写真の女

森野枝 直瑞(もりのえだ すぐるみ)

第1話

 西東京の中央線沿線にAという大学があった。都内の大学にしては珍しく広い敷地があって、正門から裏門まで続く並木道が一本走っている。この夕刻ごろになると、道の先に沈んでいく夕陽が、辺りを赤く塗りつぶしていった。


 両側の並木からヒグラシが鳴く中に一人の男が見える。男はこの大学の学生であり、小型のデジタルカメラを片手に、あっちの花壇、こっちの街路樹の下とふらふらと歩いている。


 今年の盆の休みのことである。男は友人たちと伊豆へ小旅行をした。男は写真に興味はなかったから、その旅行でもスマートフォンのカメラで済ませようとしていた。しかし旅程を組む段になってから、友人に「写真はカメラで撮らなくっちゃいけない」とうるさく言われたので、ラーメン屋のバイトで稼いだ金を叩いて、手頃な小型デジタルカメラを購入したのである。


 その旅行で、風景やら友人やらを写真に収めるうち、男も何やら得意な気持ちになってきて、その後もしばしばカメラを携えて出掛けた。今も、さも心得があるような様子で、花壇の花の一房だけ注目したり、並木の真ん中に座り込んで、道の向こうを映すように、やたらに写真を撮っているのである。


 男が次の被写体を探して、なんの気無しに並木の端に並ぶベンチを目で辿って行った時、一番遠いベンチのそばに、ふと女の立っているのが見えた。女はぼうっと立っていて、時折、女の立つ場所を茂った木の影を縫って刺す夕陽が照らしていた。

 その女に目を凝らそうとしたとき、男は不意にシャッターボタンを押してしまった。男があっと声を上げた時には、電子音が鳴って、もうシャッターが切られてしまった後であった。

 何を撮ってしまったのか、男は急いで撮ったものを見返そうとした。その時、背後から彼を呼ぶ声が聞こえた。男が振り向くと、彼の友人がゆっくりと彼の方にやってきているところであった。男がもう一度ベンチの方を見ても、女の姿はなかった。


 その夜、男はベットに寝転びながらカメラをいじって、今日撮った写真を眺めていた。最後の一枚に、あの不意に撮ってしまった写真に目が止まった。並木のベンチの側に立つ女の姿が写っていた。写真の女は、薄青色のノースリーブのワンピースに茶色の丈の短いカーディガンを羽織っていて、黒いボブカットの間から大きな目と泣きぼくろが覗いている。写真の女は男に気がついているふうにこちらを向いていて、その瞳で男のほうを見ているような気がした。


 男は記憶の中の知っている人物と色々と付き合わせてみたが、行き当たるものはなかった。彼は小一時間写真を眺めていたが、友人達に心当たりをそれとなく尋ねてみようと考え、カメラの電源を落として布団に潜った。


 翌日から、友人や同期にも尋ねて回るも、誰も写真の女は知らないという。男はその写真を見せなかった。色々と勘ぐられるのは嫌であったし、なにより写真を見せてしまうと、写真の女が背景を残してふっと消えてしまうような気がしたからであった。


「そいつは幽霊さ。昔飛び降りた学生がいたらしいぜ。あんまり気にしてると取り殺されるぞ」

 男の知り合いの或る先輩はそう言って茶化したが、男は取り合わなかった。


 それから、男は気がついたら周りを探るようになった。講義へ出席する道すがら、電車の中、大学付近の駅のホームに写真の女が立っていないか、大学に続く商店街、あの並木道を歩く途中で、あの女と行き当たりはしないかと観察した。そうして教室内にも姿がないのを認めると、小さくため息をつくのであった。

 男はカメラからスマートフォンに移すと、その写真をしばしば眺めた。眺めてはため息をつく、そういった日々が何日も続いた。


「何を見てるの」


 男がスマートフォンから顔を上げると、手洗いから戻ってきた女が側に立っていた。男は、なんでもないよ、と言って、スマートフォンを仕舞って立ち上がった。男にも親しくする女ができた。しかし、写真の女とは違い、目元にはほくろがなかった。彼らは大学の卒業式に出席するため、一緒にカフェを出た。

 彼らが大学に着くと、正門のところに友人らが集まっていた。


「みんなで一枚撮っておこうよ。カメラ持ってきてるでしょ」


 男はカメラを取り出すと、友人たちにもう少し寄るように声をかけてファインダーを覗き込んだ。その時、ファイダーの向こう、友人たちの背後にあの女の姿が見えたような気がした。男はファインダーから目を離し、写真の女を探そうとした。背後に目のピントが合わないうちに、女がどうしたの、と声をかけた。写真の女はどこにも見えなかった。男はまた、なんでもないよ、と言った。


 それから、男は二度カメラを買い換え、今は立派な一眼レフを下げて回るようになった。あの小型のデジタルカメラは彼の部屋の隅に今も置いてある。スマートフォンも何度か機種を変えたが、あの女の写真は今でもスマートフォンの中に眠っている。

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