第8章 憂国

第31話 責任から逃れてきた罰であり、覚醒するための試練でもある

 ここで克自がすごいのは、早々に翠湖州からの逃亡を決意したところである。


 翠湖州の上層部は鉄波党を憎悪していて、翠湖州の庶民は鉄波党を支持している。


 この混乱の中で翠湖州にとどまり続けることを選択すれば、さらに大きな闘争に巻き込まれる。


 そう考えた克自はすぐ、ここはいったん退いて、葦津政府が鳴秋を失った翠湖州をどう扱うか様子を見てから行動する、と決めた。


 幸いのこと鉄波党は高速で移動できる船を持っているので、追いすがる民衆を置いてとんずらすることはそんなに難しいことではなかった。克自をまるで海の王かのように慕っている他の船の海賊たちも素直に解散した。


 荒浦州の定宿に戻れるほど厚顔無恥ではない。夜隆をはじめとして夢之助や克自といった元鉄波党幹部たちは、七頭諸島の港に停泊することにした。


 鉄波党の活動は終焉を迎えた。


 状況はだいぶ変わってしまったが、ころころ方針を変えるのはいいことではない。


 鳴秋が死んでも、月隆が出した海賊禁止令のお触れが撤回されたわけではないのである。


 それに、鳴秋の指示がなくては、翠湖州の貿易は合法非合法問わずしばらく停止するだろう。そうなると海賊が狩る獲物もなくなる。この先も海賊稼業で食っていくことはできない。


 それでも八割近くの乗組員たちは克自と運命をともにすると言って残った。克自は「どうしたもんかねえ」と何か思案している様子だったが、すぐに結論を出すつもりはない、とも言っていた。

 とりあえず、政府から逃げる。のらりくらりと過ごして、機を待つ。

 ちなみにしばらく食いつなげる程度の蓄えはあるそうだ。ぬかりのない奴だ。


 海賊船は港に泊まっている。船の中での寝起きもできる。


 けれど、夢之助は「温かいものが食べたい」と言って船をおりていった。浜辺で焚き火をして鍋で米を炊くというのである。確かに船上で火を使うのはよくない。


 夜隆も夢之助についていくことにした。


 狭い船の中にいたくなかったからだ。


 いくら仲間だといっても、今は誰にも話し掛けられたくなかった。ゆっくり一人で考え事をしたかった。

 一人で、と言っても目の前には焚き火の上に五徳を置いてじっと鍋を見つめている夢之助がいるわけだが、彼はもともと三郎と狩野夜隆が同一人物だったことを知っているので、いまさら根掘り葉掘りこれまでの経歴を質問しようとはしない。


 静かな夜だった。波が寄せる音と火が爆ぜる音だけが聞こえている。夢之助が時々馬込家から持ち出した火掻き棒で焚き火に空気を入れている。何も言わない。


 炎を、見つめる。


 鳴秋と結託して奴隷売買をしていたのは、月隆だった。


 道理で密貿易が取り締まられないわけだ。月隆はとっくに承認していたのである。わざわざ書状をしたためてまで、鳴秋に許可を出していたのだ。鳴秋が調子に乗るのも当然だ。


 そして、鉄波党の活動が盛んになってきたので、政府に海賊を禁止する法令を出させた。

 自分たちの貿易に邪魔な鉄波党に打撃を与えようとしていたに違いない。


 はらわたが煮えくり返る。


 止めるべき大君が、認めていた。


 民を守るべき大君が、民を売ることに加担していた。


 民を売って得た利益の分け前を、月隆はふところに入れていた。


 なぜ、と思う気持ちもなくはなかった。潔癖だった彼がそんなことをするはずがない、と思いたかった。


 だが、書状の筆跡は間違いなく月隆のものだった。しかもしっかり名前を書いている。鳴秋はさぞかし喜んだことだろう。


 全部で十三通の文書が、今、克自の部屋に保管されている。


 すべて、月隆の直筆だ。


 これを万松州に持って帰ったらどうなることか。


 家臣たちは月隆のこういう行動をどこまで把握しているのだろう。みんな共犯者だった場合、国はどうなるのだろう。


 そうだった時に、この国に存続する価値はあるか。


「あんまり思い詰めるなよ」


 夢之助が言った。


「おれがだせえことするなと言って焚きつけたのにこんなこと言うの矛盾してるかもしれないけど、今、お前の顔すげえ怖いぜ。炊き立ての米に味噌汁つけてやるから食えよ」


 夜隆はふと表情を緩めた。


 夢之助はなんにも変わらない。馬込右衛門を吊るしたまま、彼も翠湖州を離れた。


 あの時彼が馬込右衛門にとどめを刺していたらどうなっただろう。戻ってこられない修羅の道が待っていたかもしれない。


 彼はこれでよかったのだ。


 夢之助ががんばったのだから、夜隆もがんばらないといけない。


「俺」


 米の入った鍋を火からおろして、中のご飯を蒸らす。その間に味噌汁を煮込む。

 ご飯の香りも、味噌の香りも、心が和む。

 そして、奴隷船に乗せられていた時はもう二度と食べられないものだと思っていたことも思い出す。


 もう誰にも同じ思いをさせたくない。


「もうあのクソ兄貴に国を任せていられない」


 月隆には、人の心がない。


「この国を滅ぼす」

「おっ、景気がいいね。やっちまいな」


 夢之助の軽口にまた、救われた気分になる。


「でもさあ、滅ぶ国って葦津政府のことだろ? 葦津政府がなくなっても、葦津の民が一斉に消えるわけじゃないから、後先はもうちょっと考えたほうがいいぜ」

「もちろん」


 息を吸い、吐いた。


「クソ兄貴を引きずりおろして、更地にして、そこで俺が新しい大君になって、国を作り直す」

「いいんじゃない? そしたら実在の子供に手をつけた幼児趣味の変態を磔獄門にできる」

「おぼえていたか」

「一生忘れない」


 彼の黒い瞳も、なんとなく、緩んでいるように見えた。


「一生。忘れない」


 夢之助が、味噌汁が完全に煮立つ前に、焚き火から鍋をおろした。そして、火掻き棒で焚き火をひっくり返し始めた。


「――大君になるなら」


 夜隆は、手を伸ばした。


「穴が、あったほうがいい」

「穴?」

「狩野家の正統な後継者であることを証明するために。誰にも文句を言わせないようにするために」


 ためらわなかった。


 戦うためには痛みが必要であることを夜隆は学んでいた。


 これが責任から逃れてきた自分への罰であり、覚醒するための試練だ。


「呪印を、焼き切る」


 両手で、火掻き棒を、握り締めた。


 じゅう、という、肉が焼ける音とひどいにおいがした。


 熱い。

 痛い。

 強烈な痛みだ。

 冷や汗をかく。


 だがすぐに離してはだめだ。


 呪印が消えるまで皮膚を燃やし尽くすのだ。


 この入れ墨さえなければ穴を取り戻せるという確信があった。


 戦うために、何が必要か。


 夜隆は、本当は、ずっと知っていたのだ。


「夜隆!」


 夢之助が絶叫した。すぐに火掻き棒から手を離した。けれど夜隆は両手で握り絞めたまましばらく動かなかった。


 夢之助が焚き火を消すためにと用意していた桶の水を持ってくる。だが海水だ。それもまた強烈に痛いだろう。でも夜隆は構わなかった。


 もっと痛みが欲しかった。


 目が覚めるほどの痛みが。


「何してんだよ、やめろ、すぐにやめて離せ」


 夢之助が海水をかけてくる。火掻き棒がじゅうじゅうと言いながら冷めていく。


 夜隆はゆっくり手を開こうとした。

 皮膚が火掻き棒にくっついていて、なかなか剥がれなかった。

 それを夢之助が強引に引っ張ったので、皮膚はちぎれた。べり、という感触を味わいながら、両手を開いた。


 焚き火に照らされて真っ赤な肉と黒い皮膚の燃えかすが見える。

 そこに呪印はもうない。


 皮膚が完全に焼き切れたのだ。


「船に帰るぞ」


 夢之助が焦った顔と声で言う。


「船に帰れば薬とかいろいろある」

「夢之助」


 左の手の平と、右の手の平を、向かい合わせた。


 そこに、夜空よりも黒い何かがこごった。


 黒いもやのようなものはやがて宙に浮いた穴となった。


 穴から、刀が出てくる。黒い鞘に赤い組紐のついたその刀は、宝刀裂闇丸だ。唯一無二の愛刀を取り戻した。


「見ろ」


 柄を、握り締める。意識が飛びそうなほど痛い。背中や脇の下にびっしょりと汗をかいている。


 でも、これで、月隆と同じ土俵に立てる。


「これが、狩野家の昏の穴だ」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る