最終章 変わらないもの
第十五話 きちとうま
良く晴れた午後の空に一機の飛行機が飛び立っていった。
その日私は数か月ぶりに家を出て根岸森林公園へと向かっていた。道路わきに生えたツツジの葉が外に出た私を可愛らしく出迎えて、その横に伸びた公園までの坂道が、妙に懐かしく前面に光を
降りてくる通行人となるべく目を合わせず、落ち着かない心持で私は坂道を上がった。一車線の道路には、歩行者のための細い白線が内側に引かれて、アスファルトの坂道からぽつぽつと人の背が小さくむかってくる。昼を少し過ぎた平日の道に、スーツ姿のサラリーマンの姿もちらほら見える。横を通る彼らの靴音が、すれ違いざま耳元で鳴っているかのように、大きく響いて私の力ない鼓動を速めた。
坂を上り切ると右側にアーケードの商店が長屋のように続いていた。夜はシャッターを下げていた家々も、そのほとんどがしっかりと店を開けて温かな陽光を浴びていた。年季の感じる店先には、弁当販売と書いたのぼりが揺らめいて、ショーウィンドウに向かいの道路が映っている。通り過ぎるふりをしてそっと中を覗くと、番台の横に座る主人が、退屈そうに新聞をまくっている。額に上げた老メガネをそのままに、小さな字をぼんやりと目で追っている。気の抜けた雰囲気が、それでも光を受けて輝かしく見えるのは、ひっきりなしに道路を走る車の存在からだろうか。そのまま足早で商店をすり抜け、花屋とコンビニが向かい合う交差点を渡って米軍基地の看板まで辿り着くと、私は重い脚をきっちりと揃えた。根岸住宅地区。いつ見ても変わらない青看板は、心なしか普段より大きく私の目に映り、日差しに光る白文字は、かつて米軍の住んでいたアメリカンハウス、白い平屋造りの住居を思い浮かばせた。しばらく立ち止まって眺めていると、横を走る市営バスが視界に侵入し、長い車体が通り過ぎる一瞬、再び青い身体があらわれると、看板の横にAが立ってこちらを見つめていた。
彼がいなくなってから四か月、私はそれまで受験に対して抱いていた闘志がぷつりと途切れてしまい、いつまで経っても机に向かう気力が湧かず、
十二月初旬に行われた全統模試は、夏休み明けから事前予約していたものであり、直前の実力を図るには持って来いの機会だった。五千円も払ったのだからと、私は乗らない身体に鞭を打って朝早くから会場に足を運んだ。ネズミ色の雲が重苦しく空を占めている肌寒い土曜日だった。
普段使う最寄り駅から在来線に乗り、ターミナル駅で私鉄に乗り換えて、都市部から少し外れた郊外の駅に着いたのは、ちょうどラッシュの過ぎて人混みが緩やかな時間帯だった。開始時刻までに十分と余裕があることを確認した私は、バス停の続くロータリーを一周して横断歩道を渡った。駅から徒歩十分と受験票の地図には書いてあったから、会場までそう遠くはないだろうと、開店準備を始める商業施設の並ぶ一画を右に曲がった時、それは突然訪れた。
急に視界がぐにゃりと曲がった。と思うと、すぐさま悪寒が胃のあたりに込みあげ、気が付くと私はその場にうずくまっていたのだ。過呼吸のように胸が苦しく、視界は闇に放り込まれたように真っ黒で、いつしかの夏の日のように、冷や汗と寒気が止まらなかった。近頃の体調不良からくる貧血の類だろうと、立ち
その瞬間、私は見知らぬ世界にひとり取り残された生存者のような、胸を締め付けられる物寂しい感情に襲われていた。横を通る人々は、皆私のことなど見向きもせず、ただひたすらに駅へと歩を進めている。その至極冷淡な光景が、汗と涙にまみれた私の視界いっぱいに広がって、私は自分の居場所、存在、この町に私という存在があり続けている意義が、その瞬間音もなく崩れていくような感覚に襲われていた。私は自分が誰なのかわからなかった。ぼんやりとしたまましばらく歩き出すことができなかった。私は他人に、道行く人に助けを求めていたわけではないけれど、横を過ぎ去る人々の驚きもためらいも蔑みも憎しみも悲しみもない、冷たく乾ききったその眼つきは、無機質な人間と町そのものを映しているような気がして、私はその姿がたまらなく恐ろしかった。私は自分以外のもの全てが敵である気がしてならなかったのだ。皆同じように視線を前に向け、淡々とその場を通り過ぎていく湿った日陰みたいな光景が、
私はその日から外へ出ることができなくなった。
まだ春には少し早い公園には、葉を落とした木々の群れが枝を剥き出しにして伸びている。薄茶色をまとった芝が敷き詰められた広場には、リードを付けて犬を散歩させている主婦と、歩道でランニングに励む老年の姿が見受けられた。私はダウンのポケットに両手を入れて芝生広場を周回した。一周、二周と、競走馬のように芝生を囲った石畳をぐるぐると歩いた。何も浮かび上がらない頭の代わりに、すっきりとした冬の匂いと、擦れた木のこうばしい香りが鼻を抜け、上を見上げると、マリンブルーの青空が視界いっぱいに広がった。
芝生広場を抜けてドーナツ広場へ入る。住宅に面した広場には小規模な遊具が備え付けられていて、帽子を被った子ども達が滑り台に上って遊んでいる。少し離れた木陰のベンチに家族が二組、優しそうな目で彼らを見守っている。幼児の靴がキュッキュと園内に響き、甲高い嬌声がしばらく
私はフェンスの前で立ち止まると七階建ての観覧席、公園と米軍基地を挟むようにして建てられた廃墟を見上げた。草花が繁茂する公園の中で、ひと際異彩を放っているこの建物が、およそ百年前まで競馬場の観覧席として使われていた一等馬見所であるとは、始めてきた人には到底わからないだろう。コンクリートで覆われた外装は所々が剥がれ落ち、割れた窓ガラスから何本も蔦が伸びている。周囲には立ち入り禁止の柵が設けられ、老朽化が進んでいるにもかかわらず市は保存を検討していると、昨年ここに来た時Aに言われた言葉が浮かぶ。
その時私はふと、『根岸のドラゴン』という言葉を思い出していた。彼やBと再会した一年前、ドラゴンを見つければ願いが叶うと言って、わざわざ深夜に訪れた当時の記憶が鮮明によみがえってくる。祖父から伝えられたと言ったその伝承は、その後も私の頭に残り続けて、公園に来る度に、私は自然と根岸のドラゴンについて、離れがたい郷愁を感じていたのだった。
観覧席を囲む鉄条網のいっかくに基地を覗けるフェンスが飛び出していて、私はそこにアメリカ国旗がはためいているのに気がついた。フェンス越しに顔を近づけると、草木生い茂る大な土地に黄色の重機が首を垂れている。それもひとつやふたつではない。ブルドーザーやトラック、その他何機もの重機が車道に並んでいるのだ。私は目をみはってその光景を眺めた。丘の上に建てられた市民館らしき建物は半壊し、横に廃材がうず高く積まれている。その奥、木々の植林されたひと区画に、青い屋根を携えたファミリーハウスが、もうすぐ壊されるだろうトラックを横に備えてビニールに隠れていた。長く伸びた車道の脇、生え散らかった雑草が風になびいて曇り空に沈み、荒廃した一帯は寒々しく初春の香りを包み、変わりゆく米軍基地の姿がそこにあった。
「寂しくなりますねえ」
突然、背後から声がして振り返ると、木製のベンチに老人が腰を下ろしてこちらを見ていた。厚いシルク生地の上着を上品に着、ハンチング帽から少ない白髪がこぼれ、右手にはしっかりと、滑らかに光るステッキが握られていた。小さな背に骨が浮き出ているところは、老人を想像以上に高齢な見た目に映していることは否めないが、けれど決して足腰が弱いわけではない証拠に、伸ばした背筋から腰にかけての直線は驚くほど垂直で、ベンチに座る姿から威厳のある風格を存分に漂わせていた。
「本当に残念ですよ、基地がなくなるっていうはねえ。昔はここら辺もしょっちゅう米兵さんが遊びに来ていて、まだ幼いわたしにハローハローと手を振ってくれたんですよ。今アナタの前にそびえるフェンス、そこから簡単に中に入ることができたんですからねえ」
「中に入ったことが?」
「ええ、もちろんです」
男はそう言ってベンチに座るよう手招きをする。私はそれに従って、空いた老人の隣に腰を下ろした。
「わたしがまだ高等部に上がったばかりの頃、ここで友人とバスケットボールをして遊んでいたんです。午前の授業を終えた平日の昼下がり、周囲にはわたしと彼以外誰もいませんでした。当時、わたしの高校にはまだ外来のバスケットボールは珍しく、競技の人気も低かったから、コートのある公園がすごくまれだったんです。
彼からパスを受けて、わたしがシュートを放ったその時です。わたしの放ったボールが公園のフェンスを越えて、誤って基地の中に入ってしまったんです。これは大変なことになった。なにしろ、塀の向こうは日本国ではないのですからね。彼は慌てて正面ゲートにいる警備員に事情を説明しようと走っていき、その場に残ったわたしはどうすればよいのかわからず、ただフェンス越しからボールが転がっていくのを眺めていました。運よくボールがフェンスに近づけば、手を使ってそのまま持ち上げようと思ったのです。すると、奥から女性が近づいてくるのが見えました。ピンク色のTシャツを着て、青い眼をした若い女の人でした。よく焼けた小麦色の肌にブロンドの髪、うっすらそばかすを浮かばせたアメリカのお嬢さんが、フェンスの方へ近づいてきたんです。彼女はわたしが放ったボールを見つけると、投げるようなジェスチャーをしてほほえんでから、何か英語の歌を口ずさんで、ひとしきりボールをついて遊んでいました。当時のわたしは、彼女にからかわれていることがわからず、ただ困惑してもじもじと落ち着かない様子で、その様子を見つめることしかできませんでした。自分と同い年くらいの異国の少女が無邪気ボールをついている。その姿は、何となく映画のワンシーンのようにカッコよくわたしの眼に映っていました。しばらくして彼女と眼があった時、わたしは視線を足下に注ぎながら、小さく『プリーズ』と呟きました。顔が太陽のように火照っていたことを覚えています。彼女は柔らかに微笑んでみせてから、わたしのいるフェンスまで近づいて、下から投げ入れるようにしてボールを返してくれたのです」
「次の日からわたしはこの公園を訪れるのが日課になりました。家から近いこともあって、学校への行きと帰りには必ずこの公園のバスケットコートに立ち寄っては、フェンスの奥の町から彼女が現れるのを密かに待ち望んでいたのです。けれども、何度この道を通っても、あの日から彼女が姿を見せることはありませんでした」
「それから三ヶ月ほど経ったある日、友人がこの場所で彼女を見たと言うのです。なんでも、帰り際に公園に立ち寄ったら、同い年くらいの少女が道を歩いていたと言うのです。彼女のことなどすっかり忘れていたわたしにとって、その言葉はまさに青天の霹靂でした。あの町に彼女がいることは間違いない。ともすると彼女に会えるかもしれない。そう思ったわたしは、次の日からまた何度も公園に足を運んで、フェンス奥から彼女が来るのを期待して待つ日が続きました。わたしはあの時から、彼女に夢中になっていたのです。けれど、やはり彼女がわたしの前に姿を現すことはなく、わたしの秘めた想いはもう二度と彼女に伝わることはないだろうと、そう思っていた矢先、政府から基地内居住者の大幅な転居勧告が出されたのです。なんでも、横須賀にできる米軍住宅に本部が移される計画がなされているということで、そうなると彼女も基地からいなくなってしまうのではと、不安に思ったわたしは無断で学校を休んだり、夜遅くまで公園に張り付いたりして、彼女が現れるのをいつも以上に待ち望むようになりました。そして長期休業前の十二月、遂にわたしはその衝動を抑えることができなくなり、警備員の目を掻い潜って、米軍基地の中に入ってやろうと、そう決意したんです」
老人は淡々と話し続けていた。見上げるように視線を眼前の観覧席に向け、懐かしそうに首を傾げる男の言葉には、口調からは感じ取れない強い意志のようなものがあった。私はただ俯いて老人の話に耳を傾けた。
「当時の警備員は二部交代制で、夕方の五時になると数分間だけ警備員が持ち場から離れるようになっていました。IDカードも監視カメラもない時代でしたから、まずバレることはないと踏んで、わたしは警備員がいなくなった時一気に正面ゲートを突き抜けました。追いかけられることを恐れたわたしは、振り返らずに下を向いてそのまま奥へ奥へと走り続けました。つかまれば酷い拷問を受けると、私の友人の言葉が頭をよぎりました。そして十分ほど走った頃、ふと足を止めて周りを見渡すと、そこはもう異国の地、アメリカでした。見たこともない大きな木、カラフルに彩られたビッグな住居、街灯に照らされて光っている高級な外車。日本では見ることのできないアメリカの街並みが、そこには広がっていたんです。わたしは呆然とその場に立ち尽くしていました。その珍しさから、一軒一軒見て回りたいと思ったのですが、外は陽が落ちて、街灯の僅かな明かりでしか足元を確認することができなかったのです。そのためわたしは早く彼女を見つけようと、遠くで明かりを灯している繁華街の方へと走っていきました。しばらくいくと大きな公民館らしき建物の前で、女性の後ろ姿が見えました。低い背に金色の髪をなびかせた、しなやかな体つきの少女。わたしは暗い闇の中でもその少女が彼女だとわかりました。反対の道にいたわたしは、すぐに彼女に声をかけようと、近くへ駆け寄ろうとしましたが、直前でその足を止めました。近づいてくる彼女の隣に、軍服を着た恰幅の良い男性がいるのに気がついたからです。腕を固く絡ませ、親密そうな面持ちで建物の中へ消えていく二人。薄明かりに照らされて、その整った目鼻が影を成す下に、海のような
それからどうやって家に帰ったか忘れてしまいましたが、何年経ってもこの場所はほんとうに変わらないですね。緑の木々、透き通る空、心地よい風、子どもたちの声。このベンチからときどきフェンスを眺めていると、また彼女が現れてくれるのではないのかと、わたしはいつも思うんです。彼女があの時の姿のまま、わたしの前に現れてくれるんじゃないかって」
そう言って、再び視線をフェンスに戻した老人は、感慨深そうな目つきでしばらく米軍基地を眺めていた。皺の目立つ目尻に柔和な瞳が止まり、白濁した一点が、老人の姿を一層悲しげに映していた。
そんな老人を見ていると、次第に私は親近感のような情に近いものを覚えて、「この辺にお住まいなんですか」と顔を向けて尋ねていた。
「ええ、生れも育ちもヨコハマです。以前は本牧に住んでいたのですが、今は港の傍で、ここにはバスでよく来るんです。近くにのどかなところがあまりないですからね」
「根岸のドラゴンという言葉を知っていますか?」
私は自分の口にした言葉に驚いて咄嗟に目を伏せた。根岸のドラゴン。なぜその言葉が口から飛び出たのか、自分でも不思議だった。Aの祖父の作った言葉が、今目の前にいる老人にわかるはずはないのに、私はどこか期待した胸の内を、次第に鋭くなる自分の瞳に託した。
「ドラゴン?ちょっとわかりませんねぇ」と老人は苦笑して首を傾げた。私が「そうですよね」と無念さを微笑で押し殺していると、「何かあったんですか?」と老人が優しい眼を向けて尋ねる。質問した手前、答えをためらう理由もなかったから、私はゆっくりと、時間をかけて一年前の出来事を語った。
私は一年前にAから伝えられた根岸のドラゴンの話、そしてここへ来た経緯を丁寧に話した。初め、老人は私の言葉に相槌を打ち、要所要所で感嘆の声を洩らすなど、興味深そうに聞いていたが、話が進むにつれその表情は強張り、閉じた口はピクリとも動かなかった。
ようやく話し終えた時、私は大きく息を吐くと、ベンチの背もたれに寄り掛かってうなだれた。久しぶりに口を開いたから身体がひどく疲れていた。老人は「言葉にできませんね」と小さく嘆いて肩のちからを抜いた。
「まだ若い青年が自ら死を選ぶなんて」
「でも彼はそうするしかなかった」
「どうしてです?他にいくらでも方法はあったじゃないですか」
私と老人はしばらく見つめ合った。白濁した老人の目が私を捉える。私は再び息を吐く。
「彼はそういうやつなんです。僕もそうすると思います」
「まさか」と小さく笑う老人に、「ほんとうですよ」と毅然な顔で睨みつけると、老人は何も言わずに視線を地面に注ぎ、何かを考えるように顎髭を優しく撫でた。
「例えば、あなたが明日死ぬとします。彼に
「ボクが死んで悲しむ人なんて誰もいませんよ」
「いますよ、きっと」
老人は優しくそう言って再びフェンスの方へ顔を向ける。
「あの場所をみてください。あそこは来年までに全ての建物を壊して大学病院の敷地になる予定なんです。もうかなり昔に返還合意がなされて、全住民の退去が済むまでに二十年もかかりました。元々日本の土地だった場所を無理やりアメリカの土地にしたものですから、近隣住民は大方賛成の意思を示しているようで、残るは跡地利用の正式決定を待つのみです。わたしだってそれには賛成です。区画が整備されれば、今よりだいぶ交通が便利になりますからね。それでもわたしは、ここに来ると必ず思ってしまうんです。変わっていくのだなと。日々眺めたアメリカの風景が、少年時代の淡い思い出が、時間とともに消えてなくなってしまうかと思うと、なんとも複雑な気持ちになるんです。たとえそれが敵国の場所だとしても、見慣れた町の姿が壊されていくというのは、何とも言い難い悲しみがあるものです」
老人は衰えた喉仏を上に出し、眼前にそびえる観覧席を指さした。
「けれどこの観覧席を前にして、見下ろすように横浜の街並みを眺めると、やはり青春時代の記憶が鮮やかに甦ってくるんです。家族と花見をした穏やかな春の日、友人らとバスケットボールに励んだ暑い夏の日のこと。そして彼女が現れるのを心待ちにした紅葉積もる秋の夕暮れ。米兵と走り回った雪の日のこと。四十年以上経っても当時の情景がありありと目に浮かぶんです。町や景色が変わっても揺るがないものが確かにそこにある。目に見えないものが、きっとそこに存在しているんです。それは今、目の前に立ち続ける観覧席にも言えることです。百年前に建てられ、何千何万と客を収容し、戦火を潜り抜けて遺構となった後も、幾人もの人を介してここに立ち続けているこの観覧席。設計者も、当時の住民も、観客も、全てこの世からいなくなって、忘れ去られようとしているのに、観覧席は当時のままここに立ち続けている。存在しているんです。この建物がある限り、彼らは今もそこで生き続けているんですよ」
老人は立ち上がって鉄柵まで近づいていく。私もそれに続いて観覧席を見上げた。
「史跡の役目、それはつまり私たちの記憶を過去とつなぎ合わせるため、つなぎとめるため、忘れないようにするためにあるんです。そしてそれをまた、誰かに託していく。次の時代に受け継いでいくのです。繋いで行くことに意味がある。託していくから未来があるんです。この観覧席が壊されずに残っているのは、つまりはそういうことなんです」
風が強く吹いた。老人は気持ちよさそうに息を吸うと、私の方へ顔を向け、にこりと微笑んだ。高台に吹き荒れる突風が、長く伸びた私の前髪を乱暴に揺さぶって、枝に張り付いた小鳥が一斉に空へ飛び立つと、私は澄み切った感情の先に、彼女の存在があることを思い出していた。
遊具で遊ぶ子供たちの声はいつしか聞こえなくなっていた。
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