僕は君のフットペダル

塚本 季叡

第1話「ピアノを教えてくれませんか?」

 定期演奏会を無事に終えて控え室で楽譜を片付けていると後ろから声を掛けられた。振り返るとバイオリニストの近江 ゆあが笑顔を浮かべて立っていた。

米原まいばら君、お疲れ様。今日も素敵な音色だったよ」

「ありがとうございます。そういうゆあさんこそすごかったじゃないですか」

「ん? まあ、今日はこの子も機嫌が良かったからね」

 ゆあはそう言いながら傍に置いていたソフトケースを愛しげに撫でた。彼女は自分のヴァイオリンをいつも“この子”と表現する。長い間一緒に音を奏でている相棒だから“楽器”というよりも“友人”のような感覚なのだと以前聞いたことがある。

 ホールからは観客が帰路へと向かう騒がしい声が聞こえてくる。その声の中へと2人は足を進めた。

 ガヤガヤとしたホールのエントランス。その端に車椅子の少女と老齢で身なりの良い男性はいた。周囲の賑やかさからは一歩引いたような落ち着きはらった佇まいだ。彼女達は米原とゆあが姿を現すとためらいがちに近付いてきた。

「あ、あの……。演奏すごく素敵でした!」

 この一言を伝えるために2人を待っていたとは思えないが、ゆあは嬉しそうにプロとしてのファンサービスに応じ、ニッコリと笑んだ。一方の米原は少女の次の言葉を待つように静かに立ちつくしている。

「わ、私、特にピアノの演奏に感動して自分でも弾いてみたいんですけど脚が悪いから……」

 そう言って彼女は少し悲しげに下を向く。その様子を見て米原はしゃがむようにしながら少女に話し掛けた。

「ピアノ、弾いてみるかい? 僕で良ければレッスンするけど」

 すると彼女はパッと顔を輝かせた。

「私でも大丈夫ですか?」

「大丈夫。脚が悪くても弾けるようにするから」

 彼は力強く頷きながら少女に言い聞かせるように答えた。するとその様子を見守っていた老齢の男性が口を開いた。

「憩お嬢様、よろしゅうございましたね。これで先代が残されたピアノも浮かばれることと思います。しかしご無理はなされないように。でないとわたくしめが旦那様と奥様に叱られてしまいますので」

「分かっているわ、石山。でも長年の夢が叶うんだもの。落ち着いてなんかいられないのよ」

“憩お嬢様”と呼ばれた少女は嬉しそうに声を弾ませながら答える。男性はやれやれという表情をしつつも米原に話し掛けてきた。

「申し訳ございません、お嬢様がご迷惑をお掛けしまして。ああ、ご挨拶が遅くなりました。私は高月財閥に仕えております、石山と申します」

 老齢の男性は丁寧に頭を下げた。慌てて米原も頭を下げる。

 高月財閥。一昔前の財閥が力を持っていた時代はもちろんのこと、今でも経済界に強い影響を与えている名家中の名家だ。音楽業界にも造詣が深く、質の良い楽器を輸入販売しているので米原もよく知っている名前だった。

 憩はつまり高月財閥の令嬢という扱いになる。石山はさしづめ執事といったポジションに当たる人物だろう。

「ご丁寧にどうもありがとうございます。ええと僕は米原 海斗と言います。ご存知の様にピアニストをやっております」

 緊張のあまりいつもの様に上手く話せない。財閥なんて本来なら関わることなんてない雲の上の存在だ。

「あ、そうだ。連絡先をお伝えしておかなくちゃね」

 憩はポシェットの中からスマートフォンを取り出し、連絡アプリを見せた。

 はい、これが絡先よ。これからよろしくね、先生」

 米原も連絡アプリを起動し、憩の連絡先を登録すると共に自分の連絡先を彼女に教える。

「それじゃあ後ほど初回のレッスンの日程や曲の件でご連絡しますね」

「かしこまりました。それではお嬢様失礼致しましょう」

 石山に促されて憩は車椅子を動かし、優雅にその場を去った。

「あーあ、そんなに簡単に引き受けて大丈夫なの?」

 ゆあが他人事のような口調で言う。まあ、実際他人事なのだが。

「まあ、何とかするよ」

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僕は君のフットペダル 塚本 季叡 @love_violin_tea

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