酔っていても忘れないこと

 映画は私が見たい作品を選んだ。彼女もちょうど気になっていたなんて言っていたが、あれは私に合わせてくれていただけだったのだろうか。上映中の彼女は、なんだか上の空だった。私は楽しめたが、彼女には合わなかっただろうか。


「……映画、つまらなかったですか?」


「えっ、あ、いや……えっと……ごめん。えっと……その……」


 言いにくそうに彼女は頭を掻く。別に合わなかったなら合わなかったとはっきり言ってくれて良いのだが。そう言うと彼女は映画のことじゃなくてと首を振る。そして深いため息を吐いた。


「考えごとしてて、全然集中出来なくて。映画の内容、ぜんっぜん頭に入ってこなかった。楽しみにしてたのは嘘じゃないんだよ。むしろめちゃくちゃ楽しみにしてたんだよ。ああ……葉月ちゃんが変なこと言うから……」


「私のせい……ですか?」


 何かしてしまっただろうかと自分の発言を遡ろうとすると、彼女はハッとして違うんだと全力で首を横に振る。


「い、いや! 違う! 君のせいじゃない! 私! 私が悪いんだと思う! 先に変なこと言ったのは多分、私だから……」


 なんだろう。よく分からないがこんなにも焦っている彼女は初めて見た。彼女は相変わらず揶揄ってくるけれど、度を越すようなことはされていないのだが。急にどうしたというのだろう。


「……ごめん。とりあえず、君の家行っていいかな。落ち着いて話せる場所行きたい」


「えっ……あ……はい……」


 行っていいもなにも、この後はそういう流れになるものだと思っていた。違和感を抱えながらも、彼女を連れて家に帰る。

 ソファに隣り合って座ると、彼女は私の方は見ずに気まずそうに語り始めた。


「その……月曜日の夜さ、電話したじゃんね」


「はい」


「……あの日、私、結構酒入ってまして」


 違和感の正体が近づいてきた気がする。しかし、まだ確信は持てなくて相槌を打ちながら彼女の話を聞く。


「……その。話した内容、あんまり、覚えてないんすわ」


「……話した内容を、覚えていない」


「……全くではないんだけど、ほとんど記憶にないっすねぇ……」


「……」


『日曜日、抱くから』私はこの一週間、あの夜の彼女のその一言に心を乱されながら仕事をしていた。わざわざ宣言したからには準備をしておけよということなのだろうかとか、逆に準備しすぎたらそれはそれで萎えてしまうのではとか、色々考えて、調べて、部屋の隅から隅まで掃除して、家を出る瞬間まで下着選びに悩んで——。それなのに、意識させるようなことを言った当の本人はそのことを忘れていたらしい。


「っ……なんですかそれ……! 私が……この一週間どれだけそのことを意識しながら毎日を過ごしてきたと思ってるんですか!」


 本気で申し訳なさそうな彼女の表情から、意地悪で言っているわけではないことは伝わる。だからこそ余計にムカついた。


「いやほんと、マジでごめん」


「もう良いです! 先輩の顔なんて見たくないです! 帰ってください!」


 思わず口から出てしまったが、帰ってほしくなんてない。むしろ、帰るなんてありえない。私はずっと悶々としながらこの一週間を過ごしてきたのだから。その責任はとってほしい。とはいえ、この雰囲気でそういう流れに持っていかれたらそれはそれでなんだか仕方なくされてるみたいで嫌で、触れた手を思い切り振り払ってしまう。帰ってほしい。帰らないでほしい。触れてほしい。触れないでほしい。そんな矛盾した感情でわけわからなくなっている私にどう対処したら良いか分からず固まってしまっている彼女を見ていると、怒りと悲しみと苛立ちと性欲でぐちゃぐちゃになって、衝動のままに彼女の唇を奪ってしまった。きょとんとした顔が視界に入り罪悪感が湧き上がるが、それでもまだ苛立ちが勝る。


「……先輩が、悪いんです。あんなこと言っておいて、忘れたなんて、言うから」


 だからといって、同意なくキスをするのは駄目だろう。私の良心が言うが、たまらずにもう一度。押し返そうとする彼女の腕を抑え込んで、そのままソファに押し倒す。


「葉月ちゃ……」


 謝罪も言い分もこれ以上聞きたくなくて、彼女の言葉を奪うように何度も唇を重ねる。どうしよう。止まらない。彼女を傷つけたいわけじゃないのに。止めてほしいのに、彼女はふっと抵抗をやめた。そして、とんとんと私の背中を叩く。嫌だやめてではなく、大丈夫だよと言わんばかりに。衝動のままに動いていた手が、思わず止まる。


「……なんで、止めないんですか」


「嫌じゃないから」


「……っ……私は嫌です。こんな流れでなんて……」


「……うん。だからすぐ止めるだろうなって思った」


「なんですかそれ……」


「……ごめんね。本当に思い出せないんだ。

 あの日、何言われたか教えてくれないかな」


 言わせたいから、辱めたいから忘れたふりをしているわけじゃない。分かっている。彼女は意地悪するけど、そこまでの意地悪はしない。


「——からって」


「ん?」


「に、日曜日、抱くから……って」


「……わぁお。大胆な宣言ですこと」


 他人事のように笑う彼女にまたムカついて、クッションで彼女を叩く。


「っ……ひ、人がどんな気持ちでこの一週間過ごしてきたと思ってるんですか! ほんっと最低! 先輩なんて嫌いです! 大嫌いです!」


 クッションによる攻撃を手で防御しながら、彼女は「本当に申し訳ない」と真面目な声で謝る。


「……申し訳ないと思ってるなら、責任、取ってくださいよ」


 手を止めて言うと、彼女は「言われなくてもそうするよ」と答えて、私の頭の後ろに手を回す。そのまま私の頭を引き寄せ、唇を重ねた。苛立ちが収まっていくが、このまま流されるのはなんだ悔しくて、彼女を押し返す。しかし彼女は離れるどころか近づいて「責任取れって言ったのは君だろ」と笑って、少々強引にもう一度。


「け、結局……自分がしたいだけじゃないですか」


 そんなことはない。私だってしたい。というか多分、私の方がそれを望んでいる。だけど素直になれなくて拒否してしまう。

 彼女がため息を吐く。気持ちは分かる。今の私は凄くめんどくさい。大人気ない。だけど、元はといえば、悪いのは彼女だ。


「……めんどくさくてすみません」


「良いよ。悪いのは私だ。気が済むまでわがまま言いな」


「……その余裕がムカつくんですよ」


「そうか。……うーん」


「……これ以上気を使わないでください。惨めになるから」


「使ってるつもりはないんだけどな」


 頭をかきながらそう言うと、彼女はソファから立ち上がった。そして私に手を差し伸べる。手を取ると、連れて行かれた先は寝室。彼女は私のベッドに遠慮なく座ると、おいでと私を誘う。


「結局そういう……」


「違う。寝転がってハグするだけ。ほらおいで」


 寝転がった彼女の隣に寝転がると、彼女の腕が背中に回される。本当にそれだけ。ただ抱きしめて、ぽんぽんと頭を撫でるだけ。


「好きだよ。葉月ちゃん」


「……知ってます」


「うん。大好きだよ。出会った頃からずっと」


「……知ってます」


「今日のデート、楽しみにしてた」


「それも知ってます」


「うん。デート、楽しかったね」


「……はい」


「……またしばらく会えないの、寂しいね。今日、泊まって行ってもいい?」


「……こっちは最初からそのつもりですけど」


「うん。でもほら、気が変わった可能性もあるから一応ね?」


「……先輩、月曜日に話したこと、本当に何も覚えてないんですか?」


「全くでは無いよ。急に会いたいってメッセージがきて、心配になってすぐに電話したのは覚えてる。……その先の会話はほとんど覚えてないです」


「……抱くって宣言した後、何言ったかも?」


「う……私まだなんか失言してたの?」


 失言ではない。彼女がくれたのは、気遣いの言葉だ。『当日そういう気分になれなかったら拒否してくれて全然良いからね。むしろちゃんと断ってね。私に気を使って我慢しないでほしい』という、気遣いの言葉。君が大切なんだという想いが胸が苦しくなるほど伝わる言葉。どうやらあれも、自分が何を言ったか分からなくなるほど酔っていた頭で出てきた言葉らしい。なんだそれ。どれだけ私のこと大事にしてるんだこの人。悔しくなって「先輩のそういうところ、ほんとムカつく」と溢すと「ええ!? なに!? どういうところ!? 私何言ったの!?」と、彼女は焦り始めた。その反応がおかしくて、思わず笑ってしまう。


「教えてあーげない。自力で思い出してくださーい」


「それが出来ないから聞いてんじゃん」


 そう言ってため息を吐いた後、彼女はふっと笑ってこう続けた。「まぁでも、君を傷つけるようなことは言わなかったってのは分かってホッとしたよ」と。本当に、この人はどれだけ私のことが好きなんだ。痛いほど愛情を突き刺してくる優しい眼差しから逃れるように、彼女の肩に顔を埋める。


「先輩のそういうところ、ほんとムカつく」


 もう一度そう溢すと彼女は「君のそういう素直じゃないところ、ほんと可愛いね」と揶揄うように笑って私の頭を撫でた。好きだよ。大好き。可愛い。そんな甘い言葉が、優しい手つきが、身も心も溶かしていく。顔を上げて目が合うと「ん?」と微笑んで小首を傾げる。キスしたいなんて自分から言うのも、自分からするのもなんか負けた気がして顔を逸らす。逸らした顔はすぐに正面に戻されて、彼女の顔が近づく。反射的に押し返そうが、逆に引き寄せられ「逃げないで」と囁かれ、ドッドッドッドッと心臓の鼓動が激しく鳴り響く中、彼女の唇が私の唇に重なった。一回では飽き足りず、二回、三回。そのまま押し転がされて彼女が上に乗っかる。


「せ、せんぱ……」


「……嫌? 駄目?」


「……嫌って言ったら、やめるんですか」


「君が嫌ならしないよ。君のこと、大事にしたいから」


「……とか言って、したいって、私の口から言わせたいだけでしょ」


「分かったよ。もう聞かない」


 なんて笑って、彼女はまた私の唇を奪う。キスを繰り返すうちに、だんだんと苛立ちもプライドも全部好きで塗りつぶされて、もっともっとと身体が彼女を求めてしまう。「可愛い。可愛い。葉月ちゃん可愛い」なんて、愛おしそうに囁かれたらもう抗えない。この先も私はこうやって彼女に流されながら生きていくのだろう。きっと、彼女を好きになってしまった時点で、そうなることが決まっていた。だけど後悔なんて何一つない。悔しいけれど、割れ物を扱うように丁寧に、大切に扱われて、こんなの、後悔なんて出来るはずがなかった。

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明菜と葉月の話 三郎 @sabu_saburou

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