第5章  謀略・2025年(現在)

5ー1 札幌

 CIAが札幌市内に準備した殺風景な〝会議室〟――。そこには簡素なテーブルの列と、大型モニターで埋め尽くされた壁しかなかった。それぞれのモニターには、ファイブアイズ各国の責任者や自衛隊統合幕僚長、そして主賓として会議室に招かれた野村自信の姿も映し出されている。

〝西側〟の情報機関のトップを集めたこのリモート会議で、『千島アイヌ条約』の扱いが方向づけられるのだ。

 野村が座る席の前には、目立たないように高精細カメラがセットされている。そのカメラは、落ち着かなく揺らぐ視線を捉えていた。隣室には画面に資料を提示する担当者として警察庁外事課の職員が待機し、宮下が指揮をとっている。

 内容が美術史に及ぶために、通訳は専門知識を持つレネが行うことになっていた。レネは野村の隣席でヘッドセットを身につけ、準備を終えている。セクフールのオブザーバーとしてギャラガーの同席も認められ、画面上ではレネと同じモニターに映っている。

 会議室内に他の参加者はいない。

 中西は急を要する用件があり、到着が遅れていた。野村には『新たな資料が入手できたので受け取りに行った』と伝えられている。

 会議室の外は、各国情報機関の工作員に加え、モサドや自衛隊の特殊部隊員で厳重に警護されている。室内に窓はなく、徹底した安全対策が取られているという。

 野村のヘッドセットに宮下の言葉が入る。

『中西氏はまだ到着できないそうだ。お偉方を待たせるわけにいかない。列像がたどった歴史の説明を始めてください』

 その声はレネのヘッドセットにも入っている。野村の判断を待たずに、レネが英語で言った。

「では、野村教授から列像が生まれた経緯を説明します」

 野村はレネの視線に促され、列像が辿った歴史的経緯を説明し始めた。細部を省きながら本質を伝える手順は、考え尽くしている。日本語を使っていたが、翻訳がしやすいように区切りながら、ゆっくりと話す。

「アイヌ絵と日本の中世史の研究を専門にしている野村です。夷酋列像が作られた経緯を、簡単にご説明します……」

 野村は近くに中西がいないことに不安をかき立てられ、言葉も滞り立ちだった。座ったままでの〝講義〟が許されていなければ、足の震えを隠すことはできなかっただろう。モニターに大写しされる自分の落ち着きのない表情が、余計に平常心を奪っていく。周囲の画面に映る各国情報活動責任者の厳しい視線が、心臓を射抜く。

 しかしいったん説明を始めれば、あとは短大の授業と変わらない。違いは、翻訳のタイミングを考慮して頻繁に言葉を区切る必要があることだけだ。一息つくたびに、レネが適切な翻訳で内容を伝えいく。2人は息の合った解説を続けていった。

 説明が進むにつれて、モニターには必要な文書や画像が表示されていく。隣室の宮下が内容に合わせて資料を選び出し、提示させているのだ。各国の担当者たちも真剣さを増し、興味深そうに話に聞き入っている。列像の数奇な運命を語る野村の口調は、次第に自信に満ちたものになっていった。

 野村の長いレクチャーが終わりに近づく。と、モニターの中でレネが振り返った。

 それに気づいた野村が隣席のレネの様子を見る。視線を追った先のドアから、ブリーフケースを抱えた中西が入ってきたところだった。しかも、隣室にいるはずの宮下も伴っていた。宮下が参加することは、野村には伝えられていなかった。

 野村は訝りながら、解説を中断した。

 緊張した面持ちの2人が、無言のまま野村の隣の席に着く。予備のヘッドセットを装着すると、モニターにスイッチが入った。大写しになった彼らの表情が、野村の不安を高めた。2人とも、世界の情報機関の要人の前で、激しい緊張を隠そうとしていない。

 だが、中西は無言で野村の説明を促しただけだった。

 この会議が今後の世界情勢を左右しかねないことは、誰もが理解している。メンバーはこの場で意思統一を図り、それぞれの元首との調整に入る手筈だった。野村は中西と言葉を交わすこともできないまま、『黄金の砦』が辿ってきた軌跡を説明し終えた。

 改めて横の中西を見た。やはり中西は、全身から緊迫感を滲ませている。何か異常な事態が発生したことを予感させる……。

 議長のCIA長官がモニターの中で言った。

『ノムラ教授、ありがとう。あなたの調査で、日本国内における『千島アイヌ条約』の正統性は確定したものと思われる。今後も可能な限り物的証拠を発掘して、論拠を補強していただきたい』

 レネがCIA長官の発言を日本語に翻訳する。野村も多少の英語は理解できたが、早口の討論について行けるまでの会話力はない。

 野村は同意を表すためにカメラに向かって会釈した。

 CIA長官が続ける。

『問題はロシアからの要求にどこまで応えるか、だが……。真正面から取り組めば膨大な費用と時間がかかる。猶予を与えて中国と連携されたりしては、条約を握り潰される危険も生じる。これまでの情報を国連で公表し、一気に追い込むという手段もあり得るが?』

 SIS長官が発言する。

『こちらでも条約公表後のシナリオを分析中だが、条約が言葉通りに実行される可能性は極めて低いとの結論だ。条約自体を秘匿したまま、ロシアとの裏交渉の材料にすべきだという意見も多い』

 レネの翻訳を聞いた野村が腰を浮かせて叫ぶ。

「ちょっと待て! この条約はアイヌ民族が存亡をかけて繋いだ宝物だ! それを取引きの道具に使おうというのか⁉」

 野村を制したのは中西だった。

「落ち着け。お前に話さなければならないことがある」

 野村は中西をにらんだ。

「今さらなんだ⁉ お前も奴らの味方なのか⁉」

 中西は落ち着いていた。

「新たな文書が届いた、と伝えただろう? 直前まで中身を確かめていたが……この場で、お前に読んでもらわなくてはならない」

 中西の隣で、宮下が流暢な英語で状況を説明していく。それを聞くモニターの中の高官たちが、ざわつく。彼らにとっても予期しない展開のようだった。宮下は、新たな証拠物件の発掘によって条約の意味合いが根本から変わる可能性を伝えたのだ。

 モニターの様子を確認しながら、中西はブリーフケースから分厚い書類の束を取り出した。野村の目を見つめ、書類を差し出す。

 野村にも、その緊張感が伝わる。

「これは何だ?」

「新たに発見された文書だ」

「何で今さら、こんなものを?」

「重要……いや、極めて重要だからだ」

「ここで読めってか?」

「今見なければ、お前が世界を破壊することになるかもしれない。この文書をここで読むのは、研究者の責任だ」

「なんだよ、それ……」

 書類を受け取った野村は息を荒げて、渋々目を落とす。

「ざっとで構わないから、読んでくれ」

 ダブルクリップで止められた真新しい用紙の束は、プリンターで打ち出した文字で埋め尽くされている。素早くめくっていく。

「論文の草稿……なんかじゃないな。は? これ……小説か何かか?」目を上げて中西をにらむ「なんでこんなものを⁉ 今はそんな場合じゃない⁉ アイヌの国ができるかもしれないって大事な時なんだぞ!」

 中西は野村の怒りを無視し、カメラに向かって英語で言った。

「事態を明らかにする重大な新情報を確認していますので、もうしばらくお時間をいただきます。そのままでお待ちください」

 一方の宮下はケースからノートパソコンを取り出し、机で広げた。中西と完璧に打ち合わせた行動に見える。

 野村は書類に目をもどす。慌ただしく紙の束をめくっていく手が、不意に止まる。

「『ゲーリング・1943年』って……なんだよ、この原稿……?」

 中西が野村の横顔に語りかける。

「やっと届いた決定的な文書だ。これは30年前、ある出版社が行った歴史小説の公募に送られてきた小説だ。だが、ざっと目を通しただけでも分かるだろう? ビスマルク、ナポレオン、平賀源内、マッカーサー、夷酋列像とアイヌの黄金の変遷、そして条約の内容……全てが、そこに書かれている。30年前に書かれた架空の物語に、だ。もちろん、これはただの小説――無名の作家の空想の産物だ」

 野村の視線が中西に向かう。

「なんだって? たかが小説がこの会議に関係あるってか⁉」

「関係どころか、根源だったんだよ。自分たちはずっと、この物語に翻弄されてきたんだ。全ての発端は、この小説だったんだ」

 野村は、理解できないというように眉をひそめる。

「は……? 何を言ってる? どういうことだ?」

 中西は目を逸らさない。

「いきなり聞かされても信じられないだろうが、自分たちが追ってきた『黄金の砦』の伝説は、全て架空の物語だったんだ。世界中が、名もない素人作家が作った壮大な嘘に騙されてきたんだ」

「なんだよ、それ……? 嘘って……なんだよ……」

「だから、列像の謎は全てその原稿に記されているんだ」

「は? 安っぽいアニメじゃあるまいし、妄想が現実になったとでもいうのか⁉」

「違う。妄想を現実に変えた者たちがいる」

「は? ……何を言ってる……?」

「世界を巻き込んだ壮大な欺瞞工作だ。誰かが大金を投じて、無名作家の妄想を現実に見せかけた。自分たちは、その壮大な嘘を本物のように演じる役者にされたんだ」

「なんだって⁉ それこそアニメみたいな――」

 だが、野村は不意に言葉を呑み込んだ。中西が言う〝誰か〟に思い当たったのだ。再び書類をめくり始める。

「気づいたか? 世界中が、その策略に騙されていたんだ」

 野村は書類に魅入られたまま、言葉を絞り出した。

「まさか……じゃあ、砦も条約も……みんな作り物だと……?」

 中西がうなずく。

「何もかも、全て」

「バカな……。なんで今さら嘘だなんて……しかもこんな重要な会議の真っ最中に……?」

「今さらでも、間に合ってよかった。会議にこの小説が間に合ったのは、奇跡かもしれない。決定的な証拠だからな。もはや真実を隠したまま会議を進めることはできない」

 その間も野村は慌ただしく原稿をめくっていた。

「真実って……なんだよ……」

「お前にはその原稿を、歴史家として評価してもらわなければならない。実は『黄金の砦』は作り話ではないかという観測は早い段階からささやかれ、傍証も集まっていた。しかし証拠になるその原稿が欠けていた。破棄されたと思われていたデータがようやく回復できたんだ。お前なら、その原稿が何を意味するか分かるはずだ」

「バカな……バカな……なんでそんなことが……?」

 中西は、食い入るようにページをめくる野村を見つめて言った。

「列像に一番詳しいのはお前だ。今のお前の反応が、全てを物語っている。その架空の歴史には、全てが書いてある」

 野村が中西を見た。その目はすでに、中西の言葉を認めている。

「なぜだ……? なぜそんなことを……? 誰がそんな……」

「答えは、分かっているだろう? 無論、セクフィールだ」

 それまで茫然と状況を見守っていたレネが叫ぶ。

「何を言っているんですか⁉」

 野村が振り返る。

「レネ……どういうことだ……?」

 レネは答えられなかった。そして、血の気を失っていた。中西の言葉を否定できないのだ。野村も言葉を継げない。

 説明したのは中西だ。言葉を区切りながら、野村に語りかける。

「『千島アイヌ条約』が発見された瞬間から、自分は全てを疑い始めた」

 宮下が、ヘッドセットのマイクに翻訳を囁く。

 中西は、モニターの参加者の表情を確かめながら続ける。

「理由はただ1つ。事があまりに重大で、しかも呆気なく進みすぎたからだ。安全保障に関わる事柄に少しでも不審があれば……いや、一切の不自然さがなくても、一度は疑ってみるのが自分の職務だ。そして事態を進行させてきたのがことごとくレネだったことに思い至った。もしもセクフィールが裏でなんらかの企みを進めているのなら――その観点から一部始終を洗い直した。確証や証拠があったわけではない。情報活動に携わる者の常識に従ったまでだ。だから条約が偽造だという前提での検証を開始し、仮説を立てた。もしも条約がフェイクだとするなら、独力で作り出すことは難しい。セクフィールといえども、専門家のお前を納得させられるほどアイヌ文化や日本の歴史には精通してはいないだろう。だとすれば、何か下敷きになる文書、それも一般には知られていない原典が存在して、それを流用しているのではないか――と予測した。そこで宮下氏に協力を求めた」

 宮下が後を継ぐ。翻訳は中西が替わる。

「最初に探したのが、学術論文です。アイヌ、黄金、そして夷酋列像がキーワードです。しかし100年遡ってもそれらを網羅するものはない。そもそもこれほど奇想天外な研究が実在するなら、公表されていない方がおかしい。で、もしや架空の歴史ではないかと思いつき、創作物――特に仮想歴史小説を調べました。出版されているものの中には皆無で、次に当たったのが歴史小説の公募で選外になった作品です。あちこち当たった末に見つかったのが、30年前のこの作品です。タイトルは『黄金の砦』で某公募の奨励賞を受賞しましたが出版はされず、原稿も残っていません。社内記録の短い梗概に、『夷酋列像に隠された暗号によって、アイヌ民族が千島列島を買い取る国際条約を結んでいたことが発覚する』とだけありました。現場を退いた編集者が微かに内容を覚えていました。作者の情報も残っていましたので接触したところ、1年前に交通事故で死亡していたことが分かりました。遺品のワープロは壊れてホコリをかぶっていましたが、ようやくデータを回復し終えてその原稿が見つかったのです。届けられたばかりで詳細な分析はまだですが、内容はレネ氏が語ってきた内容と一致し、またあなたが解明した日本側の歴史にも沿っているようです。そこで、セクフィール家がこの架空の物語を下敷きにして『千島アイヌ条約』をでっち上げようとしている――という推論が成立しました」

 野村がつぶやく。

「30年も前の原稿……しかも出版もされてないなら、なんでセクフィールが知っているんだよ……」

 宮下がかすかにうなずく。

「CIAの前身にあたるOSSは、第二次大戦以前から恒常的に日本文化を研究し、我が国の弱点を探していました。戦後は日本の国民性を改造すべく、政界、教育界、経済界、そしてマスコミなどに工作を行いました。テレビ局や出版社もその対象に含まれています。手段として焚書や公職追放が使われたのです。OSSには資金面でも人的リソースでもセクフィール家が大きく関与し、水面下の情報収集は現在に至るまで継続されています。大日本帝国を〝民主化〟しようと目論んでいた彼らは、ジャパン・ハンドラーたちや現在のグローバリストの流れにつながります。その過程でこの仮想小説に行き当たり、いつかはこのアイデアを生かそうと考えてファイルに仕舞い込んだのでしょう。そして、今なら〝アイヌ独立〟が日本を分断する強力な武器になる――そう気づいた者がいたのです」

 翻訳を聞いた参加者が、モニターの中で驚きのため息をもらす。

 野村がつぶやく。 

「だが……列像がパズルだと言ったのは、中西……お前だ……」

「パズルのようだ、と感じただけだ。たまたま自分の直感がレネの都合がいい方向に働いたようだ。レネはそのチャンスを生かして、直後にパズルを完成させた。もしも私が口に出さなければ、不自然に思われない程度の時間をかけて自分で誘導していっただろう」

「川の形は⁉ あれは確かにツキノエのイトッパと同じだ!」

「単純な図形だから、偶然一致しただけだ。川が目印として使えなければ、何かしらアイヌに関係する地形を探してこじつけていた」

「まさか……だが砦は実際にあった。条約書も発見された……」

 宮下がうなずく。

「砦はありましたよ。中国、青島の映画スタジオにね」

「は? 何を言ってる⁉」

 中西が後を引き取る。

「思い出せ。国後に渡った傭兵部隊の映像は、砦に到達する直前に一斉にトラブっただろう。当初はロシア軍の妨害かと思っていた。しかしあの場にロシア軍など存在しなかった。通信が回復した後は、中国の映画スタジオでの虚偽の映像に切り替えたんだ。砦で発見されたように見えた条約文書も、巧妙に偽装された作り物だ。何もかも、世界の情報機関を騙すために仕組まれた芝居だったんだよ。当然、中国や半島の情報機関にも芝居に加担した者がいる」

「だが、砦とはリアルタイムで交信していたじゃないか!」

「フェイク画像は中国からいったん国後に送られ、傭兵部隊が中継して札幌と繋げた。自分らは実際には青島にいる役者たちと通信していたんだ。傭兵役の役者も、ヘッドセットの指示を受けながら演技をしているつもりでいたんだろう。5Gなら民間回線ですらタイムラグは生じないし、多少の齟齬なら通信障害でごまかせる」

「なんでそんなことが分かった⁉」

「反グローバリズムを公言するアメリカ大統領の再選で、CIA内にも強固な支持層が生まれた。彼らがスタジオの存在を発見した」

「だったら……砦を爆破した映像は……? あれは米軍から入手した監視ドローンの中継映像だったんじゃないのか⁉」

「だからこそ米軍も欺かれた。爆発は国後で実際に起きた。傭兵部隊があらかじめ仕掛けた気体爆薬を起爆したんだろう。ロシア軍の仕業に見せかければ崖も崩れ去り、砦も条約書も消える。そもそも存在しなかったことも証明できなくなる。ロシア情報部が痕跡を調査してトリックを暴いたところで、西側は彼らの言葉を信用しない。ロシアも、国後という重要拠点に西側の調査チームを招き入れることは拒否する。ロシアが騙されたことに気づいたとしても、犯人は西側の情報機関だと断定するしかない――」

「証拠は⁉ そんなバカな話、お前の言葉だけで信じられるか!」

「2ヶ月前、ハリウッドの美術監督がロスで麻薬中毒患者に撃たれて死亡した。宮下氏に直接調べてもらったが――」

 宮下がテーブルのパソコンを操作すると、使用していなかったモニターに画像が映し出される。静止画像が数秒間隔で切り替わっていく。洞窟内部の映像のようだった。作業服の中国人らしい人物が数人、壁に何かを塗っている。最後に映し出されたのは、壁際に祭壇を設置している作業風景だった。その1枚には、太った現場監督らしい人物がピースサインを出している自撮りが混じっている。

 それを見た野村がうめく。

「黄金の砦……」

「砦を〝作る〟過程の記録画像だ。美術監督の家族の証言によれば、戦争映画の撮影で中国へ長期間出張していたそうだ。映画自体は資金調達に失敗して中止になったと説明された。本人はこのセットの出来がえらく気にいって、密かに撮影したと言っていたそうだ。傭兵部隊から送られてきた映像と細部まで一致した。おそらく、監督は口封じで殺されたのだろう。セットは役目を終えて廃棄されているだろうが、スタジオが青島では調べに行くわけにもいかない。当然、そこから発掘された条約文書も偽造されたものだ。実物を科学的に分析すれば偽造は発覚する。それを防ぐために、砦と共に爆破されたことにする――そういう設定だったんだよ」

 野村は我を失っている。

「いったい、なんのために……」

「実行したのは、セクフィールが代表するグローバリストたちだ。目的は――本人から説明してもらうべきだろうな」

 視線を向けられたレネは、やはり何も答えなかった。

 野村がつぶやく。

「だが、そんなことにどれだけの資金がいる? そんな作り話に大金をつぎ込んだってか⁉ なんの得があるんだ……?」

「とてつもない資本が必要だ。だが、年に何10本も作られてるハリウッドの大作映画にすら遠く及ばない。有名俳優の高額な出演料は必要ないからな。仮に大ゴケしても、セクフィールなら蚊に喰われたほども痛まない。ジャックポットなら、世界の舵を握れる」

「世界の舵って……?」

「レネは説明する気がないようだ。では、自分がするしかないだろう……。お前も、大統領の交代でアメリカの国家運営方針が変わったことぐらい理解しているだろう? それまでのアメリカは世界各国の紛争に介入し、拡大し、意図的に混乱を引き伸ばしてきた。政府の中枢を牛耳るグローバリストたち――いわゆるディープステートと呼ばれる一団にとって、混乱こそが利益を生む土壌だからだ」

「なんだよいきなり、そのラノベみたいな話!」

「これは妄想や陰謀論の話ではない。世界を構成する基本原理だ。ディープステートは、スパイ映画のおどろおどろしい秘密結社なんかとは違う。そもそも、系統だった組織があるわけではない。多国籍企業や国際金融資本家たち、そしてその利権に群がる連中の集合体だ。国家を超えて、国家を操る者たち――ある意味、金融の神を崇める信者のようなものだ。たった1パーセントの人間が世界の富の半分を独占しているとまでいわれるのが現代だ。彼らは普段は金儲けでしのぎを削っていても、利益のパイを広げるためなら力を合わせる。究極の目的は国家の枠組みを解体して、ワンワールドに君臨することだ。国連をはじめとする国際機関も、そのために作られた要素が大きい。そして目的を叶えるために情報が操作され、無数の紛争が起こされ、多くの兵士が犠牲にされ、無辜の民が虐殺されていった――」

「アイヌとなんの関係がある⁉」

 中西はじっと野村を見つめたまま、続ける。

「日本もまた、彼らの草刈場にされてきたんだ。国際機関を操って国家の自主権を奪い、ポリコレを教典にして伝統をねじ曲げ、多様性の美名の下に文化を解体し、移民を武器に変えて国境をなぎ倒す――それが彼らのやり方だ。ある意味、『分割して統治せよ』の狡猾な実践例だな。世界が局地戦で消耗していれば武器商人は客に困らないし、実力を持つチャレンジャーも現れない。そんな現実に気付いた民衆が選んだアメリカ大統領は、この構造自体を破壊し始めた。東欧や中東の紛争からも手を引き、公然とグローバリストを非難している。ブレグジットやEUの溶解も、国家主権を回復させたい人々の反乱だ。反発の強さを恐れたディープステートにとって、抵抗勢力の弱体化が急務だった。そのためには、世界を巻き込む戦乱が必要だ。だから太平洋に新たな紛争地帯を作り出そうとした。ロシアの領土として一応は安定している千島列島の帰属を曖昧にすれば、米露だけではなく日本や中国も介入する紛争地に変わる。現実性はともかく、中国は北海道が一帯一路の末端だと公言してきた。海底資源や北極海航路の利権を掛けて、奪い合いは熾烈を極めるだろう。マスコミや各国の政府機関に浸透しているグローバリストの手先が情報を操作すれば、熱戦を引き起こすことも可能かもしれない。陰謀論と揶揄されることも多いが、過去の大戦やテロとの戦いも同様の手段で引き起こされてきた側面が否定できない」

「嘘だ! すべてがセクフィールの計略だというなら、なぜこうして簡単に世界が騙された⁉ そんな謀略を暴いて止めるのもお前らの役目なんじゃないのか⁉」

「それが彼らの傑出した点だ」そしてレネを見つめる。「条約偽装の準備を終えたセクフィールが最初に手を付けたのは、偽情報でネオナチを操ること。次にその動きを〝証拠〟にして、ロシア対外情報庁――SVRに疑念を植え付けることだった。ネオナチは、内部に潜んだセクフィールの工作員に踊らされてブザンソンを襲った。破壊された美術館の中身は価値が低いものや贋作に置き換えられていたようだ。同時にロシアの内部からも揺さぶりをかけた。SVRにも、大統領に利権を奪われたオリガルヒの手先が入り込んでいる。彼らが、スラブ民族の復興を進める大統領に反旗を翻した。国後に渡った傭兵部隊はそのほんの一部に過ぎない。彼らは情報収集の最前線で『黄金伝説』や『千島アイヌ条約』のあやふやな噂を広めはじめた。当初は信じなかった大統領もネオナチが動き出せば対策を講じなければならないし、オリガルヒが特殊部隊員を集めているとなれば対処する。予防措置として領事館にお前の処分を命じたのが、それだ。しかもモサドが救出に動いたことで信憑性が格段に増した。地方協力本部での狙撃や真駒内駐屯地での襲撃は、列像の謎が本物だと思い込ませる工作だろう。ネオナチの活性化、SVRの末端局員からの偽情報、セクフィール家が世界各国で繰り広げた欺瞞工作が積み重なって、『黄金の砦』の探索にCIAの偵察機まで引っ張り出した。DDOは逆に、あの一件から局内の守旧派を疑い始めたんだが、ロシア大統領は逆に『黄金の砦』の実在を確信したようだ。小さな事件を使って次の事件を引き起こし、次第に事を大きくして、首尾よく超大物を釣り上げたわけだ。黄金伝説さえ信じれば『千島アイヌ条約』の正統性も否定できない。ロシア首脳部を騙し切ったことで、ファイブアイズも『条約は正当だ』という前提で対応するしかなくなった。疑心暗鬼の連鎖を巧みに操って、本物の脅威を作り出したわけだ」

「そんなことが簡単にできるわけがない……」

「簡単ではない。だが、不可能でもない。不可解な理由で起きる軍事衝突や経済恐慌と仕組みは同じで、過去には何度も繰り返されてきた。セクフィールが最も得意とする情報工作だ」

 反論ができなくなった野村が、つぶやく。

「だったら、俺はなんで巻き込まれた……?」

「たまたま、だろうな」

「は? たまたまって、なんだよ⁉」

「必要なのは、アイヌ絵の研究者だった。お前でなければ他の誰かが〝主人公〟に選ばれ、役を終えたら消されていただろう」

「俺も殺されていた、と……?」

「事実、命を狙われた」

 何度も危機を乗り越えてきた野村は否定できない。

「だったら、お前や自衛隊はその計画に入っていなかったのか?」

「自分がお前の幼馴染で、しかも自衛隊員だったのは想定外だったろう。だが、その誤算さえメリットに変えた。作戦がこれほど素早く進んだのは、自分を通じて各国の情報機関を引き込めたからだ」

「なのに、嘘だと暴かれたのか……?」

「〝脇役〟たちの能力を過小評価した結果だ」

「アイヌは謀略に利用されただけだっていうのか⁉」

「アイヌでなければならない必然性はあった。グローバリストにとっての最大の敵が誰だか分かるか?」

「なんだよ、いきなり……」

「我々の国、日本なんだよ。日本は世界最古の歴史を持ち、世界でただ1人のエンペラーである天皇陛下を戴く国だ。しかも、第二次大戦によって白人による世界統一を防ぎ切った歴史を持つ。植民地にされることを拒否し、時代の突破口をこじ開けたんだ。中でもセクフィールは、多くの植民地を失った最大の〝被害者〟だ。戦後の日本はあらゆる手段で国力を奪われたのに、皇室を守り通し、資産を増やし続けた。今でも30年近くにわたって対外資産世界一という経済力を維持している。それどころか、独特の〝共存共栄〟思想に基づく経済援助や、コミックやアニメのソフトパワーで存在感を高め続けている。情報操作の道具でもあったハリウッドの大作映画まで、ゴジラに負けた。日本人の無邪気ともいえる善意や遊び心が、他国からは思想侵略に思えるほど強力な浸透力を発揮している。災害は絶えず起きるのに、混乱も少なく、暴動とも無縁だ。パンデミックですら強権を振るうことなく乗り越えてしまった。そんな日本に引きずられるようにして、アメリカまでがセキュリティーダイヤモンド構想に組み込まれた。クアッドとも呼ばれる日米豪印の防衛協力体制を先導してきたのも、まさに日本だ。今やグローバリズム最大の敵は、独自の価値観を失わない日本なんだ。現状を打開するには、日本の根幹を破壊するしかない。中韓や移民を利用した日本弱体化はたゆまずに進められてきたが、それすらインターネットで暴かれて無力になりつつある。だからあらゆる方法を用いて新たな亀裂を作り、溝を深めようとする。実質的には存在しない〝国の借金〟、差別や格差、基地や環境問題、男女の対立、LGBTの過大な要求、皇室への攻撃、そして沖縄やアイヌの独立――日本経済を弱めて分裂を促す動きの全てに、外国の工作が紛れている。北朝鮮は数10年前からアイヌに目をつけ、日本弱体化のツールとして入り込んできた。中国やロシアも、アイヌを利用して北海道の奪取計画を進めている。反グローバリズムの猛攻を受けているセクフィールは、中朝のプランを有効だと評価し、強力にバックアップすることを決めた」

「だが、なんでセクフィールが自分たちで乗り出す? 歴史を背後から操ってきた一族なら、今だって世界各国に工作員まがいの要人を送り込んでいるんだろう? そいつらを操れば――」

「焦っているんだ。もはや穏やかな影響力工作だけでは反グローバリズム勢力は押し返せない。形勢を逆転する決定的な一撃が不可欠だったんだ。しかもこれだけ大掛かりな欺瞞作戦となれば、高名な古文書の専門家やら舞台装置に大金を投入し、破綻なく調整していく必要もある。それも、極秘のうちにだ。もはやセクフィールの総力を上げなければ対処できない。覚悟を決めた渾身の一撃――そういう作戦だったんだろう」

「そんな陰謀が暴かれたら、ただじゃ済まないだろうに……」

「セクフィールの介在は極力隠そうとしただろう。しかし陰謀の中心は、有能で信頼できる身内でなければ任せられない。だから学芸員のレネをアイヌ研究の専門家に仕立て上げた。千島列島はロシアにとってオホーツク海を守る壁であり、太平洋への出口でもあり、中国にとっては北極海航路の入り口だ。主権が曖昧になれば利権が対立する。沖縄と同様、日本が抱えた地政学的な要衝でもある。仮に千島列島がアイヌの土地になれば、アメリカ、ロシア、中国の思惑がせめぎ合う紛争地域に変わる。アイヌ問題に北方領土を絡めることで、問題を複雑にして解決を引き伸ばすことができる。日本がロシアと友好関係を結ぶことは不可能になるだろう。日本の国論は分裂して国家の安定も揺らぎ始める。グローバリストにとって最も手強いラスボスである日本を倒すには、内部からの侵食が不可欠だ。アイヌの利用は皇室への攻撃にも有効だ。日本を分断して北極海航路を牛耳れば、投下した手間も資金も取り返せる。ロシア大統領が『千島アイヌ条約』を否定すれば、少数民族との契約を無視する無法者として非難することができる。オリガルヒを復活させてロシアの資源を奪う可能性も生まれる。何より日本を紛争に巻き込むことでアメリカ大統領との協力体制を弱め、グローバル化を強要できる。その謀略に、世界の情報機関が振り回されたわけだ」

 宮下が言い添える

「北海道は、中国が占領を狙う豊かな土地です。広大な農地と水源地を擁する、彼らのフロンティアなんです。すでに相当の面積が買い取られてもいます。今は頓挫しましたがIRでの浸透工作も同様。経済破綻の真っ最中にある中国にとって、数少ない突破口といってもいい。かつてのソ連も、東北地方まで支配下に置こうと企てていました。大陸国家にとって太平洋への出口が重要だからです。だからこそアメリカは、北方領土の主権をあえて曖昧にして日ソの接近を阻んできたのです。北極海航路が拓け、北海道や北方領土は格段に重要性を増しました。この要衝を押さえれば太平洋と大西洋との最短ルートに睨みを利かせることができます。沖縄も同じように、太平洋への通路として絶えず狙われています。それが彼らがアイヌや沖縄利権に群がる理由の1つです。北朝鮮はもとより、韓国、中国、そしてロシアが利益を得ようと必死です。国際金融資本にとっても同様。この地を制すれば日本を破壊し、世界を1つに包み込む海上ルートが完成します。アイヌの支配地域に混沌が生じれば、国際機関の監視が届かないタックスヘイブンの適地にする道も拓けます。見過ごせない権益といえるでしょう」

 中西が後を続ける。

「中国は深傷を負って見境なく暴れる猛獣だ。逆転の一手を求めている。ハイテクを含めた経済戦争ではジリ貧を余儀なくされ、強気を装って周辺国を恫喝するほど孤立化を深めていく。台湾はもちろん、取り込んだはずのドイツやイタリア、東南アジア諸国――それどころか香港や南モンゴルでさえ離反していく。国内では食糧危機で不満が爆発寸前。なのに民衆の怒りをそらすために紛争地で武力を行使すれば、アメリカ主導の軍事力を結束させて自滅する。八方塞がりを打開する道が、セクフィールの謀略だったんだ」

 野村は叫んだ。

「アイヌになんの関係がある⁉」

「包囲の鎖の最も弱い輪が、日本だ。政財界、マスコミ、学界への浸透工作は遥か昔に完了していて、強固だ。しかしそれすら、世界の動きにつれて揺らぎ始めた。このまま放置すれば、日本での優位性すら失いかねない。活かすなら、今しかない。その恐怖感がグローバリストたちの思惑と結びついた――ということだ。北朝鮮は混乱を起こして日本を分断したい。中国は日本北方に自国の権益を確保したい。グローバリストたちは混乱に乗じて利益を上げ、北極海航路を牛耳りたい。それぞれが利益を追求した結果だ。それが地政学であり、パワーポリティクスの帰結、そして21世紀のグレートゲームだ」

「そんな話はどうだっていい! 俺たちアイヌは和人に差別されてきた! その事実はどんな理由をこじつけたって変わらない!」

 中西は冷静だった。

「お前は本当にそう信じているのか?」

「差別を否定するのか⁉ 俺は家族を殺されたんだぞ!」

「差別はどこにでも存在する。他人を虐げて溜飲を下げたい人間には、理由さえ必要ない。日本だけにあるわけではないし、アイヌだけが差別されているわけでもない。背が低い、太ってる、頭がいい、金持ちだ――どんな些細な違いにだって、差別は生まれる。人間はそういうものだ。差別の原因は、される側ではなく、する側にある。アイヌだからって、特別じゃない」

「だから民族の文化を奪って構わないというのか⁉ 言葉を奪っても構わないのか⁉」

「言葉を奪った? ならば今のお前は、どんな言葉で物事を考えている? 頭の中で日本語を使っているんじゃないか?」

「当たり前だろうが! アイヌは長い間、そうやって飼いならされてきたんだからな!」

「ならば、いつアイヌ語で考える? どんなアイヌ語で考える? 一括りにアイヌ語といったって、部族ごとに違って共通語など存在しない。しかも語彙は生活に必要なものしかない。言語に存在しない概念は、生活の中にも存在できない。そんな種類の言葉で、高度な文化や科学の思索が支えられるか? 日本語全てに対応するアイヌ語が、この世のどこかに存在するのか?」

「だから、言葉を奪われたんだ! アイヌには高邁な宗教観が受け継がれていたのに、だ!」

「高邁? 私から見れば、自己満足に過ぎない。だが、宗教の価値を論じることはよそう。信じる者にとっては、確かに生きる規範だからな。だがアイヌ社会の外には日本があり、ロシアがあり、世界がある。アイヌの思想が重要だというなら、世界に数多く存在する他国の思想もまた、重要だ。だからかつての日本も鎖国を解き、白人社会と対峙した。しなければならないと腹を括った。アイヌも同様の場所に立たされただけだ」

「だが文化も奪われた!」

「たとえば、女子に教育は必要ないと考える文化は実在する。だが今は、人権無視だと非難される。教育は万人に与えれるべきだという。そんな考え方が主流になる以前から、日本はアイヌに教育を受ける権利を与えた。高度な教育には日本語が不可決だから、アイヌ語を制限する場面もあっただろう。だがそれは、日本語を制限する英会話教室と同じ意味合いだ」

「旧土人保護法か⁉ アイヌの尊厳を奪った悪法じゃないか!」

「そもそも旧土人保護法の成立には、アイヌ首長たちの陳情があったという。今になって、保護されることに自尊心が傷つけられるというのか? だったらアイヌは、読み書きもできないまま北海道に閉じ込めれていれば良かったのか?」

「詭弁だ! 日本語を押し付けて洗脳しただけじゃないか!」

「アイヌ語で世界に通用する教育が可能か? ドストエフスキーを口伝で聞かせるのか? そもそもアイヌ語に翻訳できるのか? 日本には、世界中の文化や学問の成果が翻訳され、蓄えられ、それらを活用する体系も整えられている。世界を知るためにまず日本語を学び、日本語を手掛かりに己の思索を広げる――それはお前自身がやってきたことだ。それが教育というものだ。その教育が、アイヌ自身で可能だったとでもいうのか⁉」

「こっちが頼んだわけじゃない!」

「それは嘘だ。アイヌの中にも、日本を、世界を学びたいと望む者はいた。望みながら、父母から止められて悔しい思いをした者もいた。日本人は、貧しいアイヌに土地を与え、教育を与え、厳しい世界の中でも生きていけるように保護した。たとえお節介だったとしても、悪意があったわけじゃない。そしてアイヌも、同化することを選んでアイヌ系の日本人になったんだ」

「それこそが民族浄化だろうが!」

 中西の表情が厳しさを増す。

「その言葉を、中共に弾圧されているウイグルで言えるのか⁉」

「俺はアイヌの話をしている!」

「文字さえ持たないアイヌが時代から取り残されて滅びれば良かったというのか? その理想を、日本語で語るのか? それは自分自身の否定で、自殺と同じだ」

「だが、アイヌ文化は滅ぼされようとしている!」

「アイヌ文化? そう言われているものの大半は、観光資源の見世物に過ぎないんじゃないのか? 文化が大事だと信じているなら、今でも100年前の暮らしを続けている集落があってもおかしくはない。文化は、自ら守るべきものだ。古代のユダヤ民族は国を失い、奴隷にされながらもヘブライ語を守り、伝え、民族の結束を保ってきたといわれる。そうして、数1000年間も耐えて国家を手に入れた。同じことを、なぜアイヌはしなかった?」

「文字がないのにそんなことができるか!」

「より強固な意思で伝えればいい。なぜしなかった⁉」

「できなかったんだ! アイヌ文化は禁止されたんだからな! 土地だって奪われた! だから取り戻そうとしているだけだ!」

「時代に合わなくなった文化が消えるのは必然だ。伝統だからといって、カニバリズムを保護しようなんていう国はない。かつては大国の権利だった植民地も、今は否定される。多重婚や奴隷売買、動物の虐待だって淘汰されていく。仮にアイヌがアイヌ民族として独立していたとしても、同じだ。実際、日本人も世界との軋轢を抱えながら苦悩している。捕鯨はまさしく文化だが、その扱いはまだ定まっていない。文化は否応なく混じり合い、衝突を克服しながら変化していく。アイヌ文化も、そうやって日本に溶け込んでいった。今時、粗末な家(チセ)に住んで、山菜や狩りの獲物を食い、電気も車もない生活をしているアイヌがいるのか? アイヌ語だけで生活しているアイヌが1人でもいるのか? そんな暮らしに戻りたくて、アイヌ文化を守れと言うのか? アイヌは日本人に溶け込んだ。教育も受け、生活の水準も格段に上がった。日本人もアイヌを受け入れた。それが文明だ。アイヌ系の日本人として普通に生きていて、なんの不都合がある?」

「だが差別は消えていない! 妻も子供も殺されたんだぞ!」

「だからそれは、個人の問題に過ぎない」

「個人の気持ちが変わらないなら、法で止めるしかない!」

「人の気持ちまで法律で縛りたいのか? そもそも、アイヌが文化を誇っているなら、なぜ消えていく?」

「差別されているからだ!」

「もはや公の場で差別はない。婚姻も社会保障も、制度は分け隔てなく公平だ。お前は特別扱いを求めているのか? ことさらにアイヌを特殊な存在に祭り上げて特権を要求するのは、逆差別じゃないのか? そんなことをすれば余計に反発を呼ぶ。高額な補助金が絡めば恨みも買うし、利権争いにもなる。『触らぬアイヌに祟りなし』と陰口を叩かれるのが幸福なのか? それで全うなアイヌ文化が守れるのか? アイヌ文化を正しく伝えることには力を尽くすべきだ。だが法律で特別扱いを要求すれば、不必要な対立を招く。逆にアイヌの居場所を狭める。何より、外国勢力に付け入られて日本を混乱させる。奴らにとってはアイヌは手段の1つに過ぎない。それを目論んでいる国々が日本よりフェアだなんて思うなよ」

「ふざけたことを言うな!」

「現実を見ろ。チベット、南モンゴルはどうなった? ウイグルでは100万人以上が強制収容所に押し込められ、臓器さえ奪われている。言葉も文化も宗教も破壊され、民族そのものが抹消されようとしている。それも監視システムと武力によって強権的に、だ。ナチスドイツの虐殺を遥かに凌ぐ蛮行が現実だ。日本が選んできた融合とは本質的に違う、人類史上類を見ない暴虐だ。その国が、今はアイヌに入り込んで北海道を侵食している。それが世界だ。それが人間だ。アイヌが利権や土地、そして自治権を得れば、次の日には彼らがそれ奪う。中国が約束や条約を守らないことは、香港が証明している。その時アイヌは、本当に滅ぼされるぞ」

「アイヌを捨てたお前に、俺の気持ちが分かってたまるか!」

「自分にもアイヌの血は流れている。だが、日本人だ。そもそも日本人に純粋な血統があるわけじゃない。縄文から続く島国に、太陽を信仰する様々な民族が吸い寄せられてきただけだ。古代にはユダヤ民族が大勢移住したという説もあるし、裏付けるような土偶も発掘されている。大陸や半島からも異民族が流入している。全てが溶け込んで出来上がったのが、今の日本人だ。鎌倉時代ごろに蝦夷地に流入してきたのが、元の襲撃に押し出されてきたアイヌだともいう。歴史上は比較的最近で、それが近代になってもアイヌの風習が色濃く残っていた理由の1つだ。先住民族だというわけではないし、縄文人から自然に変化していったわけでもない」

「アイヌが侵略者だったとでも言いたいのか⁉」

「新参者、あるいは〝お客様〟だったのは否定できないだろう? しかもアイヌは、熊をも殺せる毒矢を持っている。もしも先住の縄文人の末裔との武力闘争が起きれば、勝つのはアイヌだ」

「アイヌは平和を愛する民だ!」

「だが、部族間の血生臭い戦闘もあったという。そもそも宗教観や言葉が違うアイヌが、他民族の土地に争いもなく侵入できるとも思えない。生活に密着している数の数え方さえ、根本的に違う。和人は10進法を使うが、アイヌは20進法だ。縄文人は太陽を信仰したが、アイヌの神は熊だ。仮に縄文人が変化していったのなら、こんな変革は起きない。北海道には数万年前から蓄積された1万か所前後の縄文遺跡がある。そもそも縄文時代には東北と一体化した文化圏があったと証明されているし、室町時代には神社や寺も建立されている。平安時代の創建と伝えられるものすらある。北海道は、縄文時代から日本だったんだ。縄文人がアイヌになったという説はあるが、遺伝的にも文化的にも無理がある。アイヌが古くから和人と混合していることは、DNAの分析でもほぼ証明された。アイヌ自身が積極的に和人との結婚を望んだという記録もある。政府が長年、アイヌを先住民族とは呼ばなかったのには裏付けがある。科学的な見地を無視して今になって法制化したのは、政治的な思惑があってのことだ。日本は歴史的にも外来人に対して寛容な国だ。軋轢は起きても、根本的には相手を許容し、理解し、同化し、融合する。誰もがこの地にやってきて日本人になっていく。それがこの国の精神であり、文化であり、伝統だ。アイヌも、そうやって日本人になっていった。日本人になることで、魂も溶け込ませていった。今になって分けることなど不可能だし、意味があるとも思えない。ようやく融合が叶おうとしている時に、なぜ波風を立てる? アイヌ系だろうが沖縄系だろうが、国民として正当な権利を持つし、責任も負う。日本の大事な仲間だ。それじゃ、いけないのか? 埋める努力を続けてきた溝を、なぜわざわざ掘り返す? 誰の利益になる? それこそ日本を分断したいと願う者たちの魂胆なんじゃないのか? 日本を破壊しようとする企みなんじゃないのか? 一部のアイヌの願望が外国の浸透工作に都合よく利用されているだけじゃないのか? この日本の伝統こそが、国家を否定するグローバリストの敵なんじゃないのか?」

 彼らの言い合いを、モニターの中の情報機関トップが茫然と見守る。誰もが、ギャラガーがカメラの死角に消えたことに気づかなかった。

 ギャラガーの動きは俊敏だった。レネの傍を離れた次の瞬間、野村の背後から腕を回し、こめかみに拳銃を突きつけていた。

 野村は息を呑み、引き上げられるように椅子から立ち上がる。

 中西が、ギャラガーをにらむ。

「銃を持ち込めたのか……」

 銃口で顎を突き上げられた野村は言葉も出せない。

 ギャラガーが微笑む。

「樹脂製で金属探知にかからない。強度は低いが、数発は撃てる。致命傷も与えられる。野村を失いたくなければ、我々を見逃せ」

 席を立ったレネがギャラガーの背後に寄り添う。

 中西はレネを見た。

「セクフィールの策略を認めるんだな?」

 答えたのはギャラガーだ。

「ノーコメント」

「どこに逃げる?」

「君が知る必要はない。警備を退けろ」

 中西はモニターを見渡した。セクフィールの謀略の全貌は、既に全員が了解しているようだった。〝会議〟の目的は達成したということだ。ならば、野村の命まで危険に晒す必要はない。彼の知識は、今後も必要になる可能性が高いのだ。

 口を開けない野村を見ながら、問いただした。

「セクフィールの企みは暴かれた。野村をどうする気だ?」

「殺しはしない。我々が安全に姿を消すまで同行してもらう」

「信用できるのか?」

「できない、と言うはずがないだろう?」

「……分かった」そして中西は、襟元に取り付けたSP用の通信機を摘んで命令を送った。「野村、レネ、ギャラガーの3氏が建物を出る。絶対に行動を妨げないように」

 ギャラガーはわざとらしく会釈すると、野村を引きずるようにして外へ出た。厳しい表情のレネが肩を怒らせて後に続く。

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