第15話 人間として尊重されるということ

 連れていかれた先は、門に大きく生善寺しょうぜんじと書かれた、こぢんまりとした寺だった。

 小さな寺だが、手入れは行き届いていて、寺の玄関と門をつなぐ前庭には庭石も植え込みもある。

 ここが寂円の活動拠点兼住まいらしい。


 寂円は、色褪せた浴衣を持ってきて夜隆に着せてから、寺の庫裏くりの床に座らせた。


 そして、菜っ葉の入った粥と豆腐、大根の漬物と水を出した。


「食べなさい」


 目の前の膳に置かれた料理を見る。

 欠けたところのない茶碗と小皿に、食べ物が入っている。


「ゆっくり食べなさい。その様子ですと食事を取れていないのでしょうから、まずは食べましょう。その間に、拙僧は湯を沸かして寝間着を取ってきますから」


 そして、夜隆の向かいでずっとおとなしくしている夢之助のほうを見る。


「お前もです。お前もお腹を空かせているからいらいらしているのでしょう。それではなんにもいいことはありませんよ」


 夢之助の前に置かれているのは、白い米とごまを振った菜っ葉のおひたし、それから夜隆の前に置かれたのと同じ豆腐と漬物だ。


「彼を見ていてください。決して悪さはしないように。拙僧はすぐ戻ってきますからね。拙僧が戻ってくるまでに万が一のことがあれば、拙僧にも考えがあります」


 夢之助は「はあい」と子供っぽい返事をした。


 二人はしばらく無言で何もせずに座っていた。


 夜隆は、自分の前にある膳を見て、ぼんやりしていた。

 自分などがこういう普通の食事を取っていいのかと、逡巡した。

 本当に普通の食事なのかといぶかりもした。

 毒の類は入っていないだろうか。

 僧侶といえども葦津の民なら、夜隆に死んでほしいかもしれなかった。


「食えよ」


 夢之助が、箸を取った。


「寂円様が食えと言ったら食うんだよ。寂円様はいい人だから、何もしねえよ」


 いい人、善良な人、そんなものが本当にこの世に実在するのだろうか。


 夢之助が食事を始める。


 漬物のこりこりとした音がする。


 お腹が空いた。


 死んだら死んだでいいではないか。たらふく食べてそれで死ねるのであれば、本望ではないか。

 たとえ騙されていたとしても、これ以上失うものはない。

 満腹の状態で息絶えるのも、それはそれでありなのではないか。


 夜隆も匙を取った。


 震える手で粥をすくう。


 口に運ぶ。


 食べられるものの味がした。米の味だ。


 自分は今、米を食べている。


 涙があふれてきた。


 米を食べさせてもらった。


 生きている、と思った。


 自分は今ものを食べている。

 子供の頃からずっと食べてきたものと同じ味のものを口にしている。


 これが人間だ。人間として、生きるために必要なものを摂取している。


 時々浴衣の袖で涙をぬぐいながら、食事を続けた。豆腐の滑らかでひんやりとした触感、漬物の塩辛い味と歯応え、何もかもがなつかしい。


 食べながら泣いている夜隆に対して、夢之助は何も言わなかった。

 無言で平らげた後、しばらくじっと夜隆を見ていた。


 夜隆が食べ終わると、夢之助が二人分の膳を持って土間におりていった。洗い物を始める。勝手を知っているらしい。


 夜隆はそれ以上のことを深く考えようとはしなかった。考えられなかった。今はただ満腹感に耽溺していたかった。


 そのうち寂円が帰ってきて、夜隆を湯殿に導いた。


 軽く体に湯をかけてから浴槽に浸かったのだが、浴槽に張られていた湯はあっと言う間に茶色く濁った。次第に鼻が麻痺してきていたので忘れていたが、自分は汚物にまみれてぐちゃぐちゃだった。寂円はよくこの状態の人間を自分の住まいに招き入れたものだ。


 ありがたい話だ。


 いまさらになって、自分が座っていたところも汚れていたのではないか、ということに思い至った。今頃掃除しているかもしれない。申し訳ない。


 ありがたい、とか、申し訳ない、とか、相手がいなければ湧いてこない感情が、次々と胸の中に去来する。


 湯を手ですくって顔を洗う。


 格子状の窓から湯気が出ていく。


 外には星が満天に輝いていた。それが妙に美しく感じられた。


 湯殿から出ると、手ぬぐいと新しい浴衣が用意されていた。

 手ぬぐいで体を拭き、浴衣に袖を通した。

 幸か不幸か、髪は短くなったために乾かすのは簡単だった。何事も一長一短だ。


 浴衣に帯を締めていると、寂円が顔を出した。


「さあ、今日はもう寝ましょう。布団を敷きましたよ」


 至れり尽くせりのことに、夜隆はもう何も疑わずに頷いた。


 布団は少し硬かったが、直接床に寝なくてもいい、というだけで、生活水準は格段に上がっている。手を拘束するものもない。寝返りを打つことも許される。


 このまま目が覚めなくてもいい、と思った。


 もしかしたら天の神が夜隆に死に際ぐらいはいい思いをしてもいいという思し召しでこういう計らいをしてくれたのかもしれない。それに、明日以降また地獄のような日々が待っていないとも限らない。


 目覚めませんように、目覚めませんように、と祈りながら横になっていると、すぐに意識が落ちた。湯に浸かって体が温まり、ほぐれたことで、眠りはたいへん深かった。






 気がついたら、朝になっていた。障子の向こう側が明るい。気温も少し上がっている。


 夜隆は、掛け布団を抱き締めたまま、しばらく無の状態で転がっていた。


 何も思いつかない。


 寝る前に支配されていた甘い死の誘惑もどこかに消えていた。今はただ、このまま寝ていたい、とだけ思った。布製の布団、清潔な浴衣、何もかもが体になじんで、溶けていきそうだった。転がっているのがたいへん心地よかった。何も考えられなかった。ただ永遠にこのままでいたいということだけを感じていた。


 ところが、そのうち縁側から誰かが歩いてくるかすかな足音が聞こえてきた。


 障子に影が映った。


 静かに、ゆっくりと障子が開いていく。こちらの様子を窺うように、おそるおそる、という言葉が似合う速度で障子が動いていく。


 障子がある程度開くと、そこから夢之助が顔を出し、こちらを覗き込んできた。


 目が合った。


「なんだ、起きてるのかよ」


 夜隆の目が開いていることを確認したら、今度は音を立てて障子を大きく開けた。


 今日は例の小袖は羽織っておらず、平民の成人男性としてそんなに違和感のない恰好だ。ただ、高く結い上げた長く美しい黒髪と滑らかな白い肌のせいで、男装の麗人に見えなくもない。


 畳を踏んで、部屋の中に入ってくる。夜隆から掛け布団を剥ぎ取る。


「もう昼だぞ。起きて寂円様に今までのことを話しなよ」


 敷き布団の上に座ったまま、夜隆は動けなかった。何も考えられなかった。頭がぼんやりしている。寝過ぎたせいだろう。特に身体的な不具合が発生している様子ではない。


 夢之助を見上げる。


「……厠」


 夢之助が見下ろしている。


「用を足したいんだけど」

「ここを出て左の奥」


 彼は何の気なしに説明したつもりのようだった。けれど、夜隆はそれが嬉しかった。自分の都合で便所に行ってもいい、というのが本当に人間的だった。


 もう垂れ流す羞恥心や不快感に打ちのめされなくてもいい。


 あまりにも、この上なく、人間として尊重されている。


 布団から立ち上がって、部屋を出た。左の奥を目指す。


 ふと、縁側から庭のほうを見る。

 池の水面で日の光が輝いている。

 空を見上げると、頭上高くに太陽が見えた。秋の太陽はまだ強さを残している。葦津の土地にはしばらく秋晴れの日々が続く。


 自由に空を見上げられるということが、幸福なことのように思えた。



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