ー36ー

 足早に去っていく足音を背に、ミズキは静かに目を閉じた。

 ひとつ大きく深呼吸をし、目前の最愛の女性ヒバナの顔を見上げる。

「ヒバナ」

「うん」

「今日は6日目だ。明日の朝には、キミは全てを忘れて……それはキミの命に関わる。知っているよね」

「そう、だね」

 改めてヒバナの両手を取ると、ミズキは自らの決意を告げる。

「だから、ボクのレネゲイドを今日キミに移植させてくれ」

 

 微かに息を飲み込んだ身体が硬く強張る。

「……っでも、それは……それじゃ、ミズキが……!」

 愕然と目を見開いて自身を見つめる琥珀を静かに見返して、ミズキは首肯うなずいた。

「ねえ、ヒバナ。ひとつだけ覚えていて。キミの病気が治って、ずっと遠い先、何十年もかかるかもしれないけど。キミの身体が落ち着いたら、キミの力はボクを蘇らせることができる……かもしれない」

「そんなの、約束できない……っ」

「うん。できるかもわからないし、そもそも、そんなに時間が経ってキミの隣にいることが、キミにとって幸せなのかもわからない」

「それは幸せじゃない! 嫌だよ、駄目だよ……っ。できない……」

 ひたすらに首を横に振り続けるヒバナの頬にそっと手を添えると、ミズキは目線をしっかりと合わせた。

「嫌だ、止めてよミズキ! ダメだよ、それは駄目。絶対にやめて。お願い……っ」

「キミはボクを見捨てるわけじゃない。ねえ聞いて、ヒバナ。……ボクはね、ずっと独りだった。ミズキボクがボクになったとき、私は世界からいなくなって、忘れられた。母さんからも、ボク自身からも。でもキミが見ていてくれたんだ、ヒバナ。キミが覚えていてくれたんだ。ボクの人生にキミが意味をくれた。暗闇だったものに、明かりを灯してくれたんだ」

 滔々と話すミズキの頬を、力ない平手が襲う。

 ぺちん、と弱々しい音が響いた。

「バカミズキ、何言ってるの」

「うん」

「誰が何と言おうと、朝宮ミズキは朝宮ミズキじゃん。そりゃ、そりゃずっとミズキを見てたのは私だし、お母さんのこともお兄さんやお父さんのこともわかるけど! でもそれは私だけじゃない……でしょ」

 続けるべき言葉を喪ったヒバナは、もどかしげに一瞬口籠る。

「っ……さっき一緒にいた木蓮って子の事、とっても大切な友達だって言ってたじゃない……!」

 悲痛な声で叫ぶヒバナに、一瞬顔を歪めたミズキは、それでも哀しみを抑えて微笑みを返す。

「そうだね。ボクが独りなんかじゃないって事をキミが教えてくれた。キミがいて木蓮がいて、他の人も。そうやってボクはもう一度、世界と繋がることができたんだ」

 両手で優しくヒバナの両頬を包み込むと、真っ直ぐにその瞳を見つめる。

「ヒバナ、大好きだよ」

「……っ」

「ボクはキミが好きだ。どんな “好き” なのかずっとわからなかったけど、そんなこと問題じゃなかった。キミはボクにとって誰より大切な女の子なんだ。それは、ボクの世界で一番確かなことだ」

 祈るように、許しを乞うように、そっと額を合わせる。

「だからボクにキミを、ボクの大好きな子を、助けさせて」

 

 ヒバナは頬に添えられたミズキの手に自身の手を添えると、そのまま愛おしそうに頬擦りをする。

「私も、私もミズキが大好き。誰よりも、誰よりも愛してる。大好き。そんなミズキにここまで想い想われて、本当に嬉しい。本当に私は幸せ者だから」

 重ねた手が一転、力強く握り込まれた。

「でもね。だから、だからこそ、あなたの命を粗末にしないで。私の大切な人を傷つけないで……っ」

「粗末にするんじゃ、粗末にするんじゃない」

「駄目だよミズキ。私は絶対に、そんなことしたらあなたのことを許さない。絶対に絶対に……」

 喉につかえた言葉の変わりに、一層強く指に力がこもった。


 途切れた言葉を、ミズキは自らの唇でついばむ。

 

「許してもらわなくてったって、良い。……キミに触れられない、こんな身体が嫌だった」

 絡めた指の温度も、触れた頬の柔らかな感触も、常に分厚い手袋越しでしか許されない。

「でも、それがキミを助けられる力になるなら、きっとそのためにこの力はあったんだ。無意味なんかじゃない。粗末にするわけじゃない。悲劇なんかじゃないんだよ。……それはとてもとっても意味があって、幸せなことなんだ」

 

 微かに触れられた唇の感触を、ヒバナは確かめるようにゆっくりと指でなぞる。

 何かを言おうと開きかけた口元を一度強く引き結ぶと、大きく首を横に振った。

「……駄目だよ。ミズキは幸せにならなきゃいけないんだ。だから、だから何度でも言い聞かせるよ。そんなこと、そんなことしちゃ駄目だ」

 

 頑なに拒否を続けるヒバナの身体を、ミズキはそっと抱き寄せる。

「わからない子だな。ボクは幸せだよ。キミと重なってひとつになって、ずっとキミと一緒にいる。だから怖くないよ」

 自分より少し早い心音が、触れた熱越しに伝わってくる。

「ねえ、ヒバナ。ボクが言ったことを覚えていて。忘れないで」

「うん、絶対に忘れないよ。忘れるわけないよ」


 

 お互いの鼓動に、ドンドンと扉を叩くノイズが重なる。

「あー……すまない、取り込み中だったかな」

 一呼吸おいて、毒島がバツの悪そうな顔で入ってきた。

「大丈夫です。伝えたいことは、もう伝えましたから」

 顔を上げてそう告げたミズキの顔を見て鷹揚に頷くと、毒島はヒバナに目線を移した。

「わかった。宵街、最後の検査だ」

「はい、先生」

 入口に控えていた看護師が、慣れた手つきでヒバナを誘導する。

 扉の前で振り返ったヒバナは、微かに唇を戦慄かせる。

 だが思いが音になることはなく、そのまま扉はばたりと閉じた。

 

 2人の様子を黙って見ていた毒島がミズキに向き直る。

「……腹は決まったんだな」

「はい。僕はもう、大丈夫です」

「宵街は、ま、あいつが許すわけねぇからな。……強行突破か」

「そうですね。「駄目」って言われちゃいました」

 少し眉根を寄せながら、それでもどこか嬉しそうにミズキは微笑う。

「今日、お願いします。先生」

「……わかった。てめえの意思を尊重するよ。やりたいっていう奴がいて、やれる方法があって、俺が手伝えるんだったらな」

「はい」

「宵街の方はこっちに任せろ。どっちにしろ検査で、昼間の間は大体寝ている」

「よろしくお願いします。ありがとう、先生」

「これから死にに行く奴が医者にお礼なんて言ってんじゃねぇよ」

「勘弁してください。先生にまで怒られちゃ立つ瀬がないや」

「……何言ってんだ。これから死ぬ奴が、医者に怒られねぇと思ってんのか」

「そう、ですね」

 どこか吹っ切れたようなミズキの笑顔から目を逸らし、毒島は窓の外に視線をやる。

「嵐が来る前にやるぞ」

「はい。……でも、僕は本当に、死ぬとは思ってないんです。むしろ……」

 そう答えるミズキの顔を、毒島は横目でじろりと睨め付けた。

「お前だってわかんないわけねぇだろ。残された側の人間がどんだけ辛いか。この1週間、嫌っつーほど味わったろ」

「はい。……でも、それはずっと胸に残っていく。胸に残って、ヒバナや木蓮、みんなが日常と繋がるよすがになる。大切な力になれる」

 胸に手を当てて、ミズキは静かに目を閉じる。

「そんなのはてめぇの勝手、てめぇの自己満足だっつうこと、忘れんじゃねぇぞ」

「はい、どこまでいっても、最後はそうなっちゃいます。……でも、信じてるんです」


 再び目を開けて、真っ直ぐに自分を見つめるミズキを少しの間じっと見つめ、毒島は軽く息を吐いた。

「……時間になったら呼ぶ」

「はい。ボクはここにいますので、いつでも呼んでください」

 お願いします、とミズキは深々とお辞儀をした。

「……ああ」


 準備があるという毒島を見送り、ミズキは空になったベッドに独り腰を下ろす。

 傍の窪みに残る温もりにそっと手を這わせ、そのまま瞳を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

毎週 火・金 18:00 予定は変更される可能性があります

Sparkler of Life ~the Log of our Stories~ みぐま @migma396

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ