第十四話 うしなう

 東棟の八階治療室は建物に陽が当たらず、年中陰気でジメジメとした印象を私に与えた。Aがその一室に運ばれていることを、私はBと彼の両親の口から知った。目の前に受付とスタッフステーションを構えた中央部の待合室は、順番を待つ患者が大勢いるにも関わらずひっそりと静まり返っていた。青白いガラス張りの外装から燃えるような夕焼けが差し込み、退屈そうに通行く看護師のメディカルシューズを滑らせる足が、硬質なパイプ椅子の僅かな軋みと共に妙に寂しげに聞こえた。  

 深い井戸の中に閉じ込められたような不穏な感覚が常に腰辺りにつきまとっていた。私はソファに屈みこむと、額を流れる不快な脂汗をハンカチで拭った。十月初旬の黄昏時でも一向に引かない残暑の余韻は、駅から病院まで走ってきた私の全身をほてらせ、湧き出た汗が髪にまつわりついて細くなる。それでもなお懸命に、神経質になって汗を拭いていると、背後から肩を掴まれて思わず振り返る。Bの沈んだ苦笑が目に飛び込んできた瞬間、私は長年の心細さが消えたような安心に思わずほほえんでいた。

「いつから?」

「ちょうど二十分前くらい。走ってきたからクタクタだよ」

私は無理やり口角を上げ、わざと目を細めてみせた。Bの前とは言え、笑みを浮かべていないと、自然と感情の栓が緩んで、溜めていたものが全てが流れ出てしまいそうな気がしてならなかった。

「外に出ないか?」

「いいけど、まだここにいるつもりだろ?」

「近くに庭があるんだ。広くはないけど、患者がリハビリに使うには丁度いいところさ」

私は頷いてソファから立った。鼻をつく消毒液の混じった通路を左へ折れ、救急棟の出入り口から外へ出る。そのまま門を抜けずに駐車場らしき跡地を抜け、植え込みが目立つ裏庭のように緑のかげっている場所で、ふたりは設置されたステンレスのベンチに腰を下ろした。

「植物園みたいなところだな」と私は言った。

「昼間に一度来たことがあるんだけど、その時は人が沢山いたよ。患者や看護婦の他にも、付添人や子ども達が楽しそうに話してたよ」

 Bはそう言って、下部に伸びたレンガ調の花壇を指さす。土にの中には名前のわからない花々が葉を伸ばし、プラスチックのプレートに花の説明が細かく、子どもの書体で記されていた。

庭には私とB以外誰もいなかった。石畳の道の横に、幾本もの木々や花々が薄闇にそよいでいる。円く刈り込まれた低木の、その傍で白い光を放っている小型の電灯は、夏に行われる燈篭流しを私に思い浮かばせた。

日の沈む速さは急流の水のようだった。私は隣に座るBを横目に、何となく落ち着かない心持でうなだれていた。草花を照らす電灯の光は私たちの座るベンチのところに光を運ばず、私も彼も互いの表情がわからないまましばらく黙っていた。互いのわずかなぬくもりが、長い夜の中で自然と落ち着きを取り戻し、長い沈黙の時間が、闇を境に動き始める人々の、その重苦しい脚を働かせているような気がした。

 救急車がけたたましいサイレンを鳴らして駐車場に滑り込んできた時、Bの顔がうす赤く光った。見ると、彼の右指に挟まったタバコが小さく火を噴いている。左手に握られたライターがしまわれ、ぼうっと吐き出された煙からBの強張った表情が怖いくらい赤く浮かび上がっていた。

「吸うんだな」

「会社の先輩にすすめられてね」

「嫌いじゃなかったのかよ」

「嫌いだったよ、昔はね」

「ああそうかよ」

Bはそう言ってまた深く息を吐く。鼻から抜け出る煙が白い糸のように何本も空へ昇っていく。彼の背後に掲げられた『禁煙』の張り紙が、煙の合間から茫々と浮かび上がるのが見えた。

「いいもんじゃないなタバコは」と私は言った。

「そうかなあ」と彼が続く。

「調子が悪くなったら、まず第一に断つべきものがタバコって言いうだろう?医者でも何でも、禁酒禁煙を心がけるようにって具合で」

「でも、必要な人だって中に入るんだ。だから販売禁止にならない」

「そりゃあそうだけどさあ。ああいうのは依存性が高いから、一度手を付けると辞めるのがしんどいぞ」

「いいさ辞めなくたって。死ぬってなったらその時までさ」

 毅然きぜんとした口調でそう言ったBは「タバコで救われた人間も中にはいるんだから」と小さく後に続ける。その煙の先、吐き出された糸の繋がった滑らかな鼻の奥、黒々と小さくなった一点に、地面に注がれたBの退廃を現わした瞳が光る。一重の奥に覗く鉛色の眼。社会に揉まれて疲弊した会社員の眼。全てに嫌気がさした絶望の眼。私は何故だかそんな彼を直視できなくて、咳をする振りをして視線を地面に戻した。

「この前久しぶりにAと飲みに行ったんだ。桜木町からちょっと行ったところにある何とかっていうバーなんだけど、そこのバイトがかなりの美人らしくって、心細いから相槌だけでも打っていてくれないかって、Aに頼まれたんだ」

「アイツも良くやるよ」

Bは頷くように笑みを見せて、また視線を前に戻す。

「それで行ってみたらなんとその子が先週で辞めちゃったみたいで、クマみたいなヒゲ面のマスターと、若いニキビのラッパーしかいないんだよ。アイツはあからさまに失望してきょろきょろカウンターをさぐってたけど、店に入った手前すぐに帰るのもなんだから、いつも飲んでるやつを適当に注文するんだ、カッコつけて。その時のアイツの顔、何だか雨に濡れた子犬みたいに可哀そうだったなあ。びっくりするくらいしょんぼりして、面白かったよ」

「わかったから、はやく本題に入ってくれ」

「うん、それでね。結局一時間くらい飲んで、二人ともだいぶ酔っぱらって、そろそろ帰ろうかって時に、アイツが崩れるように泣きだしたんだよ」

「またえらい急だな」

「ああ、あれは本当にびっくりしたよ。何にせ、トイレから帰ってきたらいきなり号泣しているんだからね。マスターが心配して背中を擦っても、オレが気分が悪いのかって必死に問いただしても、まったく口を開かずに泣き続けているんだ。他の客の迷惑になるからって裏に出て、ブロックに座らせて水を渡したら、二十分後にはいつも通りタバコに火をつけて、すぱすぱって気持ちよくやってるから、ようやく治まったと思って声をかけたんだ。そしてらアイツが呟くように言うんだ」

「『ヒマリに申し訳ないな』って」

タバコの灰がかすかに光って落ちた。

「ヒマリ?誰だよそいつは」

「アイツの娘になるはずだった子の名前だよ」

視界の端に映る救急ランプの静かな点滅が徐々に大きくなって私の瞳を散らしていた。黙って前を向くBの下で燃え殻が弱々しく煙を吐いている。三年ぶりにAと会った三月のあの日、中国人の女子学生と同際していると告げた彼の、その満面の笑みに潜む不穏な陰が、背後から滲みよる闇夜よりも鮮明に、現実味を帯びて甦ってくる。

「それがどうしたっていうんだよ」と私は呟いていた。

「だから、アイツがあの女を孕ませて、胎児に障害があるってわかったから―」

「それがどうしたっていうんだよ」

私はベンチのふちを思いきり叩いた。短い金属音が葉の擦れる木々の中で際立つと、見下ろすようにして立ち上がった視線の先、膝に手をついて固まるBの姿が、普段よりも弱々しく見えた。まるで覇気の無い、子熊のようなその背中を前に、私は歯を食いしばると彼の腕に掴みかかった。

「子供が死んだからって、どうしてアイツまで死ななきゃならないんだよ。アイツが自殺したこととアイツの子供が死んだこと。このふたつは何の関係もないことだろ!」

「そんなのわからないさオレにも。ただアイツはあの時深く落ち込んでいたんだ。まるで自分の手で殺したみたいな口調で、いつまでも沈んだままだったんだ」

 掴んだ手の感触が次第に無くなっていることに気がついていた。指から汗が滑り出て、冷たい夜風が優しく背を撫でる。嘘だ。そんなはずはない。Aが死ぬはずがない。アイツはそんな弱い人間じゃないという思いが、力を込めた手の先に熱く広がっていく。私はそれでもBの腕を離さない。衝動の代わりに言葉がつぎつぎと湧き出てくる。どうして、なあどうしてだよ。なんでそんなことをしたんだよ。なんで俺たちに一言相談してくれなかったんだよ。責任から逃れる方法が、どうして友人を苦しめることになるんだよ。鼻から鈍い痛みが込み上げて鬱陶しく目頭に涙が溜まっていく。けれどこの気持ちを伝えるべき相手は目の前のBではない。このまま彼と話続けていても埒が明かない。私は力尽きて放心したその手でBを離すと、そのまま冷たい石畳を踏んで裏庭を去った。Bは帰る私の背に何も言葉をかけなかった。

 火照る顔に冷たい風を過ぎ、街灯がホタルのように肌にまつわりついて不祥なひかりを放っている。私は歯を食いしばったまま歩き続ける。何となく家に帰りたくないという気持ちが、道路を渡る私の脚を重くする。家までの距離が長く感じられて仕方がない。私はだれも救えない。Aも彼女も、身近にいる人間全てが、私を介した瞬間幸せを失ってしまったかのように、暗い闇の中でひとり苦しみ続けるのはなぜだろう。私は彼の苦しみを感じ取ることができなかった。あの夏の日、彼がなぜ帰り際に根岸に私を呼んだのか、その意味をまったく理解していなかった。私は人を救うことができない人間だ。自ら死を選んだ人間と、忘れることのない悲しみの傷を深くえぐられた人間の、その両者に私は囲まれているのだ。私は目を瞑る。暗い闇の中、週末の喧騒が行き交う繁華街を住宅地の方へと歩いていく。道路と通路の境目、アスファルトに走る切れ目が靴に食い込む。歩く。私は無理やり歩幅を大きくして歩く。そうしていると、先ほどBと向かい合った時の興奮と恐怖、今日一日の出来事が、全て風に乗って消えていくような気がして、私は夢中になって歩道を踏んでいった。

 繁華街を抜けて横断歩道の前まできた時、黒い腹に頭がぶつかり歩を止めた。「おい」というしわがれ声で顔を上げると、六十ばかりの酒飲みが私を睨んで立っている。「すみません」と出かかる言葉を飲み込んで力なく睨み返すと、男は手を出さんとばかりに不吉な笑みを向けて私に近づいてくる。肌が黒く、醜い顔の真ん中に黄色くなった瞳がぎょろぎょろ動いている。男は「ぶつかったんだから、オマエがあやまれよ」と言って私の腕を強く掴む。角ばった肩が腕に当たり、大きな身体から酒の香りが広がる。アルコール、鼻をつく消毒液。病院のベッドに横たわる死んだA。この男を殴り倒せば、何か運命が変わるかもしれないと、機能の停止した脳で漠然と考えた先に、彼のいる暗い闇。誰にも真実を告げずに死んでいった男の横顔が浮かぶ闇の世界に、私は潜り込もうとしていた。私は胸倉を掴んだ相手の手を思い切り引き、そのまま往来の激しい車道へ自分ごと突っ込もうと足に力を入れ、隙を狙って上体を逸らしたその瞬間、どこからやってきたのか、若い青年が「やめなさい」と言って酒飲みを背後からつかんだ。

「放せ」「何をするんだ」と言い争い、揉み合っている男たちを横目に、私は張っていた糸がぷつりと切れたような、保っていた均衡が崩れてバラバラになっていくような感情で、その光景をぼんやりと見つめていた。足の感覚が冷たく痺れ、どうすることもできない無力さが、私の背筋を残酷に流れ涙も出ない。残っている者は、一部始終を呆然と眺めていた瞼だけで、その光る水晶の中にも、私は次第にAの顔、根岸から街並みを見下ろす彼の横顔が、西日に白く消えようとしていく。

 警官が自転車に乗ってやってきて事情聴取を始めた。細かい雨が降ってきた。町の照明を濡れはじたアスファルトが淡く映し出す。話す二人の警官の奥、一本だけ伸びた電柱が氷のように冷たい雨矢を照らしている。私は判然としない意識の中、力を失くしたロボットのように膝から地面に崩れ落ちて泣き始めた。

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