第2話 父の失踪

 家に到着すると彩乃は二階にある自分の部屋に直行し、着替えることもなく制服のままベッドにダイブする。


「はあ、疲れた……」


 身体がほどよく沈み込み力が抜ける。彼女の頭の中に浮かんでは消えることを繰り返す面倒事もどこか遠くに行ってくれるような気がした。これならよく眠れるかもしれないと意識を手放そうとしていた。


――いや、ちょっと待って!


 彼女は勢いよく起き上がると床の上の白いカバンからスマホを取り出す。それを数秒見つめた後、深呼吸をしてからその細い指で電源を入れ起動させた。これだけは先に確認しておかないと。


「ん?」


 留守番電話は入っていないようである。メールの通知が一件あるだけだ。母からの山のようなSNSやメール、留守電の通知があるものとばかり思っていた彼女は覚悟してスマホを開いたのだが、正直拍子抜けした。


――いやいや、あの鬼軍曹のことだ、めっちゃ長文のお説教が書かれているに違いない。


 彩乃は未読の一件のメールをタップする。


「あれ?」


『お爺ちゃんから学校を早退したことは聞いています。あなたの好きにしなさい。母は仕事で帰るのが遅くなります』


――短っ! これはこれで怖いんだけど……。


 彩乃の母は別に教育ママというわけではない。いままで勉強について彼女が何か言われたというような記憶もない。それがかえって良かったのか彼女は勉強が好きである。オンラインで家庭教師を雇い、小6時代の一年間で英語、数学、理科については中学内容は終えてしまっている。他にすることも無かったというのも理由のひとつではある。母親の雪恵ゆきえは中卒ではあったが、昔は大検と呼ばれていた高卒認定試験を経て大学進学、そして現在薬剤師をしている。そんな母親の口癖は『自分で考えろ』だった。

 

――この短くて味も素っ気もないメッセージは何を……。違う、これはきっと怒りが頂点に達してしまって逆に文章が短くなったに違いないわ。


 母は基本的に清廉潔白な人である。朝の仮病についてもその心のありように母が腹を立てていたことは彼女にも分かっていた。母はまるで中世騎士道の人。正直、高潔、誠実、博愛、信念、そういったもので実際の年齢よりもずっと若く見えてしまう容姿は構成されているのだと彩乃は思っている。自分はあんな完璧超人にはなれない。きっと自分は血のつながっていない子に違いないんだと考えたりもしたが、父が『彩乃はお母さんの若い頃にそっくりだ』とよく言っていたし、祖父母もそろって同じことを言う。だからその説はほぼほぼ否定されてしまっているのだ。


――これは千回コースは確定。なんとか半分の五百回にならないだろうか。ううっ、ここは仕方がない土下座か。


 母の雪恵は少しどころか大きく変わっている人だと彩乃は認識している。隠してはいるが母はおそらく自分と同じ年のころは、アニメやラノベのオタクだったに違いないと考えている。そもそも口調が普通ではない。『せぬ』とか『ご武運ぶうんを』なんて平気で使うのである。ちゃんと職場でコミュニケーションがとれているのか娘ながらに心配している。


 さらにその変人性を表しているのがこの素振りである。もちろん野球のバットやテニスのラケットなどではない。西洋風の剣を模した木剣である。彩乃はものごころついたときからこの木剣を振らされてきた。小さいころは母の言うナントカ流剣技の基本だという言葉を真に受けて彼女も楽しそうに振っていた。しかし当然なのだが小学校に上がるとそんなことを毎朝、毎夕やっている同い年の女の子なんていないことが判明した。もちろんまわりの男子にもそんな奴はいなかった。それも中学生になると同時に強制ではなくなり、彩乃の自主トレとなったのであるが、長年続けて染み付いてしまった習慣はなかなか変えることもできず今日の朝も丁寧に数百回振っていたのだった。


「お父さん……」


 こんなとき頼りになるのが父であった。『まあまあ、とは違うんだからさ』というのが口癖で、母がたまに行き過ぎた特訓のようなことを始めると止めに入ってくれた。たしかにクマやシカが突っ込んでくるような田舎ではあるが、木剣が役に立つとは彩乃には思えなかった。あれは父なりのユーモアなのだろうと彼女は解釈している。


――よし、ここは応援を要請するしかない。


 彩乃はスマホの電話帳から父の番号を呼び出すと発信ボタンを押す。


『こちらは……です。おかけになった電話番号は現在使われておりません。恐れ入りますが、番号をお確かめになっておかけ直しください』


 聞こえてきた自動音声メッセージにしばし固まる。


「はあ!? なんで?」


 彩乃はすぐに前に住んでいたマンションの固定電話に書け直す。しかし再び同様の自動音声が流れた。


――意味がわかんない……。どうしたのよ、お父さん?


 さらに彼女は父の勤めていた玩具メーカーの職場の番号を、書き留めていたはずの手帳から何とか探し出し、緊張しながらもその番号に掛けてみる。


「あ、あのお父さん……、ちがう、父がそちらでお世話になっております。さ、真田さなだ彩乃ともうします。お、おと……、真田さなだ聖也せいやと連絡が取りたいのですが……」


 娘だと告げて父を呼び出してもらうが、少し待たされての女性からの返答は『申し訳ございません。真田聖也は3月末をもって退職いたしました』であった。少しでも何か聞き出せないかと、緊急時の連絡先を聞いてみたが個人情報がどうとか言われてそれ以上何も分からなかった。


 そのまま一階へと階段を駆け下り、祖父母にも聞いてみるが、『はて? 儂もなんもきいておらんの』、『どうしたんでしょうかねぇ聖也さん。雪恵なら知っているんじゃないかしら』と何の情報も得られなかった。


「あら、もうこんな時間。彩乃ちゃん、お昼にしましょうかね」


「お婆ちゃん……」


 祖母は特に慌てる様子もなく昼食の準備を始める。祖父も何事もなかったかのように新聞を大きく広げて読み始めた。


――二人とも心配じゃないの? それはもうお父さんと別れちゃったからなの?


 彩乃はもやもやとした気持ちのままであったが、祖母の作った美味しい天ぷらうどんはしっかりと完食したのであった。

 

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