それでもキミは美しい
清水蘭
第1話 異国の地にて
__一体、どうしてこんな手紙を今更送ってきたのか。
バンコクに向かう夜行バスの中、瀬乃蘭は、自分の膝上に置かれた手紙に視線を落としていた。A5サイズ、僅か一ミリほどの厚さしかない、ネモフィラの花のように綺麗な水色用紙には、汗と思われる跡がある。
送り主である彼は、高校時代の友人。友人と言っても、もう何年も顔を合わせていなければ、連絡も取っていない。彼が今どこで何をして、どんな風に暮らしているのかも知らない。そんな彼から、旅の最中に手紙が送られてきた。なぜ今このタイミングなのか。せめて、日本に帰国した時にしてくれればよかったものの。
蘭は背もたれに頭をつけると、天井を見上げ、静かに深い息を吐いた。
「……ほんと、どう言うつもりなのよ……」
その声は、闇に溶けるように消えた。
国境を越えようとしていたのは、一時間前のこと。ラオスのナタレーン駅から、タイのノンカイ駅に向かうため、列車に乗ろうとしていた。しかし、ここで小さなハプニングが発生した。宿泊していたホステルから駅まで、思いの外、時間がかかってしまった。世界一何もない国と言われたラオスは、期待以上に居心地が良く、行く道をのんびりと歩き過ぎてしまったのだ。重さ十キロのリュックを背負い、ラスト十分を全力ダッシュをして、何とか駅に到着。反省をしながら、ソワソワと切符売り場の列に並ぶ。この列車を逃せば、今日の予定は全て崩れる。一日二本しかないタイ行きの列車、一本目はすでに出ている。つまり、何としてもこの列車に乗らなければならなかった。
無事に切符を買い終えると、ホームで列車が来るのを今か今か待つ。秋でも気温三十度を軽く超えてくるこの国の気温は、比較的、夏でも涼しい国の街で生まれ育った蘭にとって、灼熱の太陽の下を歩いていると言ってもいい。乗り心地が悪かろうが狭かろうが、太陽を避けられる列車は天国だ。
「スイマセン」
っと急に、アクセントが特徴的な、カタコトの日本語で横から声をかけられた。立っていたのは、身長百七十センチほどの小柄な男性。服装や持ち物を見るかぎり、おそらく現地の人だろう。男性は、ニコニコとした優しげな笑みを浮かべ、蘭を見ていた。
「はい?」
通じるか通じないかは置いといて、一応、日本語で返してみる。すると、男性は手に持っていた一つの封筒を差し出してきた。
「……」
旅をして一年。ありえそうでなかったことが、旅の終盤でやってきてしまったと思った。東南アジアでよく起こりうると聞いていた、俗に言う運び屋。観光客などの旅行者を狙って、荷物を届けて欲しいと言い、運び屋をさせるのだ。中身が何であるかを知らなかったとしても、運んでしまった場合、罪に問われることがある。
優しさを封印し、胸の前で腕を組み、真顔で首を横に振った。よくあるケースとして、しつこく頼んできた挙げ句、強引に物を押し付けてくる。だからこそ、受け取る気はないと、強く意思表示をする必要がある。高圧的な態度に加えて、低く冷たい声でも意思表示をする。
「No」
しかし、男性は優しげな笑みを崩すことなく、というか、受け取ってもらえないと、本当に困っているように見えた。不思議に思い、怪訝そうな顔をした蘭に、男性は封筒の裏面を見せ、一点を指をさしてきた。
「え……」
そこに書かれていた名前を見た瞬間、蘭の目は大きく見開かれ、心臓は波打つように飛び跳ねた。
__Morishita Jin
蘭は、奪うように男性から手紙を取り上げた。
差出人の住所には英語で、北海道札幌市と書かれていた。それは、蘭の故郷でもある日本からの手紙だった。表面には荒々しくも達筆な字で、蘭へと綴られていた。それはまさしく彼の字だ。蘭は汗が滲んだ手で、手紙を強く握った。間違いない。あの森下仁だ。手が、震えた。なぜか、胸が苦しくなる。
「あっ……」
ハッとして顔を上げると、男性は驚いたような顔をして蘭を見ていた。
「Sorry……」
蘭が申し訳なくそう言うと、男性は「ダイジョウブ」と、また特徴的なアクセントで、カタコトの日本語を喋った。
彼はなぜ自分の居場所が分かったのだろうか。疑問に思ったが、理由はすぐに分かった。蘭はSNSを通じて、自分の旅の様子を世界に発信している。もし彼がそれを見ていてくれたのだとしたら、そこから居場所を突き止めたのかもしれない。
「だけど、この手紙、どうして……なんで……」
すると、男性はジーンズのポケットからスマートを取り出し、マイクに向かって何かを話し始めた。どうやら、翻訳機を使って何かを伝えようとしてくれているようだ。
マイクから顔を離した男性が、画面を見せてくる。
『この手紙をあなたに渡すようにと預かりました』
「誰から? あっ、Who?」
男性は再びマイクに向かって何かを話し始める。
『配達員からです。急いで渡すようにと言われていたみたいで、それで私に預けました』
おそらく、配達員は何らかの事情で蘭の元に届けられなくなり、近場に住むこの男性に、手紙を託したのだろう。
「でも、どうして、あなたは私のことを知っていたんですか?」
蘭がスマホに向かってそう話すと、男性は画面をスクロールして、インスタグラムのアカウントを見せてきた。それは、蘭のアカウントだった。
『せのらんと聞いて、すぐにあなただと分かりました。私はあなたのファンです』
「あ……Thank you」
嬉しそうに笑う男性に、蘭は気恥ずかしくなり、目を伏せた。ファンだと言われたのは、初めてのことだったのだ。男性は目を伏せた蘭の前に手をひらひらとさせ、スマホ画面を見せてくる。
『お礼を言うのはこちらです。あなたがラオスの現状を世界に発信してくれているおかげで、より多くの子どもたちが、教育を受けることが出来るかもしれない」
ラオスは、教育問題が重視されている国の一つ。昔に比べれば、減少傾向にあるが、現状、学校に行けず、働く子供たちは少なくない。
全ての子供たちが、不条理な死を迎えることなく、平等に教育を受け、それぞれの望む幸せを得られること。それが、蘭の目指す世界であり、夢だ。
「私は……そうなってくれることを切に願っています」
蘭のその言葉を聞くと、男性は、そっと柔らかい笑みを浮かべた。
いつの間にか、ホームに列車がやってきた。蘭は男性と握手を交わし、またここに来ることを約束し、列車に乗った。
ノンカイ駅までは十五分。その間に手紙を読もうかとも思ったが、封を開け閉めしては、結局、読めなかった。列車を降りると、入国審査を受け、特に疑われることもなく、無事通過。駅の売店で飲み物だけ買うと、バンコク行きの夜行バスに乗り込む。大型のバス車内には、蘭と同じようにバックパックをしている人や、都心に向かう現地人がちらほら。蘭は通路側の席にリュックを下ろし、真ん中あたりの窓側の席に腰を下ろす。忘れないうちにと、太いワイヤーでリュックと肘掛けをつなぎ、南京錠で施錠する。これもスリ対策の一つ。寝ている間に荷物を取られないようにするためだ。
ここから約十二時間、長いバス旅が始まる。大体は睡眠時間に使う予定でいたが、この手紙次第では、そうもいかなくなるかもしれない。
森下仁は、幼心のあるピュアな男だった。そんな男が、手紙などを書いてよこしたのだ。全く何もないはずがない。
蘭が彼と初めて会ったのは、高校の入学式。通路を挟み、席が斜め前だった彼は、蘭を見て「魔女だ」と言った。当時の蘭は、黒髪にロングヘアー、色白、おまけに着ていた制服の色は、暗い紺色。童話に描かれているような、まあ、魔女にも見えなくもないような外見をしていた。一方の蘭は、彼を中国人だと思った。人種差別をしていたわけではないが、闇のように真っ黒な瞳。細く切れ長の目。筋の通った綺麗な鼻筋は、同じアジア人でも、日本人離れしているように見えた。だが、彼の名前は日本人そのものだし、言葉も日本語しか話せなかった。互いにそんな第一印象を抱いた二人だったが、そこから二人の仲は急速に深まったというわけでもなく。いつの間にか、一緒にいるようになったのだ。今思えば、波長が合っていたのだろう。話をすれば、会話が途切れることなく、いつも笑いが絶えなかった。時に、蘭が落ち込むことがあっても、彼は力強い言葉をかけ手を引いてくれたし、滅多なことでは怒ることがない彼が怒りをあらわにした時も、蘭は彼の背中を、まあまあ、と、鼓舞するように叩いた。そうして、時に自分を愛せなくなる時でも、二人は互いを愛していた。一目見て、特別な何かを感じたわけでもないし、あれは運命的な出会いなどではなかった。だが、彼と過ごす時間は蘭にとって、とても穏やかで、温かいものだった。
出発時刻になり、バスは走行し始める。ゆっくりとスピードを上げ、ノンカイ駅が遠ざかっていく。
「さよなら、ラオス」
薄暗い静まり返った車内の中で、蘭は一人呟いた。皆各々就寝していく気配を感じる中、蘭はカーテンを閉めると、斜め掛けポシェットの中から手紙を出した。しばらく手紙を見つめるだけの時間が流れる。そして、背もたれに頭をつけ、深く息を吐くと、意を決し封を開けた。
それでもキミは美しい 清水蘭 @suzurann4444
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