第18話 届かない婚約許可証
それから私は、一度もルートリの領域に足を踏み入れていない。ルートリが私を呼ばないからだ。そして私も……今は会いたくない。
新たな『特別』な存在に満たされていたからだ。
「リリア。今日は天気がいいので、温室へ行きませんか? 案内したいのですが」
そう、朝からノエが客室に顔を出してくれるのだ。それも毎朝のことだから、一度だけ無理をしないように言ったことがあった。
すると、「一日の始めからリリアを見たいんです」と満面の笑みで答えられてしまったので、何も言えなくなったのだ。
私もノエの顔を見られるのが嬉しい。ここにいていいのだと、言われているような気がしたからだ。だけど……。
「毎日、邸宅内を案内してくれるのは嬉しいけれど、ノエも自分の仕事があるでしょう? そっちはいいの?」
「僕はまだ爵位を継いでいないので、余裕があるんです」
「……そういえばノエは、ウェルディア様と契約しているのに……どうして?」
「父上と役割分担をしているからです」
「役割?」
私が首を傾げると、ノエは隣に腰を下ろした。
ソファーのほぼ真ん中に座っていたから、いくら細身のノエでも窮屈に感じるのでは、と思って横にずれた。が、さっきと変わらない距離まで詰められてしまい、私は戸惑った。
けれどノエは、さも気にしていない様子で答える。
「急に慣れない場所で過ごすリリアのサポートと、婚約の手続きは、同時にできませんから」
「……私のサポートは、後回しでもいいのよ? それに、まだ婚約していないのに、いつまでもパルディア公爵家にいるわけにもいかないのだから」
普通の婚約がどのように行われるのか分からないけれど、相手の家にいながら結ばれるものではないだろう。いくら私が王女で、特殊な立場にいたとしても、だ。
「リリアはそんなに、あの離宮に帰りたいのですか?」
「いいえ。だけど数日とはいえ、主が不在だと困るでしょう?」
「普段からリリアを蔑ろにしている連中ですよ。困るのなら逆に、とことん困らせてやりましょうよ」
「まぁ!」
その言い方が、まるで昔に戻ったかのようで嬉しくなった。
「僕、可笑しなことを言いました?」
「違うの。ノエは昔から、私の代わりに怒ってくれていたな、と思ったら懐かしくて」
「当然です! その当時からずっとお慕いしていたんですから」
「あ、ありがとう」
全く気がつかなかった、と言ったら、傷ついてしまうわよね、きっと。とはいえ、私もそうだと言ったら、明らかに嘘だとバレてしまうし。
ここはいっそのこと、もう一つの気になる話題に切り替えた方が良さそうね。
「それで、婚約の話はあれから進展があったの?」
正式に婚約が結ばれれば、私がパルディア公爵家にいる、という正当な理由ができる。いつまでもあやふやな立場にいるのは、居心地が悪かった。
それは勿論、パルディア公爵家の使用人たちのことではない。むしろ彼らはノエの影響を受けているのか、必要以上に気を遣ってくれるほどだった。
今いる客室は、常に綺麗な状態のまま保たれている。家具は日に日に新品へと変えられ、私に合わせるかのように緑色に統一されていくのだ。
けれど婚約が成立しなかったら、これらはすべて無駄になってしまう、と思うと心が逸った。
「……実は、国王陛下からの許可証が送られてこないんです」
「え? どういうこと? パルディア公爵の話では、一任したような感じだったのに」
お母様の顔を窺っていたお父様なら、一刻も早く、私を王族から排除したいはずだ。躊躇う必要があるとは思えない。
「恐らく原因は、ラーキンズ公爵だと思います」
「謁見の間でお父様だけでなく、ルートリにも無理だと言われていたのに、この期に及んで……」
邪魔をできる力がどこに。まさかっ!
「お母様? お母様がラーキンズ公爵に口添えをしているの?」
「はい。あまりにも遅いと感じたので、ウェルディアに探らせました。そしたら、王妃様がラーキンズ公爵の言い分を正当化しようと動いていたんです」
「でも私はパルディア公爵家にいるわ。この間、ノエが言っていたように、既成事実として使えないの?」
「きっ! リリアが望むなら、別の既成事実を作りますか?」
「へ? 別のって……」
何を、と尋ねる前に腰を引かれ、ソファーに押し倒された。けれどさすがの私も、この状況で先ほどの続きを言えるわけでもなく……。
真剣な眼差しを向けてくる緑色の瞳から、目が離せなくなった。
「この先を許してくださらないのなら、あまり煽らないでいただけますか?」
「この体勢でそれを言うの?」
「ダメですか?」
ズルい。今一番欲しいものを目の前に置かれて、拒むことなんてできるとでも言うの?
「……キス、だけなら」
「それだけ、ですか?」
「婚前交渉は、諸刃の剣よ。今、この部屋に私たち二人しかいないことだって、本当はよくないんだから」
「……相変わらずの鉄壁ですね」
「へ?」
そんなつもりは、と思った瞬間、ノエの顔が近づき、唇が触れた。満ち足りた想いに浸っていたが、どうやらそれは私だけのようだった。
最初の内は優しい口付けが、次第に荒くなり、私はただそれを受け止めるだけで精一杯になっていた。だけどまだ足りない、とばかりに求められ、私は拒むことができなかった。
いち早く平凡な、ううん幸せな日常になることを願いながら。
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