第32話 天下を転覆させるのについてきてくれないか
「あー、こりゃすごいね」
夜隆の両手を手当てしながら、克自がしみじみと言った。
口ではそう言うものの、動揺したところはまったくない。
咥えていた
大慌ての夢之助に引きずられて海賊船に戻ってきたが、夜隆の心は落ち着いていた。凪いでいて、気持ちがいいくらいだった。
手は文字どおり焼けつく痛みだったが、夢之助が半べそで言うような、もう二度と物を握れなくなったら、とか、ふとした隙に皮膚がくっついてしまうのでは、とかというような不安はこれっぽっちも感じなかった。
両手にまとわりついていた泥のような呪いが焼き切れて、すっきりしていた。
海賊船の船長室で、床に敷いたござに座って、克自と真正面から向き合う。
克自は決して乱暴ではなかったが、火傷に薬を塗られるたびに神経に直接触れられているような痛みを覚えた。けれど夜隆は歯を食いしばって耐え、そういうものだ、と自分に言い聞かせた。
「根性見せたな」
そう言って克自が笑う。
「たいしたもんだな、大将。お前がここまで覚悟が決まったところを見せるんなら、ついていくやつも増えるだろうさ」
元鉄波党の海賊たちの一部が、夜隆が万松州に帰って月隆に目にものを見せてやるならついていく、と言っている。
気持ちは嬉しいが、少し持て余している。
見るからにならず者の彼らを連れていって、獅子浜城の連中はどう思うか。
二百年の泰平の世を築いた狩野家の家臣たちは、自らを厳しく律してきたことに誇りを持っている。
大君のすぐそばに仕える者として礼儀正しくあることを、自他に求めているのである。
今から海賊たちを武家の名門の面々に見劣りしないほど教育するのは難しい。
そんなことをしている間に翠湖州がなんとかなって月隆が次の一手に出るのではないか。
「そうでなくとも、お前は斬り込み隊長としてがんばってきたからな。肝が据わっている。度胸だ。人間度胸はあったほうがいいね。度胸を鍛えようと思って鍛えられる人間はそう多くはないから、あるだけで頭一個分抜けられる」
船長室は片づいていた。
整頓された籐の箱、ひきだしがついている実用的な文机、火事を起こさぬよう硝子瓶に入った灯籠と、なんとなく既視感のある部屋だった。
夜隆は自分の部屋をこういうふうにつくる人間を見たことがある。
少年の頃の夜隆は、よくこういう部屋に出入りしていた。
「克自」
「なんだね、改まった顔で」
「お前、武士なんだろう」
克自はそれでもなお手を止めなかった。
「お前は高度な教育を受けた武士階級の人間だ。違うか」
「どうしてそう思う?」
「天竜鳴秋が残した書状を完璧に読むことができた。大君が一個の州の当主に送る書状は一般の庶民に出すお触れとは違って凝った言葉が書かれている。お武家言葉だ」
彼はきっちりと手に包帯を巻いてくれた。白くて柔らかくて清潔な包帯は、触り心地がよかった。
「この部屋は、その道の人間の書斎に似ている。家臣たちはこういう部屋で書をたしなんで修養していた」
ふたたび煙管を手に取った。煙を吸い、吐く。白い煙がぼんやり宙に浮かんだ。
「いいものを見せてもらった礼として、海賊を始めてから今までに一度も話したことをない話を、お前らに聞かせてやろう」
彼は淡々と語り始めた。
「俺はなあ、荒浦州の当主一族、
やはり位の高い武家の名門の出身だ。
「だが海賊稼業が板についちまって、とてもじゃあないがその名前はもう名乗れないね。兄貴やおふくろに恨みはないからね。兄貴のツラに泥を塗りたくねえんだわ」
「それがどうしてこんな仕事に手を染めたんだ」
「理由は単純、貧乏だったのさ」
文字どおり荒い海風の吹きつける荒浦州を思う。塩害がひどく、海岸線では農業ができない。
「同じ三男坊のお前ならわかるだろう。三男坊なんてすることはない。ごくつぶしだ」
胸が痛い。夜隆は「そうだな」と頷いた。月隆に城を追い出されるまで、夜隆は泣き虫で甘ったれのごくつぶしであった。月隆が道を踏み外さなければ、大君になろうなどとは思わなかった。
「親父には正室のほかに四人側室がいて全員子供を産んだが、嫡男である長男のほかはまともに育てられなかった。女たちは着たきり雀で、とても名門の奥方様には見えなかった。実家から持ってきた錦の着物を売って、庭に苗を植えていた。だがそれをおおやけにできなかった。荒浦州は隙を見せたらとってかわられる世界だった」
「それで海賊になったのか」
「いや、もうちょっとあいだがある」
そこでもうひとつ、煙を吐く。
「出稼ぎに行こうと考えた。万松州か翠湖州なら仕事があるだろうと。身分を隠してな。俺が安倍家の人間だということを知られないように。何度も言うが、俺はそういう暮らしだったからと言って親父や兄貴を恨んではいなかったからね。家名に傷がつかない程度に、自分の腹を満たせて、おふくろや妹に仕送りができればよかった。ところが、俺も若くて馬鹿だったんだね。翠湖州に出たら、船乗りの募集があったわけよ」
嫌な予感がした。
「乗った船の行き先は、地獄だった。当時は止めてくれる船はなかった。合法の船も、非合法の船も、みんな俺を乗せた船を見送った」
夜隆は顔をしかめたが、克自はなおも淡々としている。
「何ヵ月も暗い船室に閉じ込められて、たどりついた先は言葉もわからない異国の地だった。翠湖州の船乗りは俺を現地人に労働力として売り払った。ところがその現地人は、良いご主人様だった。奴隷に教育を施したのさ。自分たちの事業に都合のいい教育を。それが航海術だった」
奴隷を買う人間に善人などいないに決まっている。彼らはあくまで自分にとって都合のいいように奴隷をしつけただけだろう。だが人生には悲しいことにあたりはずれがあるのも事実だ。
克自は強い男だったから、あたりをものにして逆境を乗り越えられた。
けれど、夜隆だったら、そうもいかなかったに違いない。
克自に匹敵する強さを持ち得る人間はごくごく少数派だろうから、多くの人間が夜隆のように絶望してこの世を去っていく。
あたりはずれのあたりを期待するだけの人生を、夜隆の思う葦津国の民に強いたくない。
「俺のご主人様は、現地に派遣された海軍の提督だったのさ。なんと、葦津よりずっと豊かに見えたその土地も他の国の属国だったんだ。俺は衝撃を受けたね。世の中にはずっとずっと強い人間がいて強い力が働いている。――まあとにかく、幸運の星のもとに生まれた俺は、その帝国の海軍軍人の教育を受けることに成功した。現地語もおぼえた。人間死ぬ気になればなんでもできるなあ、と思ったものだった」
ずっと黙って聞いていた夢之助が「そんなの克自しかできないよ」とこぼした。夜隆も同意見だ。
「そして、葦津行きの船に乗った。葦津に奴隷を買い付けに行くための船だった。俺は通弁兼乗組員として歓迎されて、高い給金を貰った。ところが荒浦州につく直前に、船は荒浦州の複雑な入り江に迷い込んだ挙句、嵐にあって遭難した。いやあ、悪いことをするとお天道様の怒りを買うもんなんだな」
「それで、お前は助かって荒浦州に上陸して、ということか」
「そういうことだね。それでもって貯め込んだ給金を放出して船を買ったんだ。あとは説明しなくてもわかるだろう?」
夜隆は、大きく頷いた。
「お前は、昔から、葦津の港から奴隷が売られていくことを知っていたんだな。だから、止めるための行動を」
「正義の英雄を気取るつもりはないがね。場当たり的な、応急処置だ。俺も肝っ玉の小さい男で、異国で奴隷をやって地元にも帰れない奴には天下の転覆なんてできないと思っちまったんだねえ。そのままなし崩し的に大海賊になっちまったわ」
煙管から灰になった草を灰皿に落とす。
「……なあ、克自」
静かな、落ち着いた声で克自に話し掛けた。
「俺が天下を転覆させる。それについてきてくれないか。お前こそが俺の作る新時代に必要な人間だ」
克自の目が、夜隆をしっかりと見据えている。
「今の葦津政府には葦津湾の海上を防衛する能力がない。海賊船も奴隷船も野放しだ。申し訳ないが、海賊禁止令は俺も引き継ぐ。海賊船ではない、大手を振って航行できる船が海上防衛に乗り出すべきだ」
その目は、なんとなく優しく感じた。冬隆が夜隆を見る目に似ていた。
「そこでお前の力が必要だ。葦津と異国を行き来するほどの力を持つ国で軍人としての訓練を受けたお前なら、できることがあるはずだ。ましてやお前は千人の海のならず者を統率するだけの力がある。大君が陸の王ならお前が海の王だ」
「言うねえ」
「お前なら俺と同じ方向を見てくれると信じている」
しばらく、三人とも黙っていた。夜隆は、夢之助も、克自をじっと見ていた。
どれくらい経ってからだろうか。
「俺は高いぞ」
そんな克自の言葉を聞いて、夜隆は笑った。
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