第十三話 ひみつ
この世に「完璧」な人間など存在しないように、生を授かった生き物の、その全てが完全だとはやはり限らない。その中には、目でわかるものから、まったくそれとわからないもの、はたまた身体が大きくなり、成長しきった段階で気がつくものなどさまざまで、彼ら彼女らはいつの日か、自分が社会と隔絶されている存在だと気がつくのだ。私はその時の彼らの感情―何を聞き、何を感じ、また何を口にしたのかを、知ろうとも知りたいとも思わなかった。彼らに対してまるで興味を持っていなかったというよりも、そんな存在が身近にあるということを、私はこの歳まで気がつかなかった。普段、無意識に時間が過ぎていくことと同様に、自分の身体や他人のそれについて、まったくといっていいほど私は無知だったのだ。
ロキタンスキ―症候群という聞きなれない言葉を耳にした時、私には彼女の、その青ざめて震える口調の響きから状況を飲み込むことしかできなかった。彼女は高等部に上がって最初に行われた健康診断で、自分が他人とまるで違うことに気がつく。それは友人らの他愛もない会話、思春期の女子によくある性についての、可愛らしい小言が発端だった。彼女の友人らが過酷な思いをしているというのに、彼女の身体には、いまだかつてそんな兆候が現れたことが一度もなかったのだ。不思議に思った彼女は母親に相談し、病院の診察を受けることになる。帰り際、いつものように処方箋を貰って帰れるのだろうと予期していた彼女は、顔をしかめる医院長の、その衝撃を決して忘れない。
「ありません」
頭が真っ白になった。背後にいる母親のすすり泣く声が、どこか遠くにいる他人の声に聞こえた。呼吸は速くなり、瞼から涙が零れ出て、全身の力が抜けていくようだった。どうしてわたしなのだろうと、自分を深く
自分は一生、子供を産むことができないという事実が、徐々にその言葉以上のを悲しみを引き寄せて彼女の心を刺したのは、学校のあけた放課後、友人らと他愛もなく喋っている時で、頻繁に話題に上がるのはやはり異性との交際であり、年頃の女子が繰り出す恋愛話が教室いっぱいに響くなか、彼女だけが表情とは裏腹に、黒い
次第に彼女は自分に自信を持てなくなっていった。寒い冬のある日、些細なテストのミスをきっかけに深く気が落ち込んでしまい、貧血のような状態が幾日も続いた。体調を崩した彼女は休みがちになり、何日もベッドの上で天井を見上げて過ごした。そうしていると梁の隙間にできた穴が、そのまま全身を吸い込んで、自分が自分ではなくなっていくような気がした。こんなに辛い日々が続くのなら、一層のこと全てが消えてしまってもいいとさえ思った。彼女が学校を辞めずに済んだのは、日頃から彼女を気にしてくれていた、停年間際の女性教諭の優しさのおかげだった。
春が訪れ、ようやく学校に復帰できた彼女は、一年遅れて高校二年生に上がった。後輩と同じ教室で授業をすることは何となく気恥かしかったが、再び教室へ戻ってこれた安堵の方が大きかった。学校では友達もでき、普段通りの生活を取り戻したが、やはり根底には、自分は周りとは違うという考えが渦巻いて、本来のように振る舞うことができなかった。自分が普通ではないという失望が、日常生活のふとした瞬間に悪夢のようによみがえって、それが言い知れない絶望感に変わっていくのが怖かった。
私は彼女が自身の過去を赤裸々に語った時の、あの物哀し気な表情がいつまでも頭に残り続けて、それから一週間と連絡を取ることがためらわれた。彼女の告白の衝撃より、私は自分の行いが堪らなく恥ずかしかったのだ。身近にいるとばかり思われた彼女と、これほどまでに心の距離があったことに。そして私は、そんな彼女の暗い過去も知らずに、一時の欲望で身勝手に彼女を傷つけはしなかったか。私は恥ずかしさを通り越して自身に憤りさえ感じていた。将来に対して希望を持つことができないのに、手術などできるはずがないと語った際の、あの彼女のやり切れない苦痛の涙は、彼女ではなく私にむけられるべきものではなかったか。
私はルームチェアに座って何日も考えた。彼女の存在。荒野に突如として現れた一匹の蝶のような華やかさを、その全てに備えた彼女の、悲哀に満ちた苦痛の顔をこれ以上見たくはない。とすると、私にしてあげられることはなんであろう。生まれつき身体に障害を持ち、心身が病むほど考えた挙句、自分の内に閉じ込めておくことで社会に順応していこうとした彼女の、その悲しみの奥に潜んだ切なさ。その全てを、私が感じることは到底できないのだけれど、少なくとも理解すること、寄り添ってあげることはできるのではないだろうか。親身になって話を聞いてあげることはできるのではないだろうかと、何とかそう結論付けたのは、模試を二日後に控えた水曜日の夜更け過ぎだった。
けれど私は、それを彼女に伝えることをためらって、幾日も決断を伸ばしていた。あんなことがあって以上、彼女に合わせる顔がなかったし、メッセージで言葉をつづろうにも、指が全く動かない。直接電話で話そうとしても、コールが鳴り終わって繋がった一瞬、彼女の声が聞こえた途端に、私は全てを忘れて崩れ落ちてしまいそうな不安が、常に頭の隅によぎって、なかなか行動に移すことができなかった。
仕方なく携帯を放り投げ、参考書とノートを広げて問題に取り組むが、渦を巻いた頭の中では入れた知識がすぐ消えて、いつもなら簡単に解けるはずの問題が手につかない。ノートの端に落書きをし、現代文の文章をダラダラと読み進め、最終的には椅子から立ち上がって当てもなく部屋の隅々を歩いたりして、なんとか気分を変えようと試みるも、私の身体は一向に前を向かなかった。何日も勉強が身に入らなかった。ついに私は苛立ちが最高潮に達し、参考書を勢いよく壁にぶつけた。冊子はカツンと小気味よい音を立てて床に落ちた。私はこの怒り、もどかしさの原因が、何によるものなのか判然としていなかった。このやり切れぬ気持ちの矛先は、彼女ではなく自分にあることはわかっているのに、それでもなお行動に移す自信が湧かず、遠ざけるように頭から意思を忘れようと、彼女の存在をないものとして受け止めるよう試みた。自然に込み上げるエネルギーを有耶無耶に消費することが、思いを
けれど、それでも、私はやはり彼女に会いたかった。会って顔をまじかに見たかった。日に日にその想いは増していき、いつしか私の目に彼女―あの駅の見た楚々と白輝かしさしか映っていなかった。私は胸を強く掴んだ。膨張する心臓を五指でしっかりと包んだ。温かな血液の流れが、初めて会った夏の日の想い出をよみがえらせ、初々しい全身のちからをみなぎらせた。私は彼女に連絡とることを誓った。一たび口を開けば、直ぐにその問題が解決できるような気がしてならなかった。
ようやく『話があるからいつもの喫茶店に来てくれないか』とメッセージを送ったのは、秋も半ばになりかけた風の強い夕方で、建物の横を通る高速道路の喧騒がだいぶ治まった時分であった。私は疲れ切ってそのまま眠ろうと、歯も磨かずにベッドに倒れ込むように手をついた時、机上の携帯がぶるっと振動して光った。驚いてすぐさま中をひらくと、場所と日時をもう一度確認する彼女からのメッセージがしっかりとした文言でつづられていた。私はゆっくりと噛みしめるように返信の文字を打った。暗い部屋のの中でほの光を発す携帯は、私の震える手元をしっかりと捕らえられていた。
翌々日の午後三時。駅前の喫茶店は人がまばらで、カウンター席に陣取っておしゃべりをはじめるカップルと、隅のテーブルで新聞を読む老人の他に客はいなかった。私は寝不足の身体を起こすべくコーヒーを砂糖なしで居に流し込むと、昨夜夜更けまで考えた言葉を何度も頭の中で
心を落ちつかせるために再びコーヒーを注文し、声が聞き取れる程度の店内サウンドに耳を傾けていると、デニムのポケットに入っていた携帯がおなじみの着信音を鳴らして耳に響く。携帯を開かなくても、発信者の顔が頭に浮かんで指が縮む。期待と不安の混ざった複雑な心境で画面を眺めると、彼女ではなくBからの着信だった。
なんだオマエかと、安堵の後に込み上げる焦燥の息を吐き、そのまま力を抜いて耳へと近づけると、外にいるのか、風の行き交う街の空気が、電話越しにしっかりと聞こえてくる。
「なんだ。久しぶりじゃないか」と私は言った。
「ああ」
「ジメジメした声だなあ。仕事は上手くやってるのか?」
「あぁ、それはいいんだけど……」
「なんだよそれ。まあいいや、今ちょと忙しくてね、最近付き合い悪くてほんとに申し訳ない。来週になったら模試も終わってひと息つけるから、その時にまた」
「おい、今どこにいるんだ」
Bに似つかわしくない深刻で真面目な口調だった。私は少し首を傾けて、窓の外でゆれる並木を見やる。
「なんだよいきなり。今は駅前の喫茶店だよ。まさか来るってわけじゃないだろうな」
「今すぐこっちへ来てくれ。場所は西町の大学病院だ」
「はあ?なんでそんなところに行かなきゃならないんだよ」
「いいから来てくれ。早く」
「はあ?」
「死んだんだよ。Aが」
ドアの上部につけられた鈴の音が鼓動よりも大きく店内に響き渡っていた。放心した顔のまま首だけ入口の方へ向けると、髪をバッサリ切った制服姿の彼女がじっと私を見つめていた。
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