5ー2 ススキノ

 深夜のススキノに放り出されて尻餅をついていた野村の目の前に、黒いバンが停まる。ドアを開けて身を乗り出したのは、運転席の中西だった。ダッシュボードの上に置いたスマホには、野村に埋め込まれたGPSの信号がプロットされている。

 歩道に座り込んだ野村に、手を差し伸べた。

「怪我はないか?」

「尻を打った。車からいきなり放り出されたぞ」

「芝居に付き合わせて、すまなかった。だが、迫真の演技だった」

 立ち上がって中西の手を取った野村が、歪んだ笑みを浮かべる。バンの助手席に乗り込み、つらそうに言った。

「アイヌを守りたい本心を話しただけだ。とはいえ、複雑だ。アイヌ利権が蔓延っているのも事実だしな……。俺自身、利権争いの現場にも何度か遭遇している。これからのアイヌがどう生きていけばいいのか……迷いだってある。だからこそ、真実からは目を背けられない……」

「だが、おかげで世界中の同業者が真実を知った。ロシア大統領も含めて、だ。これでDDOからの依頼も完璧に果たせた。アイヌがネイティブアメリカンやアボリジニと同じには語れないことも、彼らの心に刻み込めたはずだ。あらかじめ情報機関に共通理解が醸成されていれば、各国の指導層への影響力も強まる。国際社会での発言も支持を得やすいし、弱腰になる必要もない。国連がグローバリストに占拠されている今こそ、日本政府がなさなければならない役目だったんだがな……」

「研究者として嘘はつけないからな。DDOって?」

「CIAの現場責任者だ。わざわざ日本まで来て、条約の真相を突き止めてほしいと懇願された。仕方なく、自分が自衛隊との調整役も引き受けた。それにしても、お前がここまで積極的に協力してくれるとは思わなかったよ。仮想の歴史を補強してくれたおかげで、セクフィールも騙し通せた。本当に助かった」

「脚色はさせてもらったがね。学会から無視された見解やら、妄想やら、あれこれぶち込んだ。見栄えがするお話になったろう? とはいえ、大半は歴史的な事実だ。せめて、本当のアイヌを世界に知ってもらいたかったからな」

「だがなぜ、急に協力的になった?」

 野村の言葉には悔しさがにじんでいた。

「和文の条約書は偽物だったが、俺には見抜けなかった。自慢じゃないが、古文書の解読には自信がある。使われている用語、筆遣い、用紙や朱印……画像で見る限り、当時使われていた物と全く違いは見つからない。あれは並みの贋作じゃない。歴史と古文書に精通した超一流の学者の仕事だ。そんな離れ業ができる人間なんて、1人しか知らない。重要な古文書の解読や修復には欠かせない人だった。会ったことすらないが、俺は勝手に師匠だと思っていた……。その先生は、ついこの間、事故で死んだ……。奴らに殺されたとしか考えられないじゃないか……。許せるものか……」

 中西はゆっくりと車を出した。

「この謀略でいったいどれだけの才能が消されていったのか、自分にも想像がつかない。それでも、歴史の中でセクフィールが殺した人数に比べればとるに足らないものなんだろう。彼らの血なまぐさい世界は、何100年も前から存在しているからな」

 中西らが『黄金の砦』の公募原稿を発掘したのは、条約文書が発見された1週間後だった。その内容は宮下とともに精査され、充分な傍証を収集して野村に明かされていた。

 野村はその時点から陰謀の全体像を知り、その上でアイヌの建国に奔走するという芝居を続けていたのだ。その過程で野村は、旧来の定説に依拠したアイヌ観を解体し、再構築するという苦行を強いられた。それでも、拒否はできなかった。〝現実〟を突きつけられた以上、誇りあるアイヌとして向き合うしかなかったのだ。

 悶え苦しんだ末に出した結論が、中西への全面協力だった。

 中西はCIAのトップ数人とのすり合わせは行ったが、関係者の大部分は条約の信憑性を疑っていない。それは、野村が持てる知識を総動員して条約締結の経緯を〝解明〟したことに起因する。中西らはCIAとモサドの長官からの強い要請で、セクフィールの企みの全貌を炙り出すために、騙された演技を続けた。グローバリストたちの策動は中国の思惑と縒り合わされ、新たな〝冷戦〟を激化させている。アメリカの政界や経済界も、そして世界も、その暗闘によって引き裂かれ始めている。テレビ会議での大芝居は、世界を揺るがす戦いが表舞台に躍り出る号砲でもあったのだ。

 野村がつぶやく。

「セクフィールは、これで手を引くのか?」

「それはない。一度始めた謀略だ、徹底的に押し進めるだろう」

「だが、全部嘘だと暴かれてしまったんだぞ?」

「それでも、だ。テロを援助したわけではないから、セクフィールが表立って糾弾されることもない。おそらく近いうちに、どこかのジャーナリストが『千島アイヌ条約』をスクープするだろう。監視ドローン映像や情報機関の暗躍もリークされるに違いない。で、マスコミを総動員して、各国情報機関が条約を隠そうと奔走しているという論調を作り上げる。リベラリストの常套手段だ。水掛け論にまではならなくとも、世論に疑いを持たせられれば、工作は大成功だ。当然、アイヌ独立運動は盛り上がる。それだけで彼らには充分な利益が転がり込む」

「まさか……」

「偽文書として確定している『シオン長老の議定書』ですら、いまだに信じる者が後を絶たない。嘘は美しい幻想で、あるいは激しい怒りで感情を掻き立てる。善意や憎悪を増幅し、現実を動かす。時に嘘は、真実を呆気なく打ち砕く。真実に嘘を巧みに織り交ぜて人々の心を操るのが、真の陰謀――つまり情報戦の世界で、中国が超限戦と呼ぶ戦い方だ。セクフィールが得意としてきた商売でもある。彼らが大金を投じた以上、ただでは起きない。そもそもこの謀略は、暴かれることを前提に組み立てられた可能性すらある。失敗しても立て直せる目算があるから、決行に踏み切ったんだろう」

「じゃあ、お前のお仲間はどう対抗するんだ?」

「すべては流動的だ。チャールズの余命は短いようだ。彼亡き後、セクフィールたちがどんな手を打ってくるか分からない。アメリカ大統領の任期が終われば、再び国家戦略が反転するかもしれない。中国の出方も不明だ。追い込まれた末に、現在の〝敵〟とも手を組むこともある。ファイブアイズの結束が崩されることも考えられる。状況の変化を読みながら、先手を打っていくしかないだろう」

「そんな、あやふやな……」

「状況に応じてシナリオは書くが、実現することは滅多にない」

「じゃあ、俺の芝居も無駄だったと?」

「とんでもない。情報機関の中にこそ、グローバリストは深く根を張っている。中国の金や女に魂を売り渡した連中も蠢いている。密かに臓器移植を受けた協力者だっているだろう。だからこそ、トップには共通の認識を持って結束していて欲しい。今回の芝居も、CIA長官が大統領を説得できたから実現できたことだ。だが他の国がいつまでも同調するという保証はない。それでも、アイヌの立ち位置や北海道の危機的状況は理解できたはずだ。かつて中国に蝕まれたニュージーランドの過ちを繰り返す事だけは、なんとか防げるだろう。一番心配なのは、やられ放題の日本の政界や経済界なんだがな。それは自分たちでなんとかしていくしかない。グローバリストたちと戦うにせよ、利用するにせよ、出発点は今日だ。少なくとも今は、西側は足並みを揃えた。お前が成し遂げてくれた成果だ」

 野村はようやく納得したように小さくうなずく。

「それなら、いいんだがな。で、ギャラガーはどこに行った?」

「アメリカ領事館。レネは、ディープステートの仲間たちが保護してくれると信じ込んでいる」

「違うのか?」

「領事館員は、すでに大統領派に交代している。レネは〝敵対勢力〟として捕らえられ、尋問される。セクフィールの権力ももはやそこまで及ばない。グローバル勢力の背後関係は程なく明らかになるはずだ。CIA内部の大統領派は、レネをセクフィールを抑え込む交渉材料にも使うだろう。強大な権力を持つグローバリストたちに対抗するには、格好のスキャンダルだからな。米露大統領間の関係を改善させる手駒にもなり得る。世界の大変動に焦った財閥が仕掛けた罠が、逆に彼らに首輪を嵌めることになったわけだ」

 野村には分からないこともあった。

「ギャラガーは結局、誰の命令で動いていたんだ?」

「命令? あえていうなら、自分の信念で、だろうな。彼はこれまで国益を背負って働いていた。その点は、今でも変わりないはずだ。チャールズ・セクフィールが差し出した金に目が眩んだというのは建前で、金は受け取ったがMI6との関係を絶ったわけではない。肩書きなんてただの看板で、要は気持ちの問題だ。チャールズが犯した最大のミスは、ギャラガーを取り込んだことだろうな」

「有能だから、だったんだろう?」

「有能な人間はみんな愛国心が希薄だ、と思い込んでいたんだよ。成功した金融資本家の弱点ともいえそうだな。しかも彼らの多くは、独断での意思決定を好む。だから、各国のセクフィール家が一枚岩ではないという事実を軽く見がちだ。今回も、チャールズのコントロールに渋々従っていた不満分子はいたはずだ。そんな綻びがなければ、彼らの尻尾は掴めなかったかもしれない」

「なんだか、運任せみたいな言い方だな」

「実際、そうなんだよ。世界の全てを知る神様がいるわけじゃない。仮にいたとしても、神様はそれを語らない。情報の収集や分析には死力を尽くすが、重要な事件を見逃したり、偽情報に騙されたり、ただ能力が足りなかったり、結論を狂わせる要素は無数にある。それでも続けるのが自分たちの仕事だ。失敗すれば詰め腹を切らされるが、成功しても称賛されることは滅多にない。今回は、その稀な例かもしれない」

「なんのためにそんな苦労を背負い込む?」

「できる人間がやるしかないから――だろうな。世界は変わった。これからの世界は、グローバリスト対ナショナリスト、海洋国家対大陸国家、そして全体主義と民主主義の戦いが複雑に入り組みながら分離していく。日本はその中で生き抜いていかなければならない。どんな立ち位置を取るかを間違えれば、あっけなく踏み潰されるだろう。そして国民の多くは、全体主義には与したくないはずだ。自由な社会こそが日本が伝統的に理想としてきた価値観だからな。英国も同様に、伝統を守る方向に舵を定めた。セクフィールは英国の財産でもあるが、王室にとって替わることなど認められない。今回の謀略も、中国を陰から支えて権益を安定化させることが目的の1つだったと思う。彼らの暴走は許せない。英国情報部の源流はセクフィールが造ったともいえるが、国が彼らに隷属しているわけではない。則を超えた行いは誰かが諌めなくてはならない。やり過ぎを正せるのは、国王しかいないだろう?」

 野村がしみじみとつぶやく。

「アイヌの国は、夢物語だったな……」

 中西が真顔で見つめる。

「本当に国が欲しいのか?」

「構わないから、笑えよ」

「そんなことは、しない。いや、できない。お前は学者だ。いつの時代でも、愚直に理想を語る者は必要だ。理想は、進む先を照らす明かりだからな。ただ、国を守るのはリアリストでなければならない。でなければ、この世から光そのものが奪われる。リアリズムも、護るべき理念がなければ虚しい」

「だが、もうアイヌは新しい生き方を見出している……」

「そこは納得したのか?」

「するしかない。それほどの経験をしてしまった……。俺は学者……っていうか、研究者だからな。事実を前にして嘘なんかつけない。研究者なんてもんに……ならなければ幸せだったのかもな……。ずっと夢に浸っていられたかもしれないのに……」

「アイヌ文化は文化として守り、正しく後世に伝えていけばいい。むしろ伝えるべきだ。それこそお前の役目だろう?」

 野村が中西を見返す。

「お前にそんなことを言われるとはな……」

「自分にだってアイヌの血は流れている。今は、自分が忌むべき存在だとも思わない。アイヌの誇りは、日本人として生きることでも全うできると分かった。自分自身の偽りのない姿を、見つめればいい。そのために、わざわざ別の国を作る必要はない。ことさらに分断を望むのは、かえってアイヌの歴史を貶める行いだと感じる」

「どうやら、そういうことらしいな……。簡単に気持ちは整理できないが、現実は現実だし、歴史は歴史だ。現代の人間の都合で変えるなんてできないし、してはいけない。俺は今、美術の世界でアイヌ系の日本人として働いている。誇りも持っている。お前の言う通り、そんな仕事がアイヌだけの狭い世界で完結できるわけもない。ましてや、アイヌの名を外国勢力に利用させるわけにはいかない。日本は……少し、悔しいが……もう、俺の国なんだよな……」

「復讐は、諦めたか?」

 野村は長い沈黙の後に、重苦しいため息をもらした。

「……嫁を殺して俺をボコったやつは、刑務所に舞い戻ってるそうだ……。どちらが人間として……日本人としてまともかは、言うまでもない。つまり、これが俺が求めた復讐だ……。そして、女房子供の無念を晴らす唯一の方法だった……。念願は、叶えられた。お前と再会できたおかげでな……」野村は天井を見上げ、閉じたまぶたにわずかな涙を浮かべた。「俺は、そう思うことに決めたよ」


                           ――了 




■主な参考文献

『天明蝦夷探険始末記』照井壮助・八重岳書房

『田沼意次・その虚実』後藤一朗・清水書院

『ロスチャイルド王国』フレデリック・モートン・新潮社

『黒船前夜―ロシア・アイヌ・日本の三国志―』渡辺京二・洋泉社

『北海道が危ない!』砂澤陣・育鵬社

『アイヌ先住民族、その不都合な真実20』的場光昭・展転社

『科学的アイヌ先住民族否定論』的場光昭・的場光昭事務所

『知ってはいけない現代史の正体』馬渕睦夫・SB新書

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黄金の砦 岡 辰郎 @cathands

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