第三章 場所と人

第九話 そうだん

 ソーダ水のなくなったガラスコップが水滴をまとい、コロンと音を立てて中の氷を崩した。落ち着かない素振りでストローをかき回していたAは、おもむろに付着した水の粒を指で拭うと「クソババアが」と言って正面にいる私を睨む。「見てらんないよ」と右手でしかめた顔を覆う私の視線の先に、ぎこちなく表情をこわばらせて中年の女と談笑するBの姿が映る。

 一週間前、深刻な口調で喫茶店に集合させられた私とAは、Bが先月のあたまにマッチングアプリを入れたことをその時知った。四月の初めに研修員として工場勤務を命じられたBは、ここ数ヶ月でめっきり様相が大人になり、社会人としての風貌を所々に漂わせる立派な会社員としての風格を、そのきっちりと整えられた髪型や右腕の時計などがあらわしていた。

けれど、そんなBの普段の生活は平凡のそのもので、代わり映えのしない毎日を送っているというのだ。特に平日の一日は実に単調で、終業の六時に会社を出ると真っ先に向かうのは行きつけの定食屋で、家に夕食が用意されている日でも必ず立ち寄っては、生姜焼きやぶりの煮つけなど酒も飲めないくせに小品を空っぽな腹に押し込むのだ。そしてそれが済むと駅前の映画館におもむき、会社帰りのサラリーマンや大学生がひしめく狭い劇場で、レイトショーを一本鑑賞する。これは彼が入社して一か月後に始めたもので、毎週水曜日は会員限定で安く見れることを利用した実に画期的なアイデアだ。それが終われば帰宅ラッシュの過ぎた電車を乗り継ぎ、十時には家へ帰って風呂を浴び、帰りがけにコンビニで買ったアイスを食べて就寝する。そんな毎日だった。休日、私やAと遠出をしたり、高校の友人らとサイクリングに行ったりと、活発な日々を送ってはいるものの、やはり高校の延長のような娯楽は決まってカラオケにボウリング、ダーツやビリヤードに限られて、いつも帰り際に一抹の物足りなさを感じるのだった。高校卒業と同時に企業へ就職し、老若男女さまざまな年代の人間と付き合う彼にしてみれば、そんな変わり映えしない娯楽は楽しくもどことなく退屈というか。せっかく社会人になったんだから、オトナらしい活動に精を出すのも悪くはないなと。そう思ってソープランドひしめく夜の町に繰り出す自分を想像するが、たちまち萎縮して動けなくなる姿が目に浮かんで、経験の無さが堪らなく恥ずかしくなるというのだ。工業高校出身の彼のことだから、今まで異性との経験どころか、デートすら怪しいと薄々感じていた私たちにとって、そのきっぱりとした告白は予期していたもののやはり少し衝撃で、私はAを覗いては難しい表情を唇を噛んで堪えた。

 だから私たちはその話の後に彼女を作りたいと、そう決然と言い出したBに、驚きと歓喜の両方の心持で拳を振り上げ、ぜひ彼の恋愛に協力しようと意思を固めたのであった。Bは緊張の解けた表情を顔いちめんに湛え、安堵と恥ずかしさの混じった笑みを私たちに向けていた。

 Bが登録したマッチングアプリは、つい先日リリースされたばかりの新しいものでありながら、SNSや広告を通じて若い世代で評判になり、今や大学生のほとんどが利用していると言われている有名な課金アプリであった。恋人のいない私でも知っているくらいだから、多分Aも知っているだろう。アプリを入れた彼はさっそく月額制の有料プランに申し込み、手当たり次第、マッチした女性にアピールをして回った。  

 表示された女性にグッドボタンを押し、簡単な挨拶を送って相手から返信が来るのを待つ。右上に表示された彼のプロフィール写真は高校時代に友達から撮ってもらったもので、その下に簡単な紹介文が続いていた。

 趣味は映画鑑賞にマンガを読むこと、休日は友人とドライブをするかボウリングに行くか、サザンの真夏の果実が十八番で、中学高校とバレーボールで県の三回戦まで行きましたと、ごく平凡で当たり障りのないことを延々とつづる彼の文章は、まるでバイトの履歴書のように読んでいておもしろくもつまらなくもなかった。この様子ならデートは当分あとだろうなと、先が思いやられる私とAは大きくため息をつき、その二日後、再びBから召集を受けた際に唖然と顔を見合わせた。

 なんと、彼は相性の良い女性と早々にマッチングしたのであった。それも、相手側からメッセージが来たらしく、二言三言交わしただけでデートの期日が決まり、後は当日を待つのみという段階までことを進めていたのであった。私はあの紹介文を読んで本気でBに興味を持つ人がいるとは到底思えなくて、もしいるのならば是非ともその顔を見てみたいと、彼の携帯から写真を見せてもらってまた驚いた。写真に写る女性はBには到底釣り合わない、超が付くほどの綺麗な女性だったのだ。ベージュ色のワンピースを着て椅子に座る女性は、その体躯がしっかりと布の上からでもわかるほど、引き締まって余分のない身体をしており、斜め先を見つめる首筋が、白く細やかな線を浮かび上がらせ照明に光っていた。赤みかがった長髪が顔を半分を隠しているため、その目鼻、詳細な表情は写真からはわからなかったが、横顔からでもわかるオトナっぽい長い睫毛と形の良い鼻梁は、相手の上品で艶やかな容貌を見る者に十分に与えていた。

 私は肝が芋になりそうなほど口を開いて硬直し、誇らしげに写真を眺めるBに「デートはどこへ行くんだ」と尋ねた。

「それがまだ決まっていないんだよ。何しろこんな経験一度もなかったからね」

「やっぱり、最初だから座れるところがいいよね。屋内デート」

「ランチをしようって話にはなってるんだ」

「なるほど。それならその後に映画とかカフェとか、ショッピングなんかもいいんじゃないか?」

私がそう言うと、Bは難しい顔をして頬杖をつき、「うーん」と顔を歪めた。その硬い表情にも、いつもにはない喜びの色が滲み出ていて、終始彼を不安定で落ち着かない様子にしていた。

「それでもいいんだけど、何か違うというか……ありきたりじゃないかなあ」

「初対面の、それも最初のデートなんだろう?そんなのありきたりでいいんだよ」

「うーん……」

うつむいてなおも唸る彼を前に、隣でストローをがちがちと噛んでいたAがゆっくりと口を開く。

「それで、相手は何歳なんだ?」

「うん?ああ、二つ年上で、今年で二十一の社会人だって」

「年上か。それなら相手に任せるのもいいんじゃないか」

「ええっと……それって、つまりどういうこと?」

Bは気の抜けた目でAを見やる。

「そのまんまだよ。全部相手に決めてもらうんだ」

Aは当然のようにそう言ってまたコーラを飲む。空になったコップを机の端に音を立てて置くと

「昔からデートは男が先導するって風潮があるけど、そんなの一体だれが決めたんだ?行く前から男が周るところ行くところをリサーチして、寄る店なんかも予約してさ、それで当日、会った女の子をサプライズで喜ばせるみたいなさ、デートってそういうところあるじゃん?でも実際は、そんなことを考えるよりも女子側の意見に沿った方が絶対にいいし、なんならお店なんかも女性の方がいい場所知っていたりするから、オレは絶対相手に決めて貰うな」

「でも、それって弱腰だって思われないかなあ」

Bは彼の意見にマイナスな批評を下す。初めてのデートを絶対に失敗させたくない緊張が、彼をより一層意気地なくさせているのだ。

「逃げてるんじゃないさ。見守るんだよ。オレのことはいいから、アナタが好きなところを選んでねって、むしろ広く構えるんだ」

「大丈夫かなぁ……」

「大丈夫さ。それくらい寛容な男なら相手だって気安く話せるだろうし」

平然とそう言い放つAの口調には思いのほか力がこもっていた。Bは隣にいる私に、「どう思う?」と意見を求める目を向けた。話の一部始終を黙って聞いていた私は、ふんと鼻息を荒く鳴らして両腕を組むとBの透けるほど繊細な瞳を見つめていった。

「オレはAみたいに極端に相手に決めて貰わなくても、事前に行きたいところを出し合って、二人で決めればいいと思うなあ。もちろん、候補がありすぎてどこに行くべきか悩んだら、女性側の意見に寄るのもいいし、どうしても行きたいところがあるならそこにすればいいし。デートって言ってもやっぱり遊びに行くわけだから、相手側もそうだけど、自分も楽しめるところに行くべきなんじゃないかなあ」

「それでも、結局は女性側の意見に従うことにならないか?長々と話し合ったって、向こうは譲る気はさらさらないんだから。オンナそういうもんだろ。それなら最初っから自分の意見なんか言わずに、ただ相手に決めて貰う方が虚しくならないし、何より時間がかからない。手っ取り早いよ」

「そりゃあ効率を考えたらそっちのほうがいいと思うけどさ。でもデートって今回だけじゃなくて、次もその次もあるかもしないだろう?その時のために早いうちから自分の意見を言っておかないと、何と言うか、人任せにしているやつって思われるだろ」

「人任せだっていいじゃないか。そう聞かれたらな、『オレはオマエとだったらどこへ行ったっていいんだ』って、そう声を大にして言ってやるんだよ」

「それはデートじゃなくて、ただ女性に付き合わされているだけってことにならないか?いくら異性でも、そこまで譲歩しなくても関係は築けるはずだよ」

「いいや違うね。男は自分の意見を通すよりも、黙って女の聞き役に徹する方がいいんだ。家族だってそうだろう。ああだこうだって指図するのはオンナで、オトコはどっしりと、それに従って余裕に構えていればいいんだよ」

「それはまた話がちょっと違ってくるよ」

「同じさ。男と女なんて全部そうなんだよ」

私とAの白熱した討論にBの入る隙はなく、彼は終始私とAを交互に眺めながら苦笑いをするしかなかった。最後の方は私もAも、Bがデートに行くことなど忘れてただ議論に熱中していたから、彼のデートが行われる前日、すっかり頭の冷えて申し訳なさが募った私とAは、明日Bの後を付け、何かハプニングが起きた時彼を助けてやろうと、秘かに尾行する準備を進めたのであった。

 横浜港が臨める山下町のレストランで一時間ほどランチを取ったBと中年の女は、そのまま山下公園に入って氷川丸を眺めていた。日曜の芝生には家族連れが多く、西洋造りの豪華な噴水の周りを走り回る子供らと、それをレジャーシートを敷いた傍らから眺める母親の姿がいくつも見えた。石畳の遊歩道は鉄柵の手前でコンクリートに代わり、向かいの売店の奥に堂々と構えられた氷川丸は、陽の光を浴びて船首が白く輝いていた。

 Bと婦人は売店でクレープを二つ買い、旗の揺らめく木柵のベンチに腰を下ろして何やら楽しそうに話していた。芝生の低木から盗み見るようにして眺めていた私とAは、彼らの話の内容に耳を傾けようと身を乗り出してみるが、辺りの学生やカップルの喧騒が二人を遮ってなかなか声が聴こえない。気づかれることを恐れた私たちは彼らに近づかず、木陰からそっと様子を見守ることにした。

「どんな話をしていると思う?」

私は隣で身をかがめるAにそう聞いた。

「わかんないなぁ。でも、ババアのほうが一方的に話しているって感じだな」

「そのババアっていうのやめろよ」私は吹き出しそうに言う。

「あれでも二十代後半くらいに思ってるんだろう。じゃなきゃわざわざプロフィールに書かないだろう」

「いいや、どう見たってあれはババアだろ、顔は確かに整っているけど、服装が授業参観のお母さんだもん。アラサーじゃなくて四十路だよ、ヨソジ」

 Aはケタケタと唾を飛ばしながら悪口を言い続ける。無理もないことだ。私の目から見ても、確かにBに話しかけるその女性の年齢は恐らく三十後半から四十代の、成熟した大人の女性に違いなかった。ブルーと白のストライプシャツにグレーのデニムパンツ、組まれた足の先に見えるレースアップサンダルは、彼女の年相応のくるぶしを露にして爪先だけをアスファルトにつけていた。

「あんなやつがマッチングで来たら、オレは速攻で帰るね。詐欺も同然だ」

「でも、なかなかねばってるね」

私は両手を双眼鏡のようにして陽の光を遮り、目を細めて彼らを眺めた。相変わらず中年の女は一方的にBに話しかけていて、身振り手振りしながら真剣に何かを語っていることが、二十メートルほど離れて声の聞こえない木陰からでもわかった。

「アイツも早く帰りたくて適当に相槌してるんだろう。どうする?助けに行くか」

「いや。もう少し待ってみよう」

 急ぐようにそういったAを右手で制し、私は尚もしばらく彼ら二人を見守った。よく晴れた空の下、海を眺める観光客や家族連れが道を行き交う中、ベンチに座り、向かい合うようにして何かを熱く語る女と、それを静かに見守るB。私はふたりの間に、なにか言葉にできないような調和が、自然とその狭い中で作られているような気がして、背中を向けたBの先で、いつまでも口を動かし続けている中年の女をぼんやりと眺めた。彼女はBのような二十も歳が違う相手に対して、いったい何をそう真剣に語っているのだろう。その自然な表情から、彼女が彼に対して説教をしていたり、なにかを諭しているわけではなさそうだ。私は親子ほど年の離れた男女の新鮮な姿に、自然と目が吸い寄せられていくような興味。この女性に対する疑問が、じょじょに大きく膨れ上がってきているのを感じていた。

「どうしてBは帰んないんだろう」と私は呟いていた。

「さあな。アイツは変に優しいから」

Aがそう言った時、ベンチにいた二人が腰を上げ、奥の方へと歩いていくのが見えた。私は慌ててタバコを咥えるAを叩き、首筋からこぼれる汗をハンカチで拭うと、二人の後を追った。


「気づいていたよ。レストランの辺りからね」

Bは朗らかに笑ってそう言った。夕焼けの広がる繁華街を背に、Aは悔しそうに影を踏んで

「ちくしょう!店員が何度も注文を聞き返すから」

と吸いがらを道に投げ捨てる。ふたりの真ん中にいる私は小さく笑って

「よく俺たちがいて逃げなかったな」

とBに尋ねるように言った。

「うん。だってあの人優しかったから」

「そりゃあ優しいだろうよ。なんせ、自分よりひと回りも年下の男の子とデートなんだから」

「そう言うんじゃなくてね、うん。何だろう、難しいなぁ」

Bの顔に夕陽とは異なる赤みが差し始めた。初心うぶな彼のことだから、もしかして恥ずかしさで顔を赤くしているのかと、始めは思ったが、Bは唇のはしを噛んだまま歩き続け、下を向いた表情はいつまでも赤いままだった。もしや、と思った私は前を歩くAに素早く目線だけを送る。すると彼も、何やら思い詰めた、いつになく真剣な眼差しで私を見返してきて、私は無言で頷くと、うつむて静かに歩くBに

「オマエ、もしかしてあの人のことホンキで好きになった?」

私たちはしばらく街路樹の続く歩道を無言で歩いた。向かいから小学生くらいの男の子を連れた夫婦が暮れの濃い西日にさらされて通り過ぎ、その横を老年の市民ランナーが颯爽と追い抜いていった。

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