最終話 あのばしょ

「わたしね」

「うん」

「五月アメリカに行くことになったの」

「向こうの大学に行くのか」

「ううん違う」

「じゃあどうして」

日の暮れきった公園に男女の背がふたつ並んでいる。ふたりの他に人影はなく、一帯は森の中のように風を切る音しか耳元に聞こえない。

「手術を受けることにしたの」

俯く彼女の横顔が電灯の薄明かりに白んでいた。咄嗟に何か言葉を発しようと思ったが、思いつくものは夜の静寂に弾けて消えてしまうかと思われた。

「別に今の環境に不満があるってわけじゃないの。身体は生まれつきのものだし、自分の中ですでに受け止めたものだから。でも志望校に合格して、春からようやく大学生になれるんだって思った時、わたし目の前が真っ暗になったの。それまで伸びていた道に進んでいた自分が、急に谷底に落ちたみたいに見えなくなった。それで、どうしてだろうっていろいろ考えていたら、結局、わたしは自分の未来に自信が持てていないんだって、そう思ったのよ。自分の事も好きでいられないのに、他人のことなんて好きになれないでしょ?」

「そのままでいい人だって中にはいるだろ」

彼女は立ち止まって少しこちらを眺めたが、また顔を前に戻すと再び歩き始めた。

「ううん、そんなの嘘、まやかしよ。変わらなくていいなんて、そんなの退屈な人間の考えよ。なにもしないより、変わる方がいいに決まっている。それに人って、自分が変わっていないと思っても、時間とともに自然と変わっていっちゃうものなんだから」

二人は芝生広場を抜けてドーナツ広場へと入った。途中、光を失くした米軍基地の正面ゲートへ通りがかり、錠を下ろされた鉄門がいつもより寂しく私に訴えかけてきた。以前この場所へ訪れた時よりも、その闇の中に佇む住居の数は減り、伐採された街路樹が深い闇をそのまま吸い込んだように広がっていた。

芝生を丸く囲んだ石畳の通路を渡り、私が歩を止めたのは観覧席の前だった。突然立ち止まったから、隣にいる彼女は不思議そうに私の顔をのぞき込み、不穏な表情でしばらく静止していた。

 月明かりが二人をやさしく照らしていた。繁華街から僅かしか離れていないのに、頭上には幾つもの星が静かにまたたいている。寝静まった住宅地の張り詰めた雰囲気が、物憂い風となって二人の首筋に冷たく流れると、突然私は握っていた拳を緩め、彼女の顔を見た。

「ねえ」

「どうしたの?」

彼女は私の顔を見ずに答える。

「根岸のドラゴンを見に行こうよ」

「なあにそれ」

「見ると願いが叶うんだ」

「何かのおまじない?」

「そうとも言えるね」

私は目の前の観覧席を見上げると、フェンスに近づいて両手を伸ばし、そのまま冷たい金属を掴んだ。高さ三メートルの鉄条網の、その上部に軽々と身を持ち上げて彼女を見つめる。咄嗟の出来事に驚いて、その場に立ち竦む彼女の顔は、闇に紛れて見えない。

「こっちに来て」

「どこへ行くの?」

「中だよ。観覧席のね」

「なんだか怖い」

「大丈夫、ほら手に摑まって」

彼女はしばらく躊躇していたが、周りに人の姿がないことを確認すると、小さくうなずいて私の掌にその手を乗せた。伸ばした右手で彼女を持ち上げ、そのまま観覧席のそびえる敷地に二人で降りると、背後から冷たい空気が流れた。後ろを振り返ると、私たちのいた園内が、何本もの柵の間から見え、何だか自分たちが檻の中に入れられたような不思議な感覚に、足元にちらばった瓦礫が寂しく軋んだ。「こっちだよ」と私は入口を目指して歩を進める。浮かない表情で、重い足取りのまま歩く彼女は、繋がったままの右手を決して離そうとはしなかった。

 外れかかった扉から内部へ入ると、通気性の良い広間に冷たい空気が漂っていた。高い天井、剥き出しになった鉄筋が、闇の中からでも確かに感じられる。壁際に瓦礫がヌルヌルとたまり、施行者の書かれた銘板が足元の方で薄く光っている。ライトで照らしながらでないと、自分たちが今どこを歩いているのかもわからない。音をたてないよう忍び足で闇を探り、何室も部屋が繋がっている廊下を突き当りまで行くと、汚れの少ない階段が上に伸び、石煉瓦が薄明に光っている。割れた窓から月明かりが漏れ、七十年の歴史を思わせる青臭い匂いが辺りいっぱいに立ちこめていた。

 私たちは黙って階段を駆け上がった。脚を動かしていないと、どこからか恐怖が込み上げて平静を保っていられなかった。真夜中の廃墟に、私と彼女が段を踏む足音だけが幾つもこだまして、館内一帯に、まるで他の侵入者がいるような不思議な感覚にさせた。私は段を踏み間違えないように俯いて、暗がりの階層を勢いよく駆け上がった。足を動かしている間、私の頭にAやB、そして先日の老人や、隣で歩く彼女の顔までもが、なぜだか茫洋と浮かび上がってきていた。繋いだ手から汗が滲み、漏れる吐息が彼女の耳にかかる。重い脚を何度持ち上げても、階段は尽きる気配がないかのように、変わらない闇を足元に映し出していた。

 どのくらい上がったのだろうか。気がつくと上へ続く階段が途絶え、踊り場のように広くなったフロアに、鉄の扉だけが重々しく前に構えられていた。私は反対の手で錠前に被る埃を拭い、重い取っ手をしっかりと掴むと勢いよく扉を前へ開けた。

 顔の中心を勢いよく風が押し寄せて、その瞬間外の空気が汗で濡れた全身を拭きとばす。眼を開けられないほどの風力に、水を吸った草木の瑞々しい香りが鼻を抜ける。強風に髪をさらしながら、腕にしがみついている彼女の、柔らかな体温が右半身にかかる。風がやむのを待ち、再び目を開けて観覧席へ足を踏み出したとき、暗闇に広がる草原の奥、私たちの眼に映ったのは、いまだかつて見たことのない雪景色。形の異なる真っ白な花びらが、渦を巻いて宙に乱れていた。

「あれ」

取り壊された米軍住宅の丘の上、何十本と植えられた桜の巨木が一斉に白い息を吐いていた。立ち並ぶ木々に開いたつぼみが、真夜中の強風に仰がれて一斉に枝を離れていく。小さな花びらは宙を舞い、やがて大きな生き物のように唸りを上げて風に乗ると、散った花弁が雪のように辺りに広がって、私たちのいる観覧席のスタンドに音を立てて舞い込んだ。

「キレイね」

桜の降り注ぐ空に満月が煌々と輝いていた。光る彼女の髪に白い花弁がまといつく。

「こんな光景、二度と見られないよ」

一心に桜を眺める美しい横顔が、私の隣で月明かりに輝いていた。風に乗る花びらの群れを眺め、私はいつかここにAの御墓を建てようと、なぜか漠然とそんなことを考えていた。ようやく解放された米軍住宅地が再整備され、誰でも立ち入れるようになった頃、観覧席の向こう側に彼の墓碑を建ててやろう。私たちだけがわかる、彼が生きた証だ。そうして春になったら必ずこの場所へ、訪れてみんなで桜を眺めよう。何十年経っても、あの時のAと町を想い出せるように。

その時、米軍基地を貫くけたたましい叫びが私たちの耳に届いた。驚いて遠くの方へ眼を細めると、風に揉まれながら黒い物体が次々と浮かび上がってくる。地響きとともに、荒い息遣いが雄々しい蹄を叩きつけ、土煙が漂う花びらをさらに宙へ押し出す。大地を揺るがす町のうねりが私たちの元へ近づいてくると、桜吹雪の舞う夜更け、繋がった右手をそのままに、私は彼女の純朴な瞳を始めてとらえていた。

〈終わり〉

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根岸のドラゴン(完全版) なしごれん @Nashigoren66

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