爺様が起きたらすぐにお屋敷出ようと荷物をまとめて準備を整える。
「うわ。ほんまに男子やん」
声に驚いて振り向くと、障子戸の脇にパジャマ姿の綾音嬢が立っていた。
「ごめん、起こしてしまった?」
「んーん。お菊ちゃんがおらんなる気がしたから。気になって勝手に目ぇ覚めたんよ」
言いつつ座敷に入ってきて改めてというように僕の制服姿を眺めてきた。
「へぇ。なかなかかっこええやん。綾音は
「……はは」
「もうここには来んの?」
「さあ。……少なくとも、『お菊』では来ないかな」
答えると綾音嬢は「そ」と察したように微笑んで「ほんならね」とあっさり手を挙げたかと思うといきなりかわいくあくびをした。「やっぱ眠い。もうひと眠りするわぁ」
障子戸のところで「また
「先に帰宅させていただきます」
起床されたお爺様にそう母への伝言を頼んでお屋敷を後にした。
母に抗議する気はもうなかった。それよりも、一刻も早く自宅に帰って調べたいことがあった。
「これだ……」
ひとり自宅に着いて、汗を流しながら自分用の引き出しをひっくり返してようやく見つけたのは一通の手紙。
宛名は僕。差出人は『龍崎
開封済みの封筒から、便箋を抜き取る。
堅い雰囲気の手書きの文字が並ぶそこに書き添えられている番号を、慎重に画面に打ち込んだ。
耳に当てると、呼出音が聴こえた。
「…………千菊です」
指定されたのは隣の市の、よくあるコーヒーショップだった。
「よく来たね」
父はそう言って僕を迎えた。
「父さんのこと、憶えてる?」
「いえ」
答えると「そうか……10年以上も経つからね」と寂しげに微笑んだ。
手紙を受け取ったのは先月。15歳の誕生日当日のことだった。下校時、家の前で待っていた見知らぬ人から手渡しされた。
気味が悪くて最初は捨てようかと思った。だけど差出人が自分と同じ『龍崎』の苗字だったこと、それに手紙の書き出しが『15歳になった千菊へ』となっていて、思いとどまった。
母からは「父は死んだ」と聞かされていた。
事情があって二人は別居していた、とも。
そんな中で受け取ったこの手紙は僕にとってかなりの衝撃だった。正直、混乱した。手紙の主は本当に父なのか。本当だとすれば父は生きていて、母は僕に嘘をついていた、ということになる。
内容はそれほど複雑なものではなかった。
元気にしているか、生活に不満はないか。
そんな当たり障りのないものか、と思ったら、続きにこうあった。
『もし今の暮らしを変えたいという思いがあるのなら、下記の番号に連絡してほしい』
『15歳はもう親の言いなりになる歳ではない。私は千菊にひとりの男として自由に生きてほしい。父親として、千菊の力になりたい』
──ひとりの男として。
父は僕が母の意のままにされていることを、女装させられていることを、知っていたのだろうな、と文からなんとなく読み取れた。
最初に読んだ時、この手紙は特に僕の心に刺さることはなかった。
だけど今は────。
「お父さん」
四角いメガネをかけた、頭の良さそうな人だった。
「頼みがあります」
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