第八話 ちゅうしょく

私と彼女は駅前のグランドホテルの一階に位置する落ち着いたカフェレストランに入った。中は冷房がほど良く効いていて、窓際で会社員の男がひとりサンドイッチを食べている以外は客の姿はなかった。開け放たれた店内の奥側のテーブルに案内された私たちは、向かい合うようにしてメニューを開き、ウェイトレスが水を持ってくるまで一言も言葉を交わさなかった。

「この店は初めて?」と注文を終えた私がはじめて尋ねた時、口に水を含んでいた彼女は「そうね」とタンパクに言ってメニューを畳んだ。

「でもこのホテルには来たことがあるの」

「家族と?」

「ううん」

「友達?」

「違うわ」

「じゃあ誰と?」

「元カレよ」

動揺を隠すことができずに酸っぱいのまま下を向く私に「冗談よ」と言って唇を震わせる彼女。

「前に一度親とケンカしてね。それで家を飛び出して、このホテルに泊まったの。ひとりになりたかったのよ」

「よく周りにバレなかったな」

「この辺の人はむやみやたらと詮索しない良い人たちよ。それにわたし、見ての通り大人っぽいから」

そう言って、無邪気に腕を広げて見せる彼女の姿は確かにどこか大人びていた。風の強い日照りの夏の服装は、その年の女子に比べシックで味があり、フォーマルだがどことなく垢抜けた印象を私に与えた。網目の細やかな白いレース地の上衣に、丈の長いすみれ色のスカート、海のように煌めくイヤリングは、腰までまっすぐに伸びた黒髪にひと際よく映えて、それとは対照的なフランクで親しみやすい言葉遣いが、子供のような無邪気な一面を見せて、私には尚印象が良かった。

 若いウェイトレスが運んできたパスタは思いの外量が多かった。皿に盛られたそれを、彼女はカフェオレとともに綺麗に平らげ、私がサンドイッチの最後の一口をアイスティーで流し込む頃には、優雅にナプキンで唇を拭い、まだ食べ足りないと言った表情で再度メニューを眺めていた。そんな彼女の栗色に光る瞳を見つめているうちに、私は彼女と自然に昼食を取っていることが、たまらなく不思議に思えてくるのだった。「どうして、あの時声をかけたの」とたずねれば、たちまち彼女からまっすぐな返答がくることはわかっているのに、私の内部に潜む何ものかがそれを阻んで、別の言葉を捻りだそうとしてくるのが、私にはもどかしくてやりきれなかった。

「この後は何か用事でも?」

「ううん、別に。でも課題をやらなくちゃいけないの」

「課題?学校の?」

「違うわよ。模試の自己採点。当日にやらないと面倒くさくなっちゃうから」

「受験生なんだ」

「うん。でも留年してるから、みんなと歳がひとつ違うんだけどね」

彼女はそう言ってカフェオレを飲むと、「わたし、あなたと同じ十九よ」とあざとく睨みつけるような目で睫毛を瞬いた。

「どうしてオレの歳を知っているんだ」

「だって、さっき同じ教室にいたもん」

「教室?あの予備校にか?」

彼女は静かに頷いて「それ以外ないでしょ」とでも言いたげな表情で目を細めて笑った。私は混乱して早口に捲し立てる。

「それじゃあ君はあそこの予備校生ってことか」

「ソ・ユ・コ・ト」

唇をすぼませ、子供じみた仕草をする彼女の、その開いた眼の奥に潜む混濁した何かが、やはり私を強く引きつけていた。なるほど、私は彼女と同じ教室で試験を受けていたというわけか。だからあの時、同じ受験生として彼女は私を助けてくれたのか。私は抱いていた疑問が薄まり、安堵の息を小さくつく。駅で見かけたのだから、いつか必ず会えるとは思ってはいたが、まさかこんなにも身近に彼女がいたとは、世間は案外狭いものだな。私はしみじみそう感じて携帯を取り出すと、長針が指し示す時刻を確認する。思いの外のんびり過ごしすぎたのか、午後の試験開始まであと七分しかなかった。

「そろそろ時間だ」

「そうね」

 会計票をウェイトレスに渡し、財布を開く彼女に、助けてもらったのだからと半ば強引に拒んで料金を払い、アスファルトが砂浜のようにきらきらと光る野外へ出ると、ちょうど南に位置した太陽がビル群を照らし、反射した光が全身を熱く射した。再び携帯を取り出して時刻を確かめた私は、予備校へ続く横断歩道へ足を向けかけた時、後ろで立ち止まっていた彼女が、「じゃあ、わたしはこれで」と眩しそうに手を顔前にかかげた。

「最後まで受けるんじゃないのか?」

「ううん。だってわたし文系だもん」

そう言って申し訳なさそうにはにかむ微笑を見ていると、私は何となく口惜しいような、別れが悔やまれる感覚が急に身を襲って、なかなか予備校へ足を向ける気が起きなかった。目の前の信号が青に変われば、私は自ずと予備校へと向かわなければならない。私は熱い空気の中もじもじとためらっていた。こうしているうちにも試験時間は刻一刻と迫ってきている。猛スピードで過ぎ去って行く自動車の走行を眺め、私は時間が映画のようにゆっくりと流れればよいのにと思った。

「あのさ」

「なに?」彼女の長い睫毛が動く。私と同様に、彼女もその場から立ち去らずに暑い日の下に静止している。

「連絡先、交換しようよ」

「今?」

「うん。ほんのすぐだから」

「いいよ」

 信号機が青に変わると、頭上から聞きなじみのあるメロディが響いた。一瞬の時の静止に、心音の高鳴りが歩行者の喧騒を超えていった。ポーチから携帯を取り出した彼女は、自分の番号を先に告げ、登録を終えた私の携帯に律儀に電話を掛けてくれた。開始時刻まであと数分となかったから、事の始終は予備校までの道中に急いで行われたのだけれど、私は心地よい感覚がいつまでも身体に残り続けて仕方がなかった。予備校のエレヴェータに乗る手前まで私を送ってくれた彼女は、去り際に「がんばってね」と、そうひとこと告げて颯爽と帰っていった。私は言葉にできない感情が、疾風の如く全身を暴れまわり、感情の線をぐちゃぐちゃにして去っていくような乱調に、上昇するエレヴェータの中がぼんやりと霞んで見えなかった。天地を揺るがすような大きな衝動ではないけれど、着実に何かが進んでいくような、私の中で何かが始まろうとしている確かな手ごたえが、胸のそこを熱くさせていた。その感情が長く尾を引いて、私が午後の科目にまったく手が付かず、昂ぶりの落ち着かないままに陽の落ちたロータリーを虚しく帰ったことは言うまでもない。

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