第七話 ふたたび

例年よりやや早く梅雨の明けた空に鼠色の雲が小さく萎んでいた。水彩絵の具を垂らしたように低く霞んでいるそれらを見守るようにして、真上から光を放つ太陽は、頭上左から伸びる階上の屋根に遮られて白く散っている。その手前、採光窓の向こうに見える黄土色の鉢には、小さな葉をつけた新芽がちょこんと覗いている。先月植えたばかりのヒマワリは、果たして夏が終わるまでに咲ききることができるだろうかと、頬に右手を当てて日の当たるベランダを眺める私の机上には、未だ手つかずの問題集のプリントが真っさらのまま張り付いていた。

 四月から始まった私の浪人生活は思うように進んではいなかった。父親に自宅で浪人すること伝え、卒業後の三月から参考書を買い集めて勉強に挑んだ私の生活は、大学デビューに浮かれて単位を落とす一年生の如く自堕落そのもので一向に進んでいなかった。昼夜逆転の生活を改めるべく始めたコンビニのバイトは平日の四日、早朝から昼前の十三時までのシフトなのだけれど、仕事が終わった開放感から、バイトが終わるとすぐに遊びに出てしまう。近くのカフェテリアや図書館に寄って勉強するわけでもなく、私がいつも向かうところはというと、商店街の外れにひっそりと佇むミニシアターであった。

 以前、たまたま帰り道に裏通りを歩いていたところ、偶然見つけたのがそこだった。戦後を思わせるベージュ色の古いビルの一階に、ガラスケースと照明灯を携えて寂しく扉を開けていた。興味本位で中を覗いてみると、白髪だらけの館長らしき老人がひとり奥の席に座っている。他に客がいないようなので、ためしに一本だけ観賞しようと券を買い、狭い廊下を進んでスクリーンの部屋へ入る。教室ほどの広さの真ん中の席に腰を下ろし、戦前のアメリカで撮られたようなモノクロの映像に視線だけを向けていると、次第にとろとろと床下に吸い込まれていくような睡魔が身体を重くして、私は夢の中に放り込まれていった。その劇場のシートはやけに座り心地が良く、そのまま四時間ほど眠って、目を覚ました頃には楔形文字のような見慣れない言語がスクリーンいっぱいに流れていた。「閉館です」といつのまにか後方に座っていた館長は幽霊のように低い声でそう告げて、私は寝過ごした分の代金を払おうと財布を取り出すと、ハンチング帽を深く被った館長は皺だらけの顔に笑みを浮かべて手を振った。「お代はいらいないよ」というジェスチャーだった。帰り際に外まで出迎えて、「また来てくださいね」と後ろに手を回して丁寧にお辞儀した館長の、白髭に覆われた口元から覗く銀歯がとても印象的で、私は帰宅ラッシュに揺られる電車の中でいつまでもそれを思い出していた。

 それから私はバイトが終わると必ずその古びたシアターへ訪れては、誰が撮ったのかもわからない渋いイタリア映画や、太った探偵と醜い老女のラブロマンスを延々と鑑賞し、すっかり日の暮れて夕餉ゆうげの香り立つ補装道路をとぼとぼと駅に向かって帰るのだった。帰路の途中、単語帳を眺める予備校生らしき学生を目にすると、自分の不甲斐なさが罪悪感を伴って時おり胸を掠めたが、それでも無為な一日を過ごしているとはちっとも思わなかった。週末になるとBやAに連れられ熱海や浦安まで足を延ばし、温泉や観光地を巡って小旅行に浸った。日々工場の仕事に励んでいるBは私の帯同を悦び、何をしているのかわからないAはいつも通りはしゃいで騒いでいた。彼らといる時、私は危機感など微塵も抱かない体質になり切って、羽目を外していつまでも遊び続けた。

 そんなことを毎日続けていると、バイトで貯めた貯金は減るいっぽうで、それに続いて標準並みだった私の成績も下降の一途を辿りだした。流石にこのままではマズイと思った私は彼らからの連絡のいっさいを断ち切り、誘惑を受け付けない生活を試みようと問題集を買い集め、暫くバイトを休むことを店長に伝えると、自室に閉じ籠って机にかじりついた。閉ざされた空間で勉強をするしかない境遇に身を置けば、自然と身体が課題に向き、それに続いて実力も自然と付き始めるだろうと、安易な考えで初めてみたのはいいものの、やはり数時間と机に座ることなど高校生以来の私は、直ぐに集中力を欠いてしまい、トイレへ行くといっては何度も椅子から立ち上がり、眠気覚ましに用意してあったエナジードリンクは二時間足らずで全て飲み干して、結局夜まで集中できず、ぼうっと一日を過ごしてしまうのであった。

 課題に試みようとも気力は湧かず、身近な欲望にも打ち勝つことができない。私が自分の甘さを実感し、やはり誰かに監視されているような境遇に身を置くべきだと、外部での勉強を考え始めたのは、雨がシトシトと降りだす六月の下旬、夏の到来を思わせる紫陽花の枯葉が、まだ色身を残して辺りを彩らせている頃だった。

 私の机上には一枚のチラシが置かれていた。再生紙であろうそのコピー紙の上段に横文字で大きく『浪人生歓迎』と書かれている。どうやら駅前にある専門予備校が、どこで聞きだしたのか、私が浪人していることを知って、勧誘のチラシをポストに入れてくれたらしい。ありがたいことだ。私はその薄いコピー紙を何となく眺めながら、駅の本通りを一本逸れた商社ビルの一角にある、入口の狭い五階建ての専門予備校を思い出した。高校一年生の時、模試の会場として一度だけ使った記憶がすぐに結びついた。古いエレヴェーターに乗って三階で降りると、カウンターのようになった低い衝立ついたてが入ってすぐ右に構えられ、そこから両隣に二つ部屋が続いていた。ひとつは自習室だったから、授業で使われる部屋は三つだけなのだろう。長くから町に根付く小規模な予備校なのだが、それでも潰れずに何とか保てているらしい雰囲気が、入口にこじんまりと貼られてある薄汚い合格実績から窺えた。講師陣の顔を想い出すことはできなかったが、あのような雰囲気からして温厚篤実な職人気質の講師が殆どだろうと、あれこれ想いを馳せていると、詳細の書かれた文の真ん中あたり、所在地の記載されたマップの右上に思いがけず目が吸い寄せられていった。

『夏休み直前模試に申し込まれた方、今なら貴校の夏期講習三コマ無料』

私はチラシ手に取ってまじまじとその文字を見つめた。『夏期講習三コマ無料』という文言が、錯綜してよどみきった心の中に透き通って広がっていく。これだ、これしかない。私は世紀の大発見をしたニュートンのようにチラシを天井に掲げてそう何度も呟いていた。


 その翌々週、私は朝早くから家を出て専門予備校へと向かっていた。かばんの中には筆記用具とノート一冊、受験票と『浪人歓迎』のチラシを挟んだクリアファイルが入っている。七月初めの晴れの日は、町一帯を炊飯器のように蒸し熱くさせ、歩いて数分もしないうちに肌から汗が滑り出た。私は近くのコンビニに寄って麦茶とウィダーインゼリーを買い、熱くなった頬にゆっくりとそれを当てた。ビルの窓を反射させた太陽は先ほどよりその威力を増し、アスファルトはてらてらと鉱石のように輝いている。予備のハンカチを持っておくべきだったなと、汗の滴る前髪をハンカチで拭った私は、湿ったポケットに僅かな重みを残して大通りを過ぎた。

 大手予備校が主催している全国模試は、その系列校の他にいくつかの会場を設けていて、その専門予備校も会場に指定されているらしく、私は模試を受けるという理由で父親にお金を出してもらい、それを利用して夏休み期間の勉強場所を確保しようと考えたのだ。『夏期講習三コマ無料』という謳い《うた》文句は、その名の通り夏期講習期間の、七月上旬から八月最終日までの間に行われる授業を、三回無料で出席できるという貴校独自のキャンペーンであり、外部生はその期間に料金が発生することはなく、また強引に入会を勧められることもない。条件は『夏休み直前模試を受ける』ただそれだけなのである。

 そのため私はすぐに予備校に電話を掛けると、直前模試を受けること、キャンペーンである三コマを受講することを職員に伝え、直ぐにその日程を決めた。模試返却後の七月十七日。そして八月三日。お盆の休校期間を挟んで八月三十一日と、長い感覚を空けてコマを入れたのは、その間に自習室が無料で使えるからであった。全部屋にしっかりと空調が行き届き、わずかに聴こえる雑音が、逆に本番を想定した緊張感を身体全体に走らせる。そんな環境の中では自ずと周りの目を気にし、戦闘態勢のような集中モードに入って勉強も捗るだろうと、私は初めからこれが目的で模試に申し込んだのである。

 十五分ほど歩いて駅の周辺地域に入ると、しわひとつない紺スーツを纏った若いサラリーマンが革靴を小気味よく鳴らして足早に通り過ぎていった。その奥で、赤いランドセルを背負った少年が学帽を振り乱してスキップをしてる。風が高木を揺すぶり、重なる葉が擦れて音を出すと、突然騒々しくセミが鳴きだして、日傘を差した婦人が迷惑そうに道を逸れていく。信号を待ちながら私はもう一度ハンカチで汗を拭い、何かを心に決めたように背を逸らして身体をよじった。そうだ、オレは浪人生なのだ。そしてここが踏ん張りどころなのだ。いつまでもくすぶってはいられない。私の心の中に、もう迷いはないという思いが自然と湧き立っていき、熱い闘志に似た覚悟が全身を漲らせた。受験の天王山と呼ばれる夏休みに勢いをつけることで、後の秋冬と本格的な演習に進めることができる。そして来年の春には、絶対合格を掴み取ってやるのだと、青に変わる信号機を前にしながら、私は暑さで空気を揺らすコンクリートを強く踏んで予備校へ続く横断歩道を渡った。

 国立大受験者を対象にした全国模試は午前に文系科目、午後に理系科目を置いていて、午前最後の科目である国語を終えた学生は昼食を取るべくそれぞれが自前の弁当を出したり、近くの食堂へ行ったりと慌ただしく動いていた。教室を離れた私はすぐさま非常階段を駆け下りて外へ出た。前日寝ずに詰め込んだ世界史の当てが外れ、思うような手ごたえが掴めず、悔やむ気持ちのまま臨んだ得意科目の国語で、時間配分を大幅に間違えてしまったのだ。評論問題を解き終わった後、てっきり五十分とばかり思っていた試験時間が四十分だとわかり、焦って最後の古文をいい加減に解いてしまったのだ。

 徹夜明けの一時的な興奮は長時間持続するはずもなく、私は試験中何度も集中をそいで意識を失いかけた。それに加えて、部屋に設置された冷房は旧型なのか、一向に風向きが変わらず、真下にいる私の席だけに冷たい風が吹きおろし、私は何度腹の蠕動ぜんどうを堪えたかわからない。自律神経の不調から胃腸がきりきりと痛み、暑くもないのにダラダラと脂汗が全身を伝った。

そのため試験官が昼食の号令をかけた時、私はたまらず予備校を飛び出したのである。

 私は外の空気を胸いっぱい吸い込みたかった。張り詰めた空間に長時間居座るのは、思いの外精神が摩耗まもうしていくことを思い知らされた。私はハンカチで汗を拭い、ポケットから携帯を取り出して時刻を確認する。午後の最初の科目である英語まで、まだ時間は四十分以上あった。近くの喫茶店にでも入って心を落ち着かせようと、歩いてきた裏道から大通りに出、正面に平屋の構える一画を左に逸れた時、急に立ち眩みのような気分の悪さに見舞われ思わず立ち止まった。一時的なものだと思ったが、次第に酔いの回ったロボットみたいに、ゆらゆらと道端へ流れていき、低い植え込みの窪みに顔を向けてしばらく息を整えた。けれどゆっくりと地面に吸い込まれていくような浮遊感は、膝に手をついて必死に耐えても喉の方から込み上げてきて、私は苦しさに全身から汗を湧き立たせていた。不眠による神経衰弱と、冷房による極度の冷えで、よほど身体が応えたのだろう。私はコンクリートに濃い影を創る自分を薄ぼんやりと見つめ、息を切らしながら込み上げる痛みに必死に耐えていた。張った腹部が、針を当てられたようにチクチクと痛んで、その度に私は声にならない呻きを食いしばった歯の隙間から漏らした。

 背後を小型トラックが猛スピードで通り過ぎていく。通りに風の来る気配はなく、暑い空気だけが静かな一帯に漂っていた。何分かの激闘の末、だいぶ痛みも静まってきた頃、後ろからかぼそく女の声がする。「大丈夫ですか」と囁くような甘い声と、柔らかな指が私の背に触れると、衰弱して朦朧もうろうとした意識の中、首だけ後ろへ持っていき、背後の人物を確かめた。

 涼しい風が、汗で濡れた襟足を心地よくそよがせていた。見覚えのある瞳が、私の眼いっぱいに広がって、忘れかけていたあの時の胸騒ぎがよみがえる。雲一つない青空を背景に、逆光でかげっているにもかかわらず、上品で柔らかな輪郭がくっきり浮かび上がり、囲うようにして垂れた黒髪、灼熱の太陽に稲穂のように輝いた毛先が、風に靡いて私の鼻に甘い香りを運ぶ。心配そうにこちらを見つめる長い睫毛は、以前私が駅で見たあの少女のものに間違いなかった。

 私は自分の顔が急激に赤くなっていくのが分かった。静まった悪寒を呼び覚ますように、再び熱く離れがたい感情が全身を浸すと、湧き上がる高揚感に、これは夢ではないかと、未だ明瞭としない視線の先で夢のように少女を薄く捉えていると、少女は肩にかけた白のポーチから小さな袋を取り出して、黙って私のてのひらに乗せる。「大丈夫。副作用はないから安心して」と優しくささやく彼女の、ふっくらとした涙袋に、綺麗に並んだ睫毛が小さく動いていた。

 道路わきにしゃがみ込むようにして息を整えた私は、隣で心配そうに見守る彼女からペットボトルの水を貰い、手にした錠剤を一気に飲みこんだ。咽喉のどに流れた薬は無味無臭で、胃に落ちた途端にスッキリするような爽快が、胃にわだかまっていた圧迫感を薄めた。

「ありがとう」と私は言った。

「どういたしまして」と笑顔で答える彼女の顔は気品に満ち溢れて神々しい。双鬢そうびんから突き出た白い耳が、先をとがらせてとてもいい形をしている。いったいなぜ、彼女がここにいるのだろうかと、不意に込み上げてくる疑問も、今目の前で心配そうにこちらをのぞく彼女を見ているうちに、自然とそれが当たり前の出来事のように、その存在が安らぎをもたらしていることに気がついた。私は胸の高鳴りが抑えきれなくなって、息を整える振りをしてそっと彼女から視線を外した。

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