第十話 うまれる

 Bが口を開いたのは街並みが繁華街から住宅地に変わり、人通りの少なくなった十字路に差し掛かった頃のことであった。彼は視線を地面に注いで滔々とうとうと、冷たい風を噛みしめるみたいにして、今日会った女性について話し始めた。

 初めて顔を合わせた時、まるでプロフィールの写真と異なっていたため、彼女の母親が来たのかと一瞬戸惑ったが、女性は丁寧な物腰で自分は写真の人物ではないことを謝り、宜しければわたしの話を聴いてくれないかと言って、レストランに着くなり話を始めた。Bは当初、宗教勧誘やねずみ講の類だと疑い、絶対に騙されてやるもんかと、緊張した面持ちで話を聞いていたが、真剣な表情で語気を強める彼女の、そのリアリティーのある話がだんだんと進むうちに、彼女に対して抱いていた不信感が、陽焼けした薄皮のように自然と剥がれていったのだと、そう言って笑った。

 彼女は自身の過去について詳しくBに語った。彼女は十五年前に、当時勤めていた結婚式コーディネートの会社で夫と出会い、めでたく結婚して二年後に男の子を産む。息子の出産は予定日よりだいぶ遅く、危険な状態が数時間も続いたが、ようやく生れてきた赤子を抱いた時、苦しみから解かれた安堵で涙がこぼれでたと彼女は語った。その後、少年は幼稚園小学校と何事もなく進んでいき、三年生からは地元のサッカークラブに通い始め、一日中外を駆けまわった。学校が終わると直ぐランドセルを家に置き、そのままシューズを履いてグラウンドまで走っていく。九時ごろに帰宅してお風呂に浸かり、夕食を済ませる頃には既に転寝うたたねで、ベッドに横になると朝まで決して起きなかった。サッカーに明け暮れる毎日を過ごす息子に、彼女は練習の送迎からユニフォームの洗濯、栄養が偏らないよう献立を調整し、休みの日は必ず、試合についていって応援に励んだ。その甲斐もあって息子はチームの中で徐々に頭角を現していき、五年生のころにはキャプテンとして、県の代表チームに選ばれるまでに成長していった。彼女は息子の活躍が心の底から嬉しく、より一層彼の練習に付き合うようになっていった。

 そんなある日のこと、近頃夫の帰りが遅くなったことを不審に思った彼女が、帰宅してすぐ身体を洗いに行った夫を横目に、テーブルに置かれた携帯をこっそり覗いたのがことの発端だった。画面に写し出されたのは、若い女性と親密そうに会話をする夫の履歴。猫のような語尾と絵文字を連発するその文は、いつもの夫からは想像もつかないものだった。彼女はすぐに夫を呼び、これは浮気ではないのかと問い詰めた。夫はいつもの調子を崩しながらも、会社の部下だと言っていつまでも白を切り、決して口を割ろうとしなかったが、それから数日経った午後、突然自宅に電話がかかり、不審な気持ちで出てみると、聞きなれないスベスベとした若い女の声に、彼女は夫が浮気をしていることを確信した。すぐさま近所の探偵事務所に依頼し、証拠となる資料を集めてもらうよう呼びかけ、夫には普段通りに振る舞うよう心掛けた。この時の彼女はまだ、一二回の飲みの席でのロマンスなど、向こうから誤れば許さないとも言い切れない心の余裕を持っていたのだ。

 調査結果は案外早く届いた。担当者は事務所に呼びよせた彼女の前に紙を置いた。調査書には夫と若い女の写真がそれぞれ貼られてあり、二人は昨年から急速に仲を深め、会社近くのアパートに部屋を借りて半同棲生活を送っていると言う。結果を聞いた彼女は、夫の不倫が長期に及んでいることを知り、その場で激高した。私が息子のために県外へ遠征に出かけている間も、この男は不倫相手を家に呼び入れて、結婚当初ふたりしてむつみ合ったベッドに、何食わぬ顔で乱れていたのである。彼女はすぐに離婚調停を申し立てようと、次の日弁護士に電話を掛けた。

 息子の体調が悪くなり始めたのはその頃からだった。それまで学校を一度も休むことのなかった息子が突然体調の悪さから学校を休みたいと言い出し、熱を測ってみると三十九度の高熱で、彼女はすぐさま病院へと運び、解熱剤を貰って様子を見た。数日の安静で息子の容態が良くなることを願った。

 ところが、息子の容態は良くなるどころか次第に悪化していった。四十度近い高熱に加え下痢に嘔吐、成長盛りの関節は奇妙なくらいに大きく腫れて赤みを増し、流石にこれはただの熱ではないと、異常に思った彼女は息子を大学病院に連れて行き、精密検査の末に下された病名は『急性リンパ性白血病』だった。

 彼女は頭が真っ白になった。まだ幼い息子がなぜ癌にならなければならないのか。彼女はその場に崩れ落ち、声をえて涙を流した。全て夫が悪いと自分に言い聞かせることで、何とか平静を保つことができたが、それでもわずかな希望を胸にして一人息子の入院生活を想像することは、全身の力が抜けていく徒労を彼女の全身に襲わせた。

 息子は難しい手術を何度も繰り返し、一時は回復の様子を見せていたが、二年の闘病生活の末、今年の春亡くなった。その間、家庭裁判にもつれた離婚調停はようやく受理され、夫は同僚の女の方に所帯を持ち始めた。ささやかな葬儀を済ませ、遺骨を持って家に帰った彼女は、空っぽになったリビングに力なく膝をつくと、声を上げて泣いた。胸に抱きかかえた息子の遺骨が、何もない彼女の心に冷たい金属のように無慈悲な感覚を呼び起こさせた。ひとりぼっちだと言うことが、こんなにも心苦しいものだとは思わなかったと、その時彼女は感じた。

 両親の住む実家で細々と生活して二か月経ったある日、母親に諭され仕方なく入れてみたマッチングアプリで彼女は目を見張った。童顔のその男は、亡き息子に似ていなくもない、明るい優し気な表情をしていたのだ。それから数日、彼女はその男のことで頭がいっぱいになった。午後の読書の時間にも、母と食事をしている時も、夜寝る前の寂しさで押し殺されそうな闇の中でも、彼女の頭の中には先日みたマッチングアプリの男の顔が残り続けた。そしてついに、彼女は男に会ってみようと心に決め、数か月ぶりに意欲的になった。男の年齢から、不信感を抱かせないために、わざと年齢を誤魔化してメッセージを送った。嘘をつく後ろめたさも少しはあったが、それでもやはり会ってみたいという衝動が抑えきれなく、年齢を十五もごまかし、顔写真を今風に加工してこちらから話しかけた。すると直ぐに男から返事が返ってき、清流の如く勢いで日程が決まって、現在に至るのだと彼女は言った。

 それから彼女は色々な話をBにした。実家で猫を飼い始めたこと、時間ができたことでそれまで苦手だった料理を一から習い始めたこと。思い切って挑戦したロールキャベツの味付けが上手く行ったこと。そして息子の幼い頃の話まで、口を開けば話題が滝のように溢れ出た。彼女はまるで世間知らずの少女のようにはしゃぎ切って、いつまでも話し続けていた。Bはそんな彼女の無邪気な姿に自然と、この人を助けてあげたい、近くで支えてあげたいと、心の中にほの温かな光が射してきて、全身が彼女の時間に溶け込んでいくような気分になったと言う。やや冗漫でありながらも、控えめで遠慮がちな口調が、円熟した大人に似つかわしくない楚々として少女のような一面を彼に与えていたのだ。生まれ持つ上品さをひけらかすわけでも、気高さを驕慢きょうまんするわけでもない。そんな愛嬌に満ちた彼女の笑みは、彼の中に安らぎに似た感情を芽生えさせ、いつしかそれは、彼女の傍に居たい、隣で話を聴いていたいという願望に変わっていったと言うのだ。

「帰る時にあの人が言ったんだよ。こんなおばさんでも良ければまたお話しを聴いてくださいって。オレ、考えるまでもなく『もちろんです』って、そう答えたよ。こんなオレでも力になれるのならって、本気でそう思ったんだ。そりゃあ、傍から見れば親子にしか見えないとは思うけどさ、それでも何て言うか、変にこだわらなくてもいいんじゃないかなって。ハマらない型みたいなものが存在しても別にいいんじゃないかなって、そう思ったんだ」

 Bは話している最中私たちと目を合わせなかった。何か遠くの景色でも見るように、終始笑みとも困惑ともつかない表情で、じっと暮れかかるオレンジ色の空の明かりを目で追っていた。私はそんな赤々とした西日と何ものをも吸い込むビル影の両方をまとう彼の姿が、いつになく悲し気で小さく見えて、Aの言った「アイツは優しいから」という言葉が、日曜の静まった住宅地の奥から流れてくるような気がして、いつまでもそれが頭に残り続けた。


 早番があるからと言って、コンビニの少し手前で別れたBを見送りながら、明日は予備校で英語の授業があることを思い出した私は、早速家に帰って予習を始めようと家に続く路地へと背を向けかけた時、電柱にもたれながらタバコを吸っていたAが「なあ」と私の右肩に手を置いていった。

「時間あるか?」

「なんだよ」

「ちょっと付き合えよ」

私は面倒くさそうに振り返ると無意味にため息をついた。彼のことだから、まだカラオケやボウリングに入り浸って、聴きたくもない相談に付き合わされるのだろうと、少々億劫な気分で顔を戻すと、そんな私の思いとは裏腹に、彼の瞳は真剣そのもので、西日を受けて赤黒く光っていた。

「話したいことがあるんだ」

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