第19話 何もしないよりはマシだと自分に言い聞かせて

 その翌日の夕方のこと、夢之助が生善寺に駆け込んできた。

 夜隆は夕飯のために大根を刻んでいたが、ただならぬ様子に手を止め、彼のほうを向いた。


「お前、今日おりんを見たか」


 夢之助の鋭い眼光にひるみそうになるが、それこそにらまれる理由はない。夜隆は驚きつつもできる限り抑えた声で「いや」と答えた。


「そういえば、今日は見なかったな。太助の子守でもさせられているのかと思って、特に深く考えていなかったけど。何かあったのか?」


 夜隆の質問に回答することなく、勝手口からくりやを出ていこうとする。その態度がどうも自分本位の態度に見えたので、さすがの夜隆も苛立った。


「おい」


 声を掛けながら夢之助の着物の襟を後ろからつかんだ。夢之助のほうが身長も体重も夜隆よりひと回り小さいので、足が一歩分だけ宙に浮いてつんのめった。


 夢之助が背後に立つ夜隆のほうを振り返り、にらみつける。


「せめて事情を話してから行けよ」

「いちいちお前に話しているひまなんかねえんだよ」

「お前、前々からいちいち突っかかってくるけど、何なんだ? 俺、お前に何かしたか?」


 夢之助の黒い瞳が、夜隆の顔を見上げている。


「気分が悪いんだよ。俺がここに住んでいるんだから、俺が嫌ならここまで来るなよ。海賊の溜まり場はまた別にあるんだろう? そっちに行け。はっきり言って、目障りだ」


 不意に夢之助が拳を握り締め、夜隆の腹部に叩き込もうとした。反射神経には自信のある夜隆は、その拳を手で受け止め、握り締めた。強い力で押されるが、負けない。長年剣の稽古を続けてきた夜隆は、握力も鍛えられている。


「そうだ、お前は何もしていない」


 夢之助が怒りで顔を赤くしながら声を絞り出した。


「いいことも悪いことも何も。おれはそれに腹が立つ」

「どういう意味だ」

「全部そうやって黙ってやり過ごしてだらだら長生きする気か?」


 次の言葉を聞いた時、心臓が凍りつくかと思うような衝撃を受けた。


「ええ? 狩野夜隆」


 それはもう、一生名乗ることもない、呼ばれることもない名前だった。


「何も見ず。何も聞かず。何も言わず。何ひとつすることなくだらだらと生きることが狩野一族の最後の二人のうちの片方として取るべき態度なのか?」

「……どうしてそれを」

「気づいていないんだな」


 夢之助は、怒っている。


「お前にとってはその程度だったんだ」


 そこまで吐き捨てると、彼は身を引いた。夜隆の手から夢之助の拳が離れていく。


「部外者ヅラして生きていたいならそうしろよ。おれはおれの方法でみんなを守る」


 夢之助が走って出ていった。

 夜隆は体の中で臓腑がひっくり返ったかと思うほど動揺していて、そんな夢之助に何も言えなかった。


 彼は夜隆が狩野夜隆であることを知っていた。


 夜隆から名乗ったことはないのに、なぜ、どうして、どこでそれを知ったのか。


 ひょっとして、面識があったのだろうか。思い出せない。


 深呼吸を試みる。

 意識して肩をおろして、丹田たんでんに集中する。

 どうしても肩が上下してしまう。

 落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。


 考えなければならないことは、たくさんある。


 けれど、今はまず、目の前のことをひとつひとつ片づけなければならない。


 夢之助はりんを探しているようだった。


 今日は夜隆も夢之助もりんを見ていないということだ。


 りんの身の上に何かが起こったのではないだろうか。


 昨日の、夜隆に飴を手渡しながら甘えてきた姿が浮かぶ。両親は弟のことばかりでりんのことを見てくれないと言っていた。


 まさか、弟を優先する親に不満を募らせて、家出したのだろうか。


 夜隆も駆け出した。夢之助の後を追い掛けた。


 夢之助は明確な意図をもって走っていった。行く先に迷いがない。なんらかの手掛かりをつかんでいるのだろう。心当たりがあるのだ。


 一緒に探そう、と思った。そして、りんを抱き上げて、少なくとも三郎はお前を心配している、と言ってやりたかった。それが今の夜隆にできるせいいっぱいのことのような気がするのだ。




 夢之助の足取りをたどると、海についた。以前夜隆が鉄波党の連中におろされたあの砂浜だった。忘れもしない、夢之助が引導をくれてやると言って首を絞めてきたところだ。


 思えば、夢之助はあの時点ですでに夜隆が狩野夜隆であることに気づいていたのだろう。もしかしたら奴隷船でも名前を呼んでいたかもしれない。夜隆はあの時の記憶が曖昧だが、夢之助はきっと何かを言ったのだ。


 しかし、寂円も村人も夜隆の正体に気づいていないようだった。生善寺で鉄波党の人間とも会ったことが何度かあるが、彼らも何も言わなかった。夢之助は夜隆のことを周りに話していないようだ。なぜだろう。


 何もかもわからない。


 ただ、今はとにかく、りんのことだ。


 浜辺に小舟が四艘浮いていた。それを見て、夜隆はぎょっとした。


 金属音が鳴り響いている。

 小舟に乗った男たちが、刀を抜いて斬り合いをしているのである。


 四艘の舟は二艘ずつ持ち主が違うようだ。

 向かって左側の二つには鉄波党の赤い旗が翻っていて、右側の二つはどこの舟なのかわからなかった。


 少し目を遠くにやると、少し離れたところに大きな船が二隻浮かんでいる。片方はやはり鉄波党の旗をたなびかせていて、もう片方はどこの船籍かわからない。


 だが、そのもう片方の船の形状に、見覚えがあった。


 三本の帆柱に大きな帆の帆船は、あの奴隷船と同じものだった。


 男たちが斬り合いをする足元で、子供たちが泣いている。一艘につき四人の子供が乗せられていて、みんな悲鳴を上げていた。


 その状況が何を意味しているのか、夜隆はすぐに察した。


 あの奴隷船が、荒浦州の子供をさらって乗せようとしている。


 子供が売られる。


 地獄のような船底での時間が、よみがえってくる。


 動かせない体、ひどい臭気、そして全身を這いずり回る虫とねずみと絶望――


 すべてを、鮮明に思い出す。


 もう誰にも同じ思いをさせたくない。


 小舟のうちの一艘から、自分を呼ぶ声が聞こえてくる。


「三郎! たすけて! 三郎!」


 りんだ。


 あとはもう何も考えられなかった。


 波打ち際に浮かんでいた奴隷船の船乗りの死体から、刀を奪った。

 そしてその仲間であると思われる男たちに襲い掛かった。

 背中を撫で斬りにし、海に突き落とす。


 突然現れた夜隆に、鉄波党の海賊たちは驚いたようだった。

 だがそう間を置かずに笑って「そうこなくっちゃな」と言ってくれた。


 二艘の小舟から、奴隷船の船乗りを全員排除した。


 子供たちが泣き喚いている。


 血にまみれた状態のままで、夢之助が子供たちを抱き締めた。子供たちが「ゆめちゃん、ゆめちゃん」と泣きながら抱きついた。


「怖かったな。もう大丈夫。もうよそに連れていかれる心配はなくなったからな」


 海賊たちも、刀をおろした。けれどこちらはいかつい上によく知らない成人男性だからか子供たちは寄りつかない。


 夜隆も刀をおろした。そして、先ほど刀を奪った男の腰元から鞘を引っこ抜き、そこに納めた。

 武器が手に入った。それも使い勝手のいい刀が、と思うと少し安心した。


「もう泣くな」


 そう言って、夜隆はりんの頭を撫でた。


「さあ、お父ちゃんとお母ちゃんのところに帰ろう」


 ところが、それは受け入れられなかった。


「でも……」


 りんの大きな瞳が、涙で濡れている。


「りんは女の子だから、いらないの……。お父ちゃん、あの人たちからお金をもらってた。りんはきっとうられちゃったのね……」


 頭を殴られたような気分になった。


「よくある話だ」


 いつの間にか、すぐそばに夢之助が立っていた。


「葦津はそういう国なんだ」


 波打ち際は血に濡れているというのに、打ち寄せる波は静かだった。海は人間が少し争ったくらいでは何も変わらない。


「おれたちにできることは、そうして外国に出ていく奴隷たちを国内にとどめておくことだけだ。何もできないよりはマシだと自分に言い聞かせてな」


 夜隆はしばらく無言で夢之助の顔を眺めていた。夢之助もわずかな間夜隆を見つめていたが、不安がった子供たちがふたたびまとわりついてきたので、話はそこまでになった。




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