第36話 彩乃の社会見学 ④聖女カタリナ
王都の壁の外。共同墓地からさほど遠くない場所。
「ここは何なの?」
「見ての通りです。いわゆるスラム、貧民街ってのですね」
廃材を組み合わせただけのバラックが立ち並ぶ。小さな子どもが走り回っているが、大人の姿は僅かしか見えない。その仮小屋の中に引き籠もっているのか、外に出ている者からは気力を感じない。彩乃が見渡す限り一面、希望の喪失した世界が広がっていた。
「あれは?」
「ああ、教会の炊き出しですね。末端の司祭やシスターが貧民たちのために行っていることです。彼らに政治的意図はありませんから、近くで見ても問題ないですよ」
「そうなんだ。教会もいいことしてるんだ……」
「ええ、彼らにとっての生命線。いや、教会組織のネットワークによってこの国も生かされているという意味では、すべての国民が依存しているといえます」
大きな鍋がいくつも見え、そこから長い列が何本も伸びている。
「はい、どうぞ。はい、次の方」
「あの人、綺麗……。由美お姉ちゃんもそう思うでしょ」
「ああ、あの方は……、せ、聖女カタリナ様です……。このような場にいらっしゃるなんて、私も存じませんでした」
「聖女様!? も、もしかして、お母さんのあの本を書いたっていう」
「い、いえ、それは噂でして。あんな話が書けるのは魔王討伐にともに向かった聖女様くらいだろうって言う、私たち読者の希望というか、願望というかですね……」
「私、ちょっと行ってくるよ」
「えっ? あ、彩乃様!」
無邪気に駆け出していく彩乃。聖女に顔を知られている由美たちは追うのを躊躇った。自分たちの存在から彩乃の素性を詮索されかねないかと考えたのだ。
彩乃は離れた場所に立つとそこから炊き出しの様子を眺めていた。本日分の配給が無くなったのか、人々は去りはじめ、聖職者たちは後片付けを始める。聖女には特に武装した護衛のような者が付いてはいなかった。聖女も重たそうな大鍋を運ぶのを手伝おうとしていたが、そんなことは恐れ多いといった感じで脇へと移動させられてしまったように見えた。見た目は彩乃より少し上の乙女のようではあるが、それは女神の加護によるものらしく、彼女が聖女として見出されてからおよそ50年その姿に変化がないのだということは、由美から聞いていた。
「こんにちは。あなたは見ない顔ですね。仕立ての良い服からここの住民ではないご様子。何か教会にご用でしょうか?」
彩乃が声を掛ける前に、暇を持て余していた聖女のほうが気づいて近づいてきた。
――そうだ私、裕福な家の子どもの設定だった。そりゃあ目立っちゃうわね……。あの本は持ってきたけどなんて言ったらいいんだろ?
「え、えっと……」
「ん? ああ、なるほど」
戸惑う彩乃の手にある『賢王シャルロッテの凱旋』を見て合点がいったように頷く。
「はい?」
「その本の愛読者の方ですね。ときおりサインを求められるのですけども……。本当に困ったものですね」
「あ、あの……、聖女様が書かれたのではないのですか?」
「はい。正確には……。せっかくなのであなただけには教えて差し上げましょう。これは私が語ったものを枢機卿が文章にしたものですよ。お嬢さん」
――す、枢機卿ってあの悪いやつの親玉!? それに私の変装、バレてるし……。いや、これはふつうか……。
「えっと、し、シャルロッテさまと仲が悪いんじゃ……」
「ふふっ。そう見えるかもしれませんね。彼のことは教会に長くいる私にもよく分からないのですけど、王についてとってもご興味があったようです。それでいろいろと聞かれたのです。名前を伏せてはいますが、まさか本にして出版するなんて私でさえ驚いたものです。現在、姿を隠されておられるシャルロッテ様の人気を後押しすることにもなってますし。ああ、枢機卿のいまの関心は別の方に向いているご様子。まったく何を考えていらっしゃるのだか……」
彩乃はなぜか分からないが背筋がぞくっとするような感じがした。
「ああ、そうですね。あなたはこのスラムのことをご存知無いようですから、もうひとつ教えて差し上げましょう。私、いますることが無くて暇なのです。どうぞお付き合いください」
聖女はそう言うと彩乃の手をとって歩き出す。彼女の手の柔らかさにドキッとした彩乃は本を落としそうになったが、なんとか平静を装って彼女についていく。
――これって本物の高貴な人の手だよ。同性なのに顔が熱くなる……。
少し歩くと、先程の炊き出しほどではないが行列ができているのが見えた。それは大きなテントへと続いていた。
「何の列ですか?」
「積極的に救いを求めている方たちですよ」
「?」
並んでいるのは男ばかりだった。上着は脱いでおり上半身は裸で、テントの入口で目や口の中を確認され簡易的な健康チェックを受けているように見えた。
「ここに住んでいる人たちの大半は人生に絶望しています。私たちが行う食事の配給に顔を出す方はまだマシでしょうか。いえ、私たちが手を差し伸べることで人間本来の生き延びようという強い本能を奪ってしまっているのかもしれませんね……。これはあの壁の中の人たちも変わりないのですが。そんな状況にあっても自分の未来を変えたいと望まれる方たちがこちらにこられるのですよ」
「は、はあ……」
彩乃は聖女の言葉よりも、いまだ仲の良い友達同士のように繋がれた手の方に意識がいってしまって生返事するだけだった。
「では、中に入ってみましょう」
白衣を着てチェックしている人たちは、聖女の顔を見ると恭しく頭を下げる。彩乃は聖女に連れられ男達の並ぶ横をすり抜けて巨大なテントの中に入った。
「ええっ!? く、クマ男!!」
「はい。クマ獣人ですね」
そこには全裸になった男達が、クマのキグルミのようなものを着させられている光景が広がっていたのだった。
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