第9話 心臓思考
会社の照明が壊れたので、備品担当者にいって取り変えてもらう。端末一台を差し出され、サインした。
不眠症は続いている。スイッチひとつで全滅する我らがサイボーグ軍団は、今日も真面目に仕事をする。
おれの心が壊れている。おれの心の中の利己的な部分が無線接続している遠方の身体に移動してしまい、おれの心の中の利他的な部分がおれの主体的な位置の身体に残っている。サイバネ医師がおれの心を使ってどんな実験をしているのかわからない。おれの心の中心を利他的にして、おれの心を維持するのに絶対に必要である利己的な部分を遠方の身体に移動させ、おれが自我を保てるのかを試しているのだろう。
おれは遠方の身体のためにがんばるのか。それは納得がいかない。おれの主要身体から利己的な要素を排除していくサイバネ医師は、サイボーグのおれを良い従卒にしたてあげたいのだろう。
サイバネ医師が人の心の中の利己的な部分と利他的な部分を区別して切り離すことができるとは、ちょっと最先端技術をあまくみていた。
おれの他者への貢献など、職場で働いていることで充分だろう。問題は、利己的な遠方の身体だ。遠方の身体が、おれのためになる行動を選択しつづけている。おれの功績の自慢、利益を確保する交渉、対人関係の拡大などを行っている。
自分で見たことのない遠方の身体がどこで何をやっているのか心配になる。利己的な行動で敵を増やしていなければよいが。
サイバネ医師が勝手に増設した遠方の身体が、利己的行動によっておれの自我に近くなり、生身のおれの身体をもとにしている中心位置の身体が利己的行動を失っていくと、おれはおれでなくなってしまうのではないか。
身体がこの手順によって乗っ取られる可能性がある。人権意識の高いサイバネ医師を選んで身体維持を頼まないと、本当におれはどうなってしまうのかわからない。気を付けないといけない。おれの置かれている状況は危険だ。
無線でつながった身体とおれの生身の思考の統合には、時間差が発生する。おれの身体の最終決定権はおれの生身が行なっているが、おれと無線接続された身体の判断をおれが行なえない場合は、その身体の判断は機械が行う。無線接続された遠方の身体をおれは動かすことができるが、おれの身体との検討時間が足りない場合、機械が愚かに判断する。
しかし、おれは怖い。サイバネ医師が判断の最終決定機能を遠方の身体の方に移動させたら、おれはどうなってしまうというんだ。その場合、おれの生身の身体はおれのサイボーグ的身体の中で存在意義を低落して、おれはおれでなくなってしまう。
サイボーグになることがこれほど危険なことだったとは、予想していなかった。若気の至りでそのまま人生をつぶされてしまったのかもしれない。ここからおれは立ち直れるだろうか。
基本を確認しよう。優先するべきは、おれの幸せであり、おれの生存ではない。
おれの幸せのためには、通勤中に知り合った女との会話がとても重要だ。
おれは会話が下手であったため、みんながずっと喋りつづけている時に、いったい何を喋っているのかまったくわからなかった。最近、わかったのだが、どうやら、みんなは美味しい食事の話をしているらしい。おれの貧しい食生活では、美味しい食事の話はできない。
サイボーグは意識の領域の拡大とともに、それとは対立する概念だが、不随筋の心臓が動くたびにおれを幸せにする思考回路の向上を目指すべきである。心臓が脈打つたびに、無意識が考えて、おれを幸せにする行動を行いつづける。そんな心臓の完成が望ましい。
それで、人生の主体者といえるのか。そういう疑問はあるが、幸せにたどりついてしまったら、それに満足してしまう気がする。
不随筋の心臓を動かす無意識の充実は魅力的だ。考えていて、まちがえることはあまりにも多いので、不随筋が正解を選びつづけてくれればどれだけ楽か。
意識も無意識もおれの自我だ。そのどちらも成長することが望ましい。
人の意識は、無意識の成長を認識することはできないが、自分の行動が賢い支援を受けていると感じる時、おそらく、その時は無意識が賢く動いているのである。
無意識を成長させたい。
無意識を成長させる方法なんて、どんな手段で真偽を見極めればよいのかかなり不安な要素であり、怪しげな研究者が迷惑な宣伝をしてきそうな気がする分野であるが。
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