第三章 彩乃そしてヴィス

第27話 その少年、ヴィス。①うん、私が許すわ。

 少年は暗い闇の中、深い森の奥を身体を引きずりながら進んでいた。


――食べるものがいる。これは血が足りてない。うまく頭も働かないし、このままじゃマズい……。


 どこをどう進んでいるのか、もしかしたら同じところを堂々巡りしているのかもしれないと少年は不安を感じながらも、生きるために前へと一歩を踏み出す。時折、魔物であろう奇怪な咆哮のようなものも彼の耳に届く。弱い魔物相手ならまだなんとでもできそうだったが、大型の肉食獣だったらいまの弱りきった自分は恰好の餌になるなと少年は自覚していた。


「ニンゲンさん、ニンゲンさん?」


――これは幻聴ってやつか? こんな『還らずの森』で女の子の声なんて……。ボクもどうかしてる。


「ちょっと、聞こえてないのかな? ニンゲンのイケメンくん!」


「ふぁっ!? よ、妖精!?」


 頭上から聞こえた声にヴィスが見上げると、そこには透明な羽を持つ小さな女の子が浮かんでいた。


「そうよ。私、妖精さんなんだから」


――ナエトゥスから昔は妖精もたくさんいたって聞いてたけど、本当にいるなんて……。


 ヴィスは幼い頃からナエトゥスの保護のもと、彼女の信頼する魔族の老夫人によって育てられた。街から離れた場所での長閑な生活を送っていたがその育ての親も病気で亡くなった。自分が人族ではなく魔族であり、それも討ち取られた魔王の息子であることは引き取られたナエトゥスによって教えられた。その他にも魔族の歴史やそれに付随する人族の出現と争いなども。だが、特に彼女からは人族への恨みなど語られることは無く、ただ淡々と事実を告げるように聞かされた。そんな子どもにとって面白みのない個人授業も、他種族との共生の話だけは別であった。このときだけは何故かナエトゥスの懐かしさを思わせる話しぶりに、少年の想像力は大いに掻き立てられたのであった。そんな彼女の物語に登場した妖精が彼の目の前にいる。


「こ、こんにちは。妖精さん、ボクはヴィスっていいます。ニンゲンって人族の呼称だと思うんだけど、残念ながらボクは魔族なんだ……。魔族って知ってる?」


 少年は緊張した面持ちで話しかけた。


「うん。知ってるわよ! 妖精は何でも知ってるんだから。私は、エアリィよ。魔族の王子様のヴィス、よろしくね!」


「えっ!? え、エアリィ、こちらこそ」


 ヴィスは憧れの妖精とコミュニケーションを取れたことに興奮する。お腹が空いていることや、身体中の怪我の痛みなどすっかり忘れてしまうほどに。


「でも、あなたボロボロだわ。知り合いの家で見た捨てられる寸前のボロ雑巾のようね。このままだとキラーエイプあたりの夕ご飯にされちゃうか、ほうっておいても粒子になって消えちゃうかしら」


「き、キラーエイプ?」


「知らないの? まあ、私が勝手に名付けたんだけどね。たぶん人族なんかはもう忘れてしまったこの森の主よ。とてもおっきなお猿さんで、ガオーって吼えるの。ガオーーッよ!」 


 妖精エアリィは両手を上げてその魔物の真似をしてみせた。本人は大真面目なのであるがヴィスには可愛らしいとしか思えなかった。


「そ、そうなんだ。気をつけないとね……」


「ううん。気をつけても仕方がないわ。だってあなたの後ろで狙ってるんだもの」


「へっ!? う、うわぁあっ!?」


 妖精の振り向くと巨大な魔獣が襲いかかってくるところだった。巨大な身体が飛び上がり、両足で踏みつけるのをかろうじて転がって回避し、間合いを取る。魔獣は焦ること無く獲物である少年の状態を見定めようとしているかのように彼には感じられた。


――こいつ、知性がある!


「がんばれー!」


 エアリィの気の抜けるような声がする。


――がんばれって……。魔力が回らない。武器もない。どうしたら……。


 魔獣は近くにあった手頃な木を根本から引っこ抜き、少年へ放り投げる。


「ぬわっ!」


 逃げ回るので必死なヴィス。身体が思うように動かず距離を大きく取れない。それを楽しむかのように次々と木を引き抜いては投げつける魔獣。その怪力は疲れも知らないのかペースが落ちることもない。


「どうしたのよぉ、ヴィス。あっ、そうか! いま、ボロボロのボロ雑巾だったんだ。ごめーん、忘れてた!」


――忘れてたっていわれてもさ。ところでさっきから言ってる、そのゾーキンって何なんだよ!


 ヴィスの体力も限界に近かった。視界もぼやけてきて意識を保つのがやっとの状態。


「みんなー! あつまってー!」


 エアリィが大きな声を出したのが聞こえるが、何をいっているのかはヴィスには分からなかった。


 そのとき森の奥から強い風が流れてきたような気が彼にはした。同時に魔獣も異変を察したのか動きを止めて、必死で匂いを嗅いで警戒しているようにヴィスには見えた。 


『うふふ』


『あはは』


『うふふ、あはは』


『いーのぉ?』 


「うん、私が許すわ。あなたたちを許すの。だれもかれも許します。いまだけは、良い子じゃなくていいのよ。あなたたちの本当にしたいことを私が許してあげるのぉ!」


 ヴィスには一瞬、ものすごい数のちいさな笑い声が大きな波となって押し寄せてきたように感じた。それは彼にとってとても恐ろしいもののように感じられた。そう、あの怖い勇者よりも。


「グギャーーーーッ! ウオッ、オッ、オッ!? グゲェッ、エッ、エッ……」


 少年の眼の前で魔獣が必死に両手を振り回していた。ナニカから逃れようとしていた。だがそれが何なのかがはっきり見えない。


――あれは妖精なのか? あんなにたくさん、信じられない……。


 無数の羽虫が魔獣を覆っているように見えていたが、呼吸も落ち着いてきた少年はそのちいさなひとつひとつが、エアリィと似た妖精であることに気づく。


「喰らっているのか!?」


 巨大な猿の魔獣の体毛は既に失われ、筋肉が、部位によっては骨が剥き出しになっていた。数え切れない妖精たちが魔獣を喰らい咀嚼していた。


――なんてことだ。いったい妖精って……。


 ヴィスの抱いていた妖精への憧れと幻想はそのとき粉々に砕けたのだった。しばらくすると息絶えたのか、魔獣は光の粒子となって消えた。妖精たちもそれにあわせて四方八方へ飛び去ってしまった。


「ねえ!」


「ひっ!?」


「どーしたのー? 悪い魔物はいなくなっちゃったねー。よかった、よかった」


「う、うん。そうだね……」


 少年はとにかく落ち着くことだけを自分に必死に言い聞かせていた。

 

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