第2話 壊す 思い出も敵わない
おれは不意に目が覚めた。
そうだ。食い過ぎてしまって、苦しくて横になっていたら、そのまま眠ってしまったんだった。あるいは、あのまま死ねるのなら、ある意味幸せであったのかもしれない。いや、満腹で気持ちよく死ぬのではなくて、限界で苦痛を抱えて死ぬのが幸せであるわけがない。そもそも“死”そのものを幸せと呼べるはずもない。
その不幸を、これからするんだな。
改めて、自分の今日の目的を思い出す。お腹の苦しさは、もうほぼ感じない。予定より大分遅れてしまったが、動き出すとしよう。
体を起こして、時計を見る。午後十一時を回っている。そんなに眠ってしまっていたのか。睡眠負債でもたまっていたとでもいうのか。そういえば、体が痛い。床でそのまま五時間も眠ればそうもなるだろうが、よくそんなに眠ったものだ。
立ち上がり、着替えを取って浴室へと向かう。シャワーを浴びておこう。後で歯も磨いて、身なりを整えなければ。死ぬのに気にするのかって? 死んだ後、格好が小汚いのは嫌だろう? あとは、そうだな。どうやって死ぬのか決めてはいないが、とりあえず定番のものでも用意してバッグに詰めて持っていこう。
おれは準備を済ませて、部屋を出た。
もう戻らないであろう部屋の中は、洗った皿をキッチンのワークトップに置いていたり、若干は物を出したままにしているが、ほとんどはごみ袋に入れたり、ダンボールに詰めたりしている。大家の大屋さん、あとはよろしくお願いします。
夜の道を歩く。
行き先は名所の山。自殺の? いや、ここらの住民にとっての。
死ぬにはいい所なんだぜ。死んだことないけど。遺体が見つかったなんて話も聞いたことないけど。
徒歩で一時間かかるが、あいにくとおれは歩くのは嫌いじゃない。
今は日付が変わって午前零時を過ぎている。当然、バスも運行していない。だが、元々予定していた運行している時間だったとしても、おれはバスを使わずに歩いただろう。
ゆっくりと死に場所に向かうために。嫌いじゃない徒歩で。これもまた、お金がないからでは断じてない。
そして、山まで半分ほどは歩いたというところで、不意に“それ”はやってきた。
はうっ!
それは突然の便意であった。確かに、少々の違和感はあった気がしないでもないが、徐々にではなく急にきたのは間違いなかった。
しまった。最近のおれは年のせいか、若いころは平気だったカップ麺もお腹を下す要因になっていた。分かってはいたが、食後すぐに動く予定であったため、下す前に死ねると思っていたのだ。
ほぉっ!
勢いが激しい。便意がきたと思ったら、もう決壊寸前だ。出そうと思えば簡単に出る。カップ麺のせいばかりではない。食べ過ぎか。あとは、床で何も掛けずに眠ったことで、お腹を冷やしてしまったのもあるかもしれない。こうなると、もう梅干しの優しさも効果はない。
だが、このタイミングはベストではないがベターではある。
というのも、もうすぐ歩けばコンビニがあるのだ。そこまで保てばいい。保てば。
どうせ死ぬのに? まだ言うか。
くそまみれで死ねるか。
ふっ!
はぁはぁ。波も激しい。しかし、今までの人生、おれがどれだけお腹を下してきたと思っている? これ以上の下しは、もう何十、何百と経験してきているのだ。
へぁっ!
どれだけ経験してきても、今の辛さは今で辛い。くそが。
おれは思わず袖をめくって、腕に目一杯の力で爪を立てた。腕の痛みで、下ったお腹から意識を逸らすためだ。
ひんっ!
駄目だ。腕が痛くなっただけだ。まだだ。まだ何かある。そうだ。完全数を思い浮かべよう。完全数は美しい数字。おれのお腹への意識を消してくれる。
6、28、496、8128……。
そうしている内に、コンビニが見えてきた。あと少しだ。
あのコンビニには、今のような深夜の時間帯に行ったことが何度かある。とても愛想のいい、ギャル風の若い女性店員がいたが、今もいるだろうか。
名前を知っているのは、別におれが彼女のストーカーだからではない。まだあのコンビニで店員がネームプレートを付けていたころ、ひらがなで“なきり”と印字されており、おれがレジに並んでいる時に会計していた中年男性が聞いていたのだ。
「なきりさんか。
「ははは。違いますよ。
笑顔とは裏腹に笑っていない厳しい目に、中年男性も気圧されていたな。ああやって、男性に声をかけられては冷たくあしらっているのだろうなと思ったものだ。
夜子の方は、一緒に働いていた別の店員が『よるこちゃん』と呼んだことがあって、漢字は一つしかあるまいとおれが勝手にそう思っているだけだ。
この際、そんな名前で呼ばせてもらうが、夜子さんは高校時代におれによく話しかけてくれていたギャルの女子に似ていた。
友達も多く、彼氏もいた彼女。おれに話しかけてくれていたのも、ちょうど話し相手がいないとき、目の前におれしかいなかったからだろうが、嬉しい出来事もあった。
あまり女子と話したことがなく、おそらくは一部の女子に嫌われていたであろう、おれ。
その一部の女子たちと彼女が教室でおれのことを話しているのを、教室の外から聞いてしまったことがあった。
「よくあんなのと話すね。オタクでキモいし、女子からも嫌われてんのにさ」
自覚がないわけではなかったが、こうしてはっきりと言葉に出されると辛い。彼女も相槌を打つだろうかなんて思っていたのだが、彼女の返答は違った。
「別に、アタシはキモいとは思わないけど。あと、誰が嫌っているからって、アタシに何か関係あんの?」
そんなことを言って、黙らせていたっけな。一部の女子たちはカースト上位の影響力のある女子たちであったが、彼女にカーストは通用しなかった。カースト外の存在。トランプでいうならジョーカー。圧力に屈さず、かといって虐められたりもしない、強い孤高の女子だった。
がっ!
意識は確かにお腹から逸れていたのだが、それでも激しい波は美しい思い出から辛い現実に引き戻す。そうだ。今のおれは窮地に陥っていたのだった。
だが、ありがとう。あのころの君は、あのころのおれの心だけでなく、今のおれも救ってくれた。そう、おれはコンビニに到着した。
だが、まだだ。まだ気を緩めるな。トイレに座るまで、決して油断するな。
「いらっしゃいませー」
コンビニに入ると、レジカウンターから声がかかる。相手は、あの夜子さんだった。
「あ、あの、トイレ、貸してもらっていいですか?」
コンビニのトイレは公共のものではない。使わせてもらえるのは店の善意によるものだ。だからこそ、こうしてちゃんと許可を取らねば。
夜子さんはきょとんとしていたが、やがて。
「どうぞー」
笑顔でそう言ってくれた。
その笑顔にやられそうになりながらも、おれはある不安と緊張を抱えて、トイレに急ぎ足で向かう。何とかトイレを貸してもらえることに安堵したが、まだ使えない可能性が残っているからだ。それは、夜子さんに話をすることなく借りている客がいるかもしれないということ。そして、便器が詰まっている恐れだ。
頼む。神よ。
トイレには誰も入ってはおらず、詰まってもいなかった。
おお、かああぁぁみいいぃぃよおおぉぉ。
単なる神への感謝の雄叫びだ。紙がなかったわけではないから安心してくれ。
無事に用を足したおれは、手をしっかりと洗ってトイレから出る。
何か買っていかないとな。
そう思って店内に目を向けた時だった。カウンターの客側に、少し怖い顔をしている一人の男性がいた。そして、その手には刃物が見えた。
トイレのドアの音がしたのか、おれの気配を感じたのか、男性がこちらを向く。
「ちっ! 客がいやがったのか」
大きな声でその男性が言う。
これは、もしかしなくても。
カウンターの店員側で、夜子さんがレジを何かいじっているのが見えた。
ああ、強盗だ。
「おい、てめぇ! こんな深夜にトイレになんか入ってんじゃねぇよ」
おれだって、入りたくなんかなかったさ。
なんてことだ。ただ、トイレを借りただけなのに。
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