第四章 変わりゆく

第十二話 はうす

 夕焼けの赤さが、ステンドグラスから差し込む光のように透き通っていた。際立った雲の上に、二羽のカラスが電線を離れて飛んでいくと、日の短くなった歩道に、これからスイミングスクールへ通うと思われる小学生の男の子が、水色のカバンを背負ってバス停まで駆けていくのが見える。その横を、自転車に乗った小太りの主婦が勢いよくすり抜けて、手前のカゴに入った革のカバンから、覆った買い物袋がはみ出す。坂下のスーパーで買った野菜たちが、重なり合いぶつかって揺れ動く様が目に浮かぶ。そんな通り行く人々の姿をぼんやりと眺めている私の後ろで、真剣にノートに向かっている彼女の姿を、反射した窓越しに時おり盗み見ていた。

 勉強会に誘ったのは彼女のほうからだった。夏期講習の最終日である八月の三十一日、私は最後の講義を終えて帰路に就く準備をしていた。携帯が鳴りだしたのは私が予備校をでる直前で、一階へ降りる階段の中腹でそれを開くと、珍しく彼女からのメッセージだった。暇なら駅前の喫茶店に来ないかというお誘いは、すぐに私の期待心を増幅させ、私は胸を高鳴らせながら、パンケーキの有名な老舗の喫茶店へと走った。

 ひとりだと心細いから、一緒に模試の自己採点をしてくれと、席について早々言われた言葉に私は戸惑いを隠せなかった。夏期講習が終わったのだから、どこかで休息をとるとばかり思われた私の期待は、あっさりと崩れ落ちてしまったのだ。けれど、彼女が勉強相手に私を選んでくれたことは喜ばしいことだし、予備校の外で会う彼女は、心なしか全体が透き通っているような、夏期講習から開放された安堵の色をうっすらと浮かばせて、私はその姿がとても新鮮だった。空席に置いたカバンからノートとペンを取り出すと、私は黙って模試の自己採点をはじめた。

 ウェイトレスが盆にパンケーキを運んできてからも、彼女はそれに一切口をつけず、私たちは互いの苦手な分野に絞って復習を続けた。彼女は私立、私は国立と、志望校は異なっているものの、私も彼女も苦手な分野は「英語」と一致していたため、配点の大きい英作文の減点箇所についてお互いに指摘し合った。彼女に文法のミスがあれば私が諭し、反対に私にわからない英単語があれば、彼女は優しくその意味を説明してくれた。勉強会は終始和やかな雰囲気で行われ、すっかり客のいなくなった夜中の店内で、彼女は可愛らしく私にお辞儀すると、そのまま笑みを湛えて暗闇に消えていった。小さな後姿は、明かりの前で見つめ合った時を呼び起こすかのように、いつまでも闇の中で鮮明に揺らめいていた。

 夏休みが明けて、私が予備校へ通わなくなった後も、私は孤独を紛らわすために何度も彼女を喫茶店へと誘った。ひとりではどうしても集中できないからと、言い訳のようにそういって誘い続ける私の本心は、彼女と会う頻度が増えるにつれ次第によこしまな気持ちへと変わっていった。課題を終えるとすぐに帰ってしまう彼女も、私の呼びつけが二三回と続くにつれて、黙って予備校の予習を始めたり、学校の課題に手を付けるようになって、店が閉まる間際まで勉強に付き合ってくれることが多くなっていた。私はそんな彼女に感謝のしるしとして、ある時上等のチョコレートを箱詰めで渡したことがあった、それを前にした彼女は、突然の私からのプレゼントに驚いて、けれど予想以上に喜んで受け取ってくれた。そして次に会った際に彼女はクッキーを持ってきてくれた。今朝作ったばかりの焼き立てだと言って、私の手に渡されたその紙袋には、ピンク色のリボンをつけて丁寧に包装されていて、外から透けて見えるクッキーが、ひとりでは食べきれないほどぎっしりと重なり合っていた。私は彼女との関係が次第に親密なものになっていることに少しも違和感を感じていなかった。彼女と過ごす時間は受験を半年と控えた私の心に、特別な温もりを与えていることに、私はまだ気づいていなかったのだ。

 九月に行われた中間テストが無事終わり、試験休みのため週明けまで学校が休みだからと、唐突にメッセージを送ってきた彼女は、予定がないのならうちで勉強しないかと、古くからの友人のような物言いで私を家に誘ってきた。青天の霹靂。予想外の出来事に戸惑い、頭の整理が追い付かない私は、数十分震える面持ちで悩んだ挙句、午後二時に家へ向かうとメッセージを送ってベッドに携帯を放り投げた。声にならない悶絶。心臓が今までにないくらい高速に脈を打って、目を瞑っても彼女の顔が頭に残り続けた。自分が、なにか新しい領域に侵入しようとしている戦慄と興奮が、ぐるぐると渦を巻いて回っていた。

 駅前から続く急な坂を頂上まで登って脇へ入ったところに、大きな邸宅の並ぶ通りがあって、彼女の家はそこの一画にあった。赤煉瓦の高い塀が一方の電柱まで伸び、三角屋根のガレージにはシャッターが下ろされ粛然としている。少し行ったところに緩い段差の階段があり、真鍮しんちゅうの取っ手の付いた黒門は、隣の壁に郵便受けとインターホンを備えつけてしっかりと錠を下ろしている。表札はどこにも見当たらなく、辺りは人の営みが感じられないほど静まり返っているため、私は彼女から送ってもらった写真を眺めながら、この場所で間違いないだろうかと不安げにインターホンを鳴らしてしばらく立ち竦んでいた。塀から飛び出したポプラの葉が、さらさらと音を奏でて私の首筋にそよいだ。

 「はい」とかわいらしく返事した声の主が彼女だとわかると、私は肩の力が抜けた。うす水色のニットセーターを着、腰の高いチェックスカートを振り乱して現れた彼女は笑顔で錠を下ろし、「こっちよ」と言って私を玄関へと導く。門を繋ぐ石畳の周囲にはカエデにアオハダ。大小さまざまな木々が前庭を賑わせ、靴置きの隣にはヴィーナスを模した石像が丁重に私を出迎えた。

 用意されたスリッパに履き替えて通されたのは広いリビングだった。イギリス風のインテリアは横にキッチンを携えて、壁面の棚には荒波に挑むサーファーのリトグラフが架けられている。天井に付けられた電飾のオレンジ色の照明が、部屋の装飾を一層温かみのある雰囲気にさせていた。

「好きなとこに座って」

 見たこともないような雑貨が幾つも飾られている部屋に、呆然と立ち竦んでいる私など気にも留めず、彼女は飲み物を取りに奥の方へ去って行く。私は壁伝いに聞こえる足音の反響を聞きながら、さてどこに腰を落ち着かせるべきだろうと、広いリビングを見渡した。

 キッチンから近い位置に食卓テーブルが置かれ、その周りに木製の椅子が五つ並べられていた。彼女はひとりっこのようだから、どの椅子に座っても怒られることはないだろうと、上座の椅子にかかった布巾を見やり、その隣の薄型テレビに目を移すと、ふかふかとして高級そうなソファが向きあうようにして置かれている。正方形のクッションと、えんじ色の枕は、普段彼女がそこに座っていることを感じさせるように、端の方で不揃いに倒れていた。テレビの下部棚には、これまた大型のスピーカーが四台きっちりと納められ、木枠にめられたそれが、まるで小さな映画館のように、全体の装飾と調和していた。ソファの向かいに置かれたガラス製の机は、テーブルよりだいぶ足が低く、床にクッションを置けばここで勉強できるなと、埃ひとつない透明なガラスに指す光沢を見やる。その隣で窮屈そうに葉を広げる観葉植物は、家具の邪魔にならないようにとひっそりと目立たない隅のほうに置かれていた。

 ソファか椅子かと悩んだ挙句、私は普段通り椅子に座ることにした。変にくつろいで彼女に白い眼で見られたくなかったのもあるし、何より彼女と向かい合って勉強ができると案じたからである。

 掛け時計の振り子がこつこつと鳴るリビングでノートを開き、妙に落ち着かない気持ちで数学の演習問題に取り組んでいると、どこから現れたのか、二階から降りてきた彼女がクッキーを盆に載せて戻ってきた。「飲み物欲しいよね」と尋ねる彼女に、「何があるの?」と頬杖をつきながら平静を装う。彼女の家に来てから、なにか肩甲骨の辺りを、人差し指で優しく撫でられるような落ち着かなさがにじむ。「コーヒーに紅茶に牛乳。なんでもあるわ」と小皿に手際よくクッキーを入れる彼女に「それじゃあコーヒーで」と呟いて即座に視線をノートに戻す。予備校以外で初めて会う彼女の、そのいつもとは異なる穏和な表情を直視することができないのは、自分がまだ来訪者として招かれた状況を飲み込めていないだけなのかと、そんなことをとりとめなく考えていると、キッチンに去った彼女の、慌ただしく調理をする雑音が耳をかすめて、コーヒーマシンから立ち昇る香ばしい豆の香りがテーブルにほのかに広がる。私は散漫になった集中力を何とか持続させようと、ノートに書かれた公式を意味もなく見つめ、胸騒ぎのする心に執着を打つべく背を伸ばし、深く息を吐いて精神を律した。しばらくして湯気の立つマグカップを二つ持ち、心配そうな面持ちでこちらを見つめる彼女の顔がこちらへ近づいてくる。「だいじょうぶ?顔色が変よ」と首を傾けて目が尋ねている。どうやら、ものすごい剣幕でノートに向かっていたらしい。

「昨日は夜が遅くて、あまり眠れなかったんだ」

「そうみたいね」

「ここに黒いクマがあるだろ?瞼の下あたり。こんなの、高校生の時はなかったのに」

「気にしすぎるのもよくないけど、あまり無理をしちゃだめよ。受験でも何でも、睡眠がいちばん大事って言うから。夜型になりすぎると本番直前に体調を崩しやすいって、何かの本に書いてあったわ」

「リラックスが大事なんだ」

「そうね。たまにの休息はだれにでも必要よ」

 私はクッキーをつまみながら休憩を取ることにした。小皿に盛られた市松模様のクッキーは、バターと砂糖を存分に使ったのか、口に入れると濃厚なミルクの香りが口いっぱいに広がり、飲み込んだ後もココアのしっとりとした甘さが舌の先に残った。コーヒーを口にすると、少し冷めてしまった苦みが、口に漂う豊潤さを上書きして、咽喉のどを通る頃にはすっかり眠気が覚めていた。

「家ではいつもひとりなの?」

「そうね。お母さんもお父さんも、仕事で遅くまで帰ってこないから」

「お手伝いさんは?」

「今はいないかな。この前まで弘明寺に住むおばあちゃんが、週に三回うちに来てくれたんだけど。腰が悪くなってからはずっとひとり」

 彼女の父は郊外に自分のクリニックを持っていて、母も長年そこに勤める看護師だという。私は普段の静けさが残るリビングに「おいしかったよ」と小さく呟いて再びノートに戻った。何か言葉にできないような焦燥と緊張が、静かな部屋中を覆うように、ゆっくりと時の流れとともに沈んでいった。私の不安定な鼓動は、課題に取り組む彼女の顔を盗み見る度に、険しい尾根のように上がったり下がったりした

 時計の針がちょうど一周したくらいの時分に、彼女は椅子から立ち上がった。私は問題に集中している振りをして、どこかへ去って行く彼女の足音をひたと聞いていた。この広い邸宅は洞穴のようにどこからでも音が筒抜けで、私は家での彼女のプライバシーが心配になった。全体がしんと静まり返っている街の雰囲気と同様に、家の中に漂い続けている静寂は、冷たく張り詰めたものが一帯を支配しているようで、トイレへ行くにも水洗の音が聞こえてくるのではと不安な気持ちにかられた。彼女がリビングを去ってしまうと、何となく落ち着かない素振りでくるくるペンを回したり、飲み切ったマグカップに描かれているウサギの絵柄を指でなぞったりして、揺れ続ける振り子の音だけに耳を傾けてぼんやりと過ごした。

 三十分経っても彼女は帰ってこなかった。流石におかしいと感じた私は腰を上げるとトイレへ向かった。リビングを出て廊下を渡り、引き戸の隣にあるトイレの扉の前まで来て、人のいる気配が無いことに気づく。どこへ行ったのだろうと、暗い廊下を再び戻っていると、左手にある階段の上から光が漏れている。私はふいに辺りを見渡して、足音を立てずにこっそりと階段を上がっていった。

 爪先に神経を集中させながらで二階まで辿り着くと、かたく扉を閉ざした納戸が縦に並び、出されたばかりだと思われる加湿器とヒーターが埃をかぶって隅に寄せてあった。床板にわずかな光をこぼしている扉の上に、彼女の名前の書かれたプレートがかかっていて、明かりがついているのに彼女の気配がまるでないように感じられる。引き返そうかと一瞬ひるむ心に鞭を撃って、私は興味本位に、彼女の部屋へと近づいていった。

 足音に気を使い、廊下に差した光の筋からこっそり中を覗き込むと、次の瞬間、芳香剤の甘い香りが鼻をつく。女性特有の強い蜜のような、けれど決して嫌ではない純情な刺激が、彼女の意外な一面を映し出す。瞑った眼を少し開けた先に飛び込んできたのは白を基調としたシックな装飾で、机、カーテン、洋服箪笥の全てがシンプルに統一されて、窓際のベッドに置かれているウサギのぬいぐるみが可愛らしい。その手前、壁側に付けられた机に向かって、熱心に勉強をしている彼女の横顔は、鼻から顎にかけてのシャープな線が、照明で白くふちどられ、まるで海外ドラマに出てくるヒロインのように、嫌気のない凛々しさを、自然とそのほの白い肌から放っているような気がした。

 彼女は扉から顔を出す私の存在に気がついていないようだった。あまりにも勉強に熱中し、動く気配がないので、声をかけて驚かせるのもためらわれた。私が息を殺し、泥棒のようにじっと視線だけをそこへ向けていると、不意に顔をこちらへ向けた彼女と目が合った。「わあ」っと身体をのけ反らせて、れた椅子の中ですぐにはにかんだ表情は、何度もみたことがあるはずなのに、熱中症に似た軽い震えとなって私の頭を熱くさせる。私は視線を外し、赤らんだ顔を悟られないように苦笑を浮かべ「ごめん」と呟いた。

ヘッドフォンを外した彼女は、恥ずかしそうな表情で「いつからいたの?」と驚いて顔を突き出し、恥ずかしそうに身をよじった。

「ほんとに、ついさっきだよ」

「なんで声をかけてくれなかったの?」

「なんでだろう……すごく集中してたから」

「嘘、わたしそんなに集中してた」

「うん、すごい顔してたよ、ベテランの競艇選手みたいだ」

彼女はまた身体をのけ反らせて笑った。

「コーヒー淹れてくるから」と言って部屋を出ていく彼女の背に「手伝うよ」と声を投げても、「ううん、いいの。そこで待ってて」と彼女はやさしい目を机のすみに置かれた座布団に注いだ。クリーム色のクッションは、滑らかな無地の北欧スタイルで、腰が吸い込まれるほど柔らかく膨れていた。

 私は彼女が戻る間、とりとめなく部屋中に目を走らせた。思えば女子の家に上がったことなどこれが初めてで、ましてやこのような、清純さが部屋中に溢れている空気を前にしては、どうしても平静を保っていられなかった。白い壁際のデスクの上にノートパソコンと参考書、モノクロのバインダーには予備校のプリントが丁寧に収められていて、横に置かれた翡翠色の花瓶には、造花であろう白のアネモネが優雅に花を開かせていた。レリーフのように取っ手が装飾されたドレッサーには、香水や化粧水らしい小瓶がいくつも並び、高く積まれた洋服箪笥の上に家族写真が木枠に収められてに照明に反射していた。

 マグカップを持って戻ってきた彼女はそれを私の前に置くと向かい合うようにしてクッションに腰を下ろした。床に座る二人の視線の高さが揃う。リビングにいる時よりも彼女の表情が明るく感じられるのは、狭い室内いっぱいに届くように設置された照明具のせいなのか、やや頬の肉がゆるんで、安らいでいるように見える。苦みの増したコーヒーを口に含んで、私は甘い眼を彼女に注ぐ。

「いつもここで勉強しているの」

「そうね」と言って、彼女はデスクに開きっぱなしだったノートパソコンをぱたんと閉じる。

「リビングは広いけど、何となく落ち着かないのよね」

「この辺りはやけに静かだね。ここに来るときも思ったんだけど」

「風がまったく吹かないの。高台なのに、西と東でまったく別の町みたいに」

「それに人の気配もない」

「そうなの。みんないつ家に帰ってくるのやら」

 おもむろに窓に目をやると、レース地のカーテンを横に据え、採光ガラスは夕焼けの淡い光を部屋に湛えていた。窓下に位置する本棚の辺り、光の差しこむ一点に、箱のような厚紙がきらきらと表紙を輝かせていて、その重厚な装丁を不思議に見つめた私は「あれはなんの本?」と指を差して彼女へ首を向けた。

「小学校の卒業アルバム」

 彼女ははしゃぐようにそう言うと、すぐに厚箱から本体を抜き取って、教員の集合写真の並ぶページを私の前で開いた。懐かしそうな感嘆の声がいくつも漏れ、しばらく想い出に耽っているようだった。以前棚を整理しようとして、直し忘れてしまったのだと、恥かしそうに呟いて幼い自分の顔を指さした。

「中学の時のは?」

「ないの。わたし私立だったから」

彼女はそう言って中学の名を口にした。ここからそう遠くない中高一貫の女子校だった。進学実績が良く、わざわざ東京から電車に乗って通学する者も多くいて、卒業して公立の中学に進まず私立に入ったから地元に友達が少ないのだと、意外にもあっさりとした口調で彼女はぺーじをめくる。どうやらそれほど思い入れがあるわけではないらしい。

 そんな彼女の横顔を眺め、私は彼女が私と同い年にもかかわらず、一年高校を留年していることを思い出していた。駅で出会ったあの日、彼女はきっちりとした正装に身を包んでいたし、予備校の自習室で、制服姿の彼女を何度か見かけたことがあったから、彼女が高校三年生であることは間違いなかった。しかしなぜ、彼女が留年をしているのか、私にはその理由がわからなかった。彼女の成績からして、決してテストを怠るような性格だとは思えないし、素行が悪いようにも見えない。なにしろこんな豪邸に住んでいるのだから、親の教育がしっかりしているに決まっている。だとするならば、彼女が留年した理由とはいったい何であろう。彼女が予備校に遅刻することは一切なかったし、遅刻するような時間にルーズな性格だとも思えない。私は彼女のふとした時にでる我の強さが、何か悪い事態を引き起こしたのではないかと、その短い時間で奇妙な妄想をかきたていた。彼女は校則を破ることはしないが、何かについて教師に反論するようなところが予備校でも見られ、その真面目で嘘の付けないところが裏目に出て、教師に反抗したとみなされたのではないだろうか。

 私がそのことを聞こうと顔を向けかけた時、ちょうど彼女は自分のクラスの頁を眺めていたらしく、「これがわたし」と指を差し、笑顔で私の瞳を覗く。長い髪が、肩に触れんばかりに近づいて、芳香剤とも柔軟剤とも異なる甘やかな香りが、すうっと全身に流れていくような、晴れやかな気分が一瞬、私の心を満たした。私の目の前に彼女の白い肌があった。

「確か、あの辺に幼稚園の写真もあったと思うんだけど」

 彼女がアルバムを取り出そうと、クッションから立ち上がらずに肩のみをぐっと前に伸ばして首を後ろへよじった時、垂直に突き出た腰が、ニットセーター越しに滑らかな形をして私の目に飛び込んでくる。あまり気がつかなかったが、彼女は同年代の女子より身長が低いぶん、下半身に集中して肉がついているのだと、その首から背にかけての広いつながりを見て感じた。私は葛藤の目を慌てて逸らし、落ち着きを取り戻そうと鼻から息を吸い込むが、逸らした目の奥に、彼女のしっかりとした身体つき、成熟した大人の色がちらついて平静さは戻らない。普段通り振る舞おうにも、隣に彼女の温もりが、異質な風となって迫ってくるだけに、それは不可能だった。

「どうしたの?」

「少し気分が悪いみたいだ」

「頭が痛むの?」

「寝不足がキたんだろう。ちょっと耐えればすぐ止むさ」

そう言って、テーブルに立てた肘の上に頭を乗せ、隠すようにして顔をてのひらで覆う。赤面を悟られないようにと、暗闇に精神を静め、アルバムを開き始めた彼女が静かに写真を眺め、部屋の空気が心持ち軽くなったと感じた頃、再びゆっくりと顔を持ち上げると、彼女の顔が視界を覆うようにそこにあった。互いの瞳の色が完全に認識できる間合いに、栗色に開く彼女の双眸が、不思議そうにも、心配そうにも見える眼差しで、暗闇にまたたく稲妻のように、まっすぐと私を見据えていたのだ。

風も時も止まったような不安定さが、無意識の心の底にわずかに姿を見せていた。見つめ合う二人の細やかな息伝い、小さな鼻息、漏れる吐息、咽喉を伝う唾液が、胃に落ちて溶けるような音までもが、静止した時の中で細分化されていくようだった。目線は未だ繋がったまま、満ち足りた空気、二人だけの時間が、秩序の穴から這い出して室内に滞っていた。息の詰まるような静寂に、私は自然と彼女の手を探していた、白い指の腹が私の甲に当たり、血管をなぞるように皮膚を辿っていくと、ほっそりとした指の先、丸みを帯びた爪の先端で、その滑らかで止まっているようなもの、私は彼女の唇をとらえていた。疲労と退廃がグッと首筋の筋肉を締まらせ、それを凌駕する心と血のざわめきが、私の全身に不感の勇猛心を掻き立たせていた。

 縺れ合うようにして壁際のベッドに彼女を押しやり、繋がれた指先をシーツに立てて口を離すと、彼女は虚ろな表情で視線を地に落としていた。セーター越しに肩から手を当てると、柔らかな感触が温みを持ってたわみ、沈んだ肌を下へ下へと滑らせ、ちょうど窪んだあたりで指を止め、腰に掛かるスカートを下ろそうと手を掛けた時、彼女ははじめて「やめて」と冷たく呟いた。

「お願いだから、やめて」

私は困惑した表情でそっと手を離すと、彼女は右手で顔を隠し、鼻を震わせながら弱々しく言葉を吐き出した。

「ないの」

「わたし、子宮が無いの」

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