第16話 正しい人、寂円
夜隆が思っていたより時間は進んでいて、もう昼ご飯の時間だと言われた。
与えられた作務衣に着替えた後、すぐに夜隆、夢之助、そして寂円の三人で昼ご飯を食べることになった。献立は昨夜とほぼ同じだったが、夜隆の粥は昨夜より少し米の粒を保っていた。
食事をしながら、寂円はこの寺の由緒と寂円自身の経歴を語ってくれた。
この生善寺という寺は、古くから荒浦州の南端の村の人々を檀家とする寺だ。
それなりに歴史はあるが、小さな農村に支えられて成り立っているため、そんなに裕福ではない。
そもそも荒浦州自体が葦津八州で一番貧しいと言われている州なので、荒浦州で豊かな生活をしている人は少ないだろう。
とはいえ、寂円は基本的に村人のお布施で暮らしていて、古米の備蓄がある。それで時々親を亡くした子供を養っているそうだ。
寂円も荒浦州のある漁村の出身で、口減らしのためにその出身地の村にある寺に入れられたそうだが、若くしてその道の教えに目覚め、十六歳の時に万松州のある
そこで数年修業を積み、師である高僧の仲介で生善寺の存在を知って、跡取りになるために引っ越してきた。
先の住職が亡くなった七年前に正式にいろんなものを継承して、三十五歳の現在に至る。
そんな長話を聞きながら、夜隆は、寂円は誠実な人だ、と思った。
自分の来歴を語ることによって、夜隆に自分が怪しい者ではないということを説明しようとしている。
しかも、寂円が修業を積んだという古刹は、偶然にも狩野家にゆかりのある寺だった。夜隆は親近感を覚えた。それなら不審なところはない気がする。
寂円はまず自分のことを話した。いきなり夜隆の話を根掘り葉掘り聞くつもりはないらしい。
それもまたありがたかった。
夜隆には事情を説明することができない。
こんな頭にこんな手であんな恰好では怪しいことこの上なかっただろう。
だが、寂円はひとまず自分が夜隆を受け入れていることを表明してくれた。
食事を完全に片づけてから、寂円は夜隆と夢之助を連れて寺の本堂に移動した。本尊に手を合わせて、午後のお勤めだそうである。
夜隆と夢之助は何もせずに寂円が読経するのを聞いていただけだったが、低い声が歌うように一定の拍を刻んで経典の文句を唱えるのを聞いているのは、心地が良かった。子供の頃は不気味にも思っていたというのに、すべてを失った今聞いていると、声や楽器の音が身に染み入るようである。
夜隆には意味の切れ目がさっぱりわからない呪文だったが、途中で音楽が静かになってきたので、終わりを悟った。案の定寂円は経典を読むのをやめて合掌し、礼をした。
そして振り向き、寂円の後ろで正座をしていた夜隆に、向かい合った。
伸びた背筋、穏やかな笑み、落ち着いた声は、信頼できる人のように見えた。
「あなたの名は何といいますか」
とうとう問われた。
ここで本名を名乗ったら、何が起こるかわからない。
寂円がどれほど正しい人であっても、世の中には悪党がごまんといる。不本意な形で暴露されてしまうかもしれない。それに、ここには夢之助もいる。夢之助は海賊だ。夜隆を売ることくらいなんとも思わないかもしれない。
積極的に生きたいとは思っていなかった。
だが、痛いのや苦しいのはもう嫌だ。
そうして押し黙った夜隆に、寂円が言う。
「何と呼べばいいのか教えていただければ結構ですよ」
事情があることはわかってくれているのだろう。とことん優しい人だ。
少し悩んだ末に、夜隆はこう答えた。
「
実際に子供の頃は通名としてそう呼ばれていた。元服した時に父から夜隆という名を授かるまでは、確かに三郎と名乗っていたのだ。だから嘘ではない。平民にもよくいる単純な名前なので、変に勘繰られることもないだろう。
「わかりました。では、三郎」
寂円は相変わらず微笑んでいる。
「お前、三男なんだな」
そう言われて、隣にいる夢之助のほうを見た。彼は少しいたずらそうな、邪悪な雰囲気で笑っていた。
「お前の兄貴たち、お前がいなくなって今頃せいせいしてるかもな」
頭の中に雲隆と月隆の顔が浮かんだ。
奴隷船にいた時にはまったく思い出せなかった顔だ。
温かい食事をし、清潔な服を着、十分な睡眠を得て、ようやく思い出せた顔だった。
記憶の中の雲隆は優しく笑っている。小さい頃は頭を撫でたり肩を抱いたりしてくれた。非の打ち所がない兄だった。今思えば、夜隆には贅沢なくらいの兄だった。
月隆はどうだろう。
彼は、夜隆から名前まで奪った。
こっちは、夜隆がいなくなって、きっとせいせいしている。
感情があっちからもこっちからも噴き出す。雲隆を失った悲しみと月隆に裏切られた怒りが腹の中でごちゃ混ぜになる。
「お前に何がわかる」
苛立ちを隠さずに言うと、夢之助がこう答えた。
「何をしでかしてあんな船に乗せられたのか知らないけど、お前が歯向かうのでも耐えるのでもなくへろへろして死にたい死にたいって言ってるのを知ったら、家族は家の恥だと感じると思うね」
腹の奥がかっとなった。思わず立ち上がって夢之助の胸倉をつかんだ。夢之助は動揺することなくゆがんだ笑みを見せて、「おっ、やるか」と言った。寂円が「こら」と叱ろうとするが、侮辱してきた夢之助への怒りは収まらない。
ここ数日弱っていたので体力がなくなっているのではないかと思ったが、夢之助の体を引きずる程度には残っていた。
夢之助の体はやはり男性のもので思っていたよりは重いものの、それでも年下で細身の少年である。ずるずると夜隆のほうに近づいてきて、顔面と顔面の距離が短くなった。
「兄上はそんなことは言わない」
この時に想定した兄はもちろん雲隆のほうだ。あんなに心優しく思いやりのある長兄が夜隆にそんな言葉を投げつけるわけがなかった。彼はきっとあの世で心配してくれているだろう。だが夜隆のほうが彼に会わせる顔がないようにも思う。
本当は夢之助の言うとおりなのだ。
夜隆は狩野家にとって恥だ。
こんなふうにだらだらと生きていることを、他の誰でもなく夜隆自身が、恥ずかしいと思っていた。
潔く死んだほうがよほど世のため人のため、何より月隆のためではないのか。
「お前なんかに何がわかるんだよ、クソガキが」
怒りを夢之助に転嫁しているのもわかっていた。夢之助は何も悪いことをしていない。それでも腹が立った。事実の指摘は腹が立つことなのだ。
夜隆がそうすごんでも、夢之助は動じない。
「逆に聞くけど、わからないと思ってるの? そんなにおれのことナメてる?」
平静な表情にいらついて、彼の言葉が耳に入ってこない。
拳を振り上げた。
その手首を、寂円がつかんだ。思いのほか強い力で、それこそ弱っている今の夜隆の腕力では振り払えなかった。
「喧嘩はよしなさい。しかもこんなところで。ご本尊があなたたちを見ていますよ」
そう言われて、なんとなく祭壇のほうを見た。
そこに安置されている像と目が合った気がした。
夜隆は毒気を抜かれて拳をおろした。夢之助が襟元を整える。
「じゃあな。しおしおしてろよ」
立ち上がった夢之助の背中に、寂円がこう投げ掛けた。
「克自にしばらく生善寺にいると言ってきなさい。お前はしばらくここで寝泊まりするのですよ」
「なんでよ」
「三郎をしばらくここにとどめ置きますから、仲良くなるまでは許しません。これも何かのご縁です。きちんとやり取りできるようになりなさい。これも修行ですよ」
「修行なんてしねえよ。寺を継ぐわけじゃないんだし。ていうか俺は今鉄波党の上乗りなんだってば」
「危険なことはやめなさいと言っているでしょう」
寂円の話を聞かずに、夢之助は出ていった。寂円が「ああ、もう」と溜息をつく。
「あいつ、何様なんだ」
夜隆がそうこぼすと、寂円が答える。
「翠湖州から流れてきた孤児なのです。三年前に数ヵ月ここで暮らしていたのですが、諸事情あって、出ていってしまいました」
「へえ……」
「あの子もあの子なりに自分の過去と向き合って気持ちに決着をつけてほしいのですが、なかなか言うことを聞いてくれませんね。それだけ心の傷が深いということなのかもしれないので、あまり急かしても可哀想かと思うのですが、ねえ」
寂円が「やれやれ」と言って本堂から出ていこうとする。
「さあ、三郎。炊事を手伝ってくれませんか。夕飯の仕込みをして、風呂に入りましょう」
夜隆は一瞬どうしたものかと悩んだ。
「俺、そういうことは何もできないんだけど……」
今になって、城の奥で大事に育てられてきたことが恥ずかしくなってきた。生活能力というものがまるでない。ここに置いてもらえることになったらしいが、このままではただ飯喰らいになってしまう。
寂円がまた、ふと笑った。
「教えてさしあげますよ。夢之助に笑われないように、勉強してくださいね」
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