第5章 転機
第17話 景気が悪いぜ
近くの村の子供たちが、境内で遊んでいる。
夜隆は、庭に落ちてきた広葉樹の枯れ葉をほうきで掃きながら、その様子を見守っていた。
今日は十歳未満の子供が男女合わせて八人来た。稲刈りが終わって一時的に家事労働から解放されたようだ。鞠をついて楽しそうにしている。みんな晴れやかな顔をしていた。
空は秋晴れが続いており、乾燥していて過ごしやすい。
米の収穫も上々で、今年の冬は比較的安心して過ごせそうだと聞いた。
それもこれも大君になった兄月隆の徳がなせるものだ。
天は月隆の葦津八州の統治をよしとされ、民の日々の暮らしに安寧をもたらしたのだ。
やはり月隆に夜隆は必要なかったのだ。
彼は夜隆がいない世を大切にしていて、民もそれで満足して暮らしている。夜隆がすることなど何もなかった。
それでいい。
ただ、月隆はなぜ死を願うほど夜隆を憎悪していたのかは、少しだけ知りたかった。
地下牢にいた時に、忠二郎が、月隆は側室の子なので正室の子である夜隆を妬んでいる、と言っていたのはおぼえている。
だが、父は三兄弟を差別しなかったし、歴史上大君として華々しい成果を残した側室の息子は複数いて、周りもそれほど深く気にしている様子はなかった。
まして月隆は学問が優秀だったので、雲隆の補佐役として将来を嘱望されていたのだ。
ひょっとして、夜隆個人が何か悪いことをしてしまったのだろうか。記憶にない。しかしそもそも記憶に残らないほど鈍感であるのが悪かったのか。
問い掛ける機会はもうない。
狩野夜隆は七頭諸島で死んだ。今ここにいるのは三郎と名乗る流れ者で、獅子浜城にいる大君にまみえることなど絶対にない。
だから、考えても無駄だ。これは永遠に答えが見つからない疑問だ。
月隆にも、雲隆のように、笑ってほしかった。
もう永遠に叶わぬ願いだ。
三郎は毎朝寺の床を雑巾で拭き掃除をして、米を炊き、味噌汁を煮込んでいるだけの男だ。
寂円に付き従って村の法要に参加することもあるが、ただの付き人であり、本物の僧侶ではないので、経典を読むことはできない。
子守もうまくできない。城では末っ子で周りを固める従者たちもほとんどが年上、年下の小姓たちもすでに行儀作法のできているしっかり者ばかりだったので、行儀見習いをしたことのない村の幼児たち相手では何をしたらいいのかわからないのである。今も子供たちが危ないことをしないように見張っているだけだ。
情けないことこの上ない。
寂円は、夜隆がもともとは身分の高い人間であったことを所作などから察しているようだった。
読み書きができるなら子供たちに教えてくれないか、と言われたことがある。
しかし、夜隆はできないふりをした。
自分が武士階級の生まれであることすら知られたくなかった。
七頭諸島に流された罪人であることは明かしていたが、何の罪であるのかも言ったことはない。
そして、寂円もむりやり聞き出そうとはしない。
「拙僧の師は、悪人も救われるべきであると説いていましたよ」
寂円はそう言って手を合わせ、経典のまじないを唱えた。それだけだった。
救われるべき悪人か。
いったい、何の罪でここまで落ちたのか。
月隆の気分を害した罪か。
子供たちが騒ぎ出した。我に返って顔を上げると、色の白い、美しい少年が境内に入ってきたところだった。
夢之助だ。
彼は今日も男物の長着の上に女物の小袖を羽織っている。長い黒髪が歩くたびに揺れた。
「ゆめちゃん、あそんで! りん、ゆめちゃんとあそびたい!」
「おえいも! おえいもゆめちゃんがいい!」
「わかった、わかった。ちょっと待ちな」
夢之助は村の子供たちに大人気だ。どうやら鉄波党が全体的に荒浦州で人気があるようだが、夢之助は中でも絶大な人気を誇っている。
荒浦州では、鉄波党は義賊として称賛されていることが、次第にわかってきた。
彼らは、大きな帆を持つ不審な船を襲っては、近隣の村々に分け前を与えているようなのである。
政府側の人間だった夜隆からしたら海賊行為など言語道断の行いだったが、荒浦州では海の男と言ったら義を背負った悪の鉄波党なのだ。
鉄波党は荒浦州の南端の入江を本拠地にしており、昼間に獲物を狩っては毎晩どこかの集落に寝泊まりしている。
夢之助は生善寺にゆかりがあって寂円になついているので、ここに顔を出すことが多い。
寂円は彼に寺で泊まって三郎の相手をしなさいと言っているようだが、それは基本的に無視だ。
今日の夢之助は着物をたくさん抱えていた。いずれも絹だろう。豪華な刺繍や粋な染めがあるものも交じっている。
縁側に座って、床に着物を広げる。子供たちがきらびやかな着物を眺めて「わあ……」と感嘆の息を吐いた。
「なんだ、それ。またどこかの船を襲って持ち出してきたのか?」
「当たり前だろ」
夢之助と夜隆の感覚はなかなか嚙み合わない。
「ほら、子供たち、好きなのを持っていきな」
少女が目を輝かせて「いいの?」と問い掛ける。
「こんなきれいなおべべ、はじめてきる」
夢之助が彼女の頭を撫でながら苦笑した。
「大人になって丈が合うまで大事に保管しておきな。……と言いたいところなんだけど、世の中どうもそういうわけにはいかない」
「ええ、どういうこと?」
「お父さんかお母さんに頼んで、すぐに金に換えてもらうんだ。それで今の自分の背に合った着物を買って、できるだけ米を買い戻して、残りを貯めておくんだぞ」
「どうして?」
「悪い大人が取りに来るからさ。そろそろ年貢の取り立てでお役人が来るだろ? それまでにとっとと片づけておかないと、取り上げられるかもしれない」
夜隆はほうきを持ったまま夢之助に近づいた。彼の隣に腰をおろす。
「一着や二着夢を持たせてやってもいいんじゃないのか」
「だから、悪い役人が来てつべこべ言われて取り上げられるんだって言ってるだろ」
「普段どおり年貢を納めていればそこまでつべこべ言われないだろう」
「ところが、今年から嫌なお触れが出てね」
お触れ、という言葉を聞いて、夜隆は少し戸惑った。月隆が新しい法令を作ったのだろうか。
夢之助が「やれやれ」と背筋を伸ばす。
「庶民は綿か麻しか着るな、だと」
驚きの倹約令だった。
「武士でも政府の許可がないとそれなりの着物を着られないらしいぜ。けちな世の中になったね」
「そんなことをしたら織物職人の仕事がなくなる。民もたまの贅沢を楽しみに貯蓄をしているのに、その望みも奪うと言うのか」
「おれに聞くなよ。お触れを出したのは狩野月隆なんだから、奴に聞けよ」
夜隆は息を詰まらせた。
「目安箱に投書でもすれば? 街では目安箱が撤去されてるらしいという噂だけどな」
それも驚きの展開だった。冬隆も雲隆も、広く民衆の意見を吸い上げることのできる目安箱を大切にしていた。月隆は撤去しようとしているのか。なぜだろう。民衆の意見などいらないということだろうか。
「役人に没収される前に値打ちをわかってくれる異国に持ち込もうとしている船がたくさんいる」
それでは異国に葦津の伝統の衣装を流出させてしまう。
「もうちょっと詳しく聞かせてくれ」
「自分で調べな」
その情報源が夢之助しかないのだ。村の噂話はあてにならない上に出所は海賊であることがほとんどである。寂円も村の上役と情報交換をしているらしいが、鉄波党より早くて正確な話を入手できたことはない。
「おい、夢之助、頼むから。このとおりだ」
頭を下げたら、「きもちわる」と言われてしまった。
「自分でどうにかしろよ。いちいちおれに頼るんじゃねえ」
そう言うと、夢之助は子供たちに豪奢な着物を配り始めた。子供たちはご機嫌で夢之助に群がり、一枚、また一枚と着物を持って帰った。
配り終えると、夢之助はさっさと腰を上げて立ち去ろうとした。
「月隆が大君になってから景気が悪いぜ」
彼は一言そう吐き捨てて、寺を出ていった。
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