第十一話 じもとの

 煤のように黒っぽい膜がすっぽりと青空を染め上げ、遠くではまだかすかに赤い炎が太陽をまとっていた。遠くに見える斜面。崖のようにせり立った根岸の家々が陽に沈もうとしている。起伏の激しい辺りには古い戸建が多く、所々に見えるトタン屋根の平屋は、人の住む気配が感じられないほど荒廃した庭木を周りに放していた。高台から見る夕焼けはなぜこんなにも胸に寂しさを込み上げさせるのだろうと、公園の一画にある突き出た鉄柵に両腕を置いて、木々の隙間からこぼれる薄暮はくぼの光景を仔細に見入っていると、うしろにいたAがタバコに火をつけて

「あんな場所に住む人の気が知れないな」

と言って煙を吐いた。

「そうかなぁ?オレは案外好きだよ。高台に住むっていうのも」

「そんなわけあるかあ。だいたい交通の便が悪すぎるよ」

Aはそう言って切り開かれた丘の住宅を指さす。

「あの辺りはバスや電車が通っていないから、遠出とおでするにはわざわざ下まで降りなくちゃいけないんだ。周りは坂ばっかりだから、どんな場所へ行くにも硬い階段を上り下りしなきゃならない。交通機関の走れる道がないから、コンビニやスーパーも周りにないし、車を使おうにも、道幅が狭くて慎重に出入りしなきゃならない。夜なんて街灯が少ないから事故だって起きやすいはずだ。それに見ろよ。あの家と家の間、あんな仕切り一枚でプライバシーが保てるわけないだろ。あんな場所に住んだら、きっとご近所トラブルが後を絶たないんだろうなあ」

Aは鼻から煙を吐き出し空虚うつろな目を住居に注ぐ。彼の目線の先には、崖のようになった傾斜地に所狭しと人家が連なっている。形の異なる屋根を携え、窓、壁、石造りの階段、塀と住人の個性が存分に表れている建物の群れは、遠くに沈む太陽のかすかな光に縁どられながら、それぞれの明かりを内に灯し始める。暗くなった一帯にどこかの飼い犬が吠えると、窓から伸びる夕食の煙が、飛んでいくカラスの空にもろく消えていった。私は風に混じったいくつもの空気、公園に林立する緑生い茂る木々や、夕食をつくる住居の温かな香りなどを吸い込んで口を開く。

「オレはこの場所好きだけどなあ。もちろん、不便なところは多いとは思うけどさ、それでも何て言うかなぁ、その地の温もりというか、生きてるって実感が湧くと思うんだよね。下の平地に住んでいるオレたちは普段の生活に何の不満も抱かないけれど、それでも単調で機械的な生活は、どっちかっていうと人間よりロボットに近い気がするんだよ。便利すぎてね。発車時刻の何分か前に家を出て、時間通りに最寄り駅に着く。帰りはスーパーで適当に惣菜を買って、家に帰ったら食べて寝るだけ。オレたちの周りに住むやつなんかみんなそうだ。でも、そんな毎日をずっと続けていくのって、効率的だけど、何だかあんまりじゃない?町一帯に閉塞感がつきまとっているみたいでさ」

「オマエみたいなのは一度田舎へ行ってみるんだな。そうすればどんなにここが便利で住みやすいか、きっとわかるはずだ」

「ああ、いつかはそうするよ。でもオレは、やっぱりこの場所が―」

太陽が住居へ沈み、薄くなった黄昏の空にぽつぽつと星が浮かび出ていた。黒いキャンバスに浮かび上がる星々。ビルの並ぶ私たちの町からでは到底みられない星空だ。私は真上に輝く一等星を眺めながら、海のように広がる空に、いつしか神秘的な宇宙の魅力を感じていた。もしかするとあの小さな欠片のような星にも、何万何億と生物が住んでいて、彼らもまた、こちらを見つめているのかもしれない―

 そんな物思いに耽って、ふと視線をAに戻すと、彼は私たちの背後にそびえる巨大な建物を一心に見上げていた。

旧根岸競馬所の一等馬見所、日本で初めて建てられた洋式観覧席。今は使われていない七階建ての廃墟が、私たちに迫るようにして暗い夜の底に堂々とそびえていた。

「住むんなら、これくらい大きい家がいいなあ」

 彼はそう言って落とした吸殻を靴で潰した。石畳に煙が立ち、死んだ鳩のように静かに闇に溶け込んでいった。

 森林公園に存在する建物の中で、唯一戦前から存在するものは、この観覧席跡だけだった。開港と同時に開かれた近代競馬は予想外の大盛況で、居住地に住む外国人だけでなく、一般市民にも大きく親しまれ愛された。しかし大正十二年に起きた関東大震災における損壊で、それまで木造建てだった観覧席は耐久度の観点から信用を失うこととなり、経営陣は外国から有名な建築家を呼び寄せ、それまでの日本にない、本格的な近代建築を取り入れたスタンド、観覧席を造り上げようと、一等馬見所からなる二棟の観覧席を新たに建設することを決めた。昭和四年のことである。

 それから戦争期の閉場まで、観覧席はその比類ない瀟洒しょうしゃな見た目から「東洋一」と評され人気を博した。地上七階、地下一階からなるスタンドは、洋風建築を基にしたコンクリートの外装で、内部なかには当時珍しかった三基のエレヴェーターがそれぞれの棟に取り付けられた。一等馬見所の最上階には、要人を接待するために貴賓室が設けられ、天気の良い日は相模湾の全景が眺められ、遠くには富士の山がくっきりと、その稜線を太陽に縁どられながら浮かんでいたと、記録には書かれている。

「こんな古い建物がいまだに残されているなんて、なんだか不思議だなあ」

Aはぽつりとそう言って廃墟に近づいていく。辺りに街灯は無いため、彼の後姿は前景の観覧席と同化して闇に消える。「いつ壊れてもおかしくないもんね」とわずかに判別できる背中に向かって私は声をかけた。

「こんなものは簡単に壊れないだろう、全部がコンクリートなんだから。オレが言いたいのは、どうして壊さないで残しておくんだってことだよ」

なるほど、と私は呟いた。こんなさびれた建物なら用途がない以上残しておくのは確かに不自然だ。雲間から突き出る月明かりで、微かにその細部がわかる程度だが、言われてみれば一等馬見所は、外壁につたが何本も絡まり、中央の壁面には削れた跡が見える。遠くから眺めると迫力があり、その異様さが逆に好奇心をくすぐるのだが、近くで見るとただの廃れた洋館といった印象が否めない。装飾された柱は雑草によって一部が侵食され、割れた窓ガラスからは空よりも暗い闇が覗いていた。

「なあ、ちょっと入ってみようよ」

そう言って鉄柵を掴み、足を掛けようと身を上げるA。鉄条網が張り巡らされているのは、観覧席が園内の米軍基地と隣接しているほかに、内部は劣化して処置を施していないため、突然崩れる危険性をはらんでいるためだ。そのため立ち入り禁止の看板が、ラクガキにまみれて鉄柵に掲げられているのだ。私はとっさに彼の肩を掴み、中に入るのを止めようとした。

「放せよ。なかにドラゴンがいるかもしれないだろう」

「またそれか。そんなものいるわけないだろう」

私がそう叫ぶとAはあっさり引き下がった。先端に忍び返しのついた黒い柵は、観覧席を囲うにして取りつけられ、植え込みの上部に大きく「WARNING」と書かれた看板が打ち付けてある。どうやら米軍ゲートと同様に、一等馬見所の敷地も、いまだにアメリカのものらしい。

「この場所が壊されないのは、この建物が米軍のものだからってことじゃないのか?」

私が何気なくそう呟くと、闇に紛れたAは呆れたようにため息をつく。「住民がこの場所からいなくなったっていうのにか?」と言って笑った。

「米軍基地はあと数年で大学病院になるんだよ。前にゲートから中を見ただろう?あれだけ広い敷地なんだから、跡地利用に病院が手を挙げるのは必然だ。これは返還合意から何十年も経って、ようやく横浜市が決めたことなんだ。米軍基地に住む人間は別の基地に移動させられて、もともとあった建物は全部取り壊し。敷地内にあった住居もスーパーも学校もガソリンスタンドも全部壊して、またいちから建物を建てるんだ。塀の向こうにあった土地は日本に帰ってくるんだよ。この柵だって取り壊されるだろうから、公園だって今みたいに遠回りしなくても、真っすぐ芝生広場に行ける道ができるようになるんだ。なのに、それなのに、だ。この観覧席だけは一向に壊そうとしない。それどころか、保護するって噂もちまたで聞くくらいなんだ。何十年も公園の一角にそのまま放置されて、修理ひとつ施すことのなかったこの観覧席が、米軍基地の再整備を始めた絶好の機会に取り壊そうとしないなんて、どう考えたっておかしいじゃないか」

 なぜAがここまで観覧席にこだわるのか、私にはわからなかった。確かに彼の言い分はもっともで、長年放置され続けた廃墟が取り壊されることは当然であり、それは現在行っている米軍住宅の一掃とも都合がいい、何よりこの古い建物を残しておくことで、市民にどのようなメリットがあるのかわからないのだ。近代競馬の礎を築いた根岸競馬場の史跡として、市が観光地化するには廃れすぎているのだ。しかし、そうは思っているものの、私はこの時、観覧席に強くかれていた。星の瞬く群青色を背景に、太いコンクリートの柱を三本しっかりと携えて、周囲の木々から飛び出すようにして構えられた観覧席は、深閑とした樹木に潜む鳥の羽ばたきが、緑葉を騒がせて一斉に空へ散っていっても、冷たい外壁を仄白く光らせて、悲し気にその場所に佇んでいた。私はその姿から、何か捉えることのできない魔力のようなものを、観覧席の荘厳なつくりがかもしているような気がして、その瞳のように歪んで光を曲げている二枚窓を、遠くの景観を眺めるようにしばらく見つめていた。

Aが何を伝えるために私を根岸へ呼んだのかは、最後までわからなかった。

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