第4章 生善寺

第13話 全速前進、目的地は荒浦州

 次に夜隆が意識を取り戻したのは、水をかけられた時だった。


 残暑の中、ほんのりぬるい水は気持ちがよかった。まして自分は糞尿にまみれて汚れ切っていたので、体が少し軽くなったような気さえした。


 もう異国について市場に並ばされる時間になったのだろうか。


 うっすら目を開けると、そこには抜けるように青い空があった。雲ひとつない快晴はそれでも真夏の灼熱の太陽とは少し違って乾燥しており、秋が近づいてきているのを感じさせられた。


「気がついたか」


 不意に視界が暗くなった。複数の人間が顔を覗き込んできたのだ。


 夜隆は床にあおむけになっている。

 その夜隆の目線から空を遮るような形で、何人かの男たちが夜隆を見下ろしている。


 いずれも人相の悪い男たちだった。伸び放題の髪は適当にくくり、耳たぶには大きな耳飾りをつけ、首にも輝く石を連ねて作った首飾りをさげている。服装もばらばらだが、誰も彼も上品とは言いがたい。そしてみんな一様に鋭い眼光をしている。


「お前さんも移動しな」


 男の一人が屈んで夜隆の顔に顔を近づけた。


「今から荒浦州に連れていってやるから、あとは自力でどこかに逃げるんだぞ」


 何を言われているのか、よくわからなかった。耳に入ってくる音声が、意味のある言葉として理解できなかった。あまりにも罵詈雑言を浴びせられ続けて、音を受容する器官が麻痺してしまったのだろうか。


「だめだこいつ」


 屈んでいた男が立ち上がる。


 別の角度から別の男が顔を覗き込んできた。肩を超えるほど長い、毛先が傷んでほうぼうを向いている、赤い髪を首の後ろでひとつに束ねた男だった。耳には大きな輪がぶらさがっている。赤い地に黒い染めが入った着物を着ていて、街を歩いていたらさぞかし悪目立ちしそうな男である。筋骨隆々とした肩や無精ひげ、太い眉が男臭かった。


「起きな、若造」


 彼は低い声で、でもどこか柔らかい音調で言った。


「お前らが乗せられていたあの船はもう岸で解体されてる。俺たちの船は葦津湾の内海に向かってる」


 どうやら夢かうつつかのはざまをさまよっている間に船を乗り換えさせられていたらしい。先ほどまでとは違う船にいるようだ。


 しかし夜隆は自分からどんな船に移動したのか確認しようとはしなかった。どうでもよかった。どちらにしても船というものは自分を地獄に連れていく乗り物なのだ。


「それとも、俺たちのこの船にいるかい」


 男が唇の端を持ち上げる。


「それはそれで愉快な船上生活が待っているぞ。毎日血を血で洗う愉快な暮らしだ。正確には血を潮水で洗ってる。母なる海は血も涙も全部飲み込んでくれる」


 男の胸を飾る動物の骨を連ねた首飾りが、こつこつと鳴った。


「ようこそ、鉄波党の船へ」


 この船は、海賊船なのだ。海賊船が奴隷船を襲って積み荷を奪ったのだ。そしてその積み荷というのは主に自分たち奴隷である。ただ、幸か不幸か、この海賊たちは自分を転売する気はないらしい。


 夜隆はしばらく男の顔を見ていた。男は薄く笑っていた。だが夜隆をぶったり蹴ったりはしない気配だった。今の夜隆にとっては、それで十分だった。


 死にたい、でも痛いのや苦しいのは嫌だ。できるだけ楽に、できるだけ早く、意識を失いたかった。


 海賊でも何でもいい。むしろ、海賊のような無法の存在なら、すぐ殺してくれるような気がした。


 目を閉じようとした。


 そのまぶたがおりる直前、男の背後から一人の美しい人間が顔を出した。最初は天女かと思ったが、はだけた着物の胸は平らで、喉には突起がある。


「投げ捨てちまいな」


 女にしては低く男にしては高い声は、まだ少年だからだろう。


「手足が四本揃ってる若者が一言も断りを入れずにいつまでもごろごろ寝てるんだと思うと反吐が出るね」


 目の前にしゃがみ込んでいた男が、少年のほうを向いて「おいおい」とからかうように言う。


「克自はちょっと優しすぎるんじゃないの」

「どうした、夢之助。さっきからなんだかご機嫌斜めじゃねえの」


 どうやら赤毛の男のほうが克自という名で、天女もとい少年のほうは夢之助というらしい。


 夢之助も夜隆のすぐそばにしゃがみ込んだ。夢之助の後頭部でひとつにまとめた長くて綺麗な黒髪が降ってくる。まるで絹糸に漆を塗ったかのようだ。


「どうしても死にたいなら、おれが殺してやろうか」


 そういえば、奴隷船の中でも、彼が話し掛けてきていたような気がする。ぼんやりとした意識の中で何か言われたような記憶があるが、気のせいかもしれない。彼の白く滑らかな頬を見て、あの世から迎えが来た、と思ったのだけをおぼえている。自分は彼に死にたいと訴えたのだろうか。


 夜隆は口を開いた。


「頼む」


 夢之助はわずかの間夜隆の顔を見ていたが、ややあってすぐそばにいた克自の胸にしなだれかかった。猫のようなその仕草も、彼のように美しい少年がすると様になった。克自が「よしよし」と言いながらむくれた夢之助の背中を撫でる。


「こいつはどうにもなりそうにねえな。とりあえず運ぶだけ運んで、どこかにおろしていくか」


 そう言いながら、克自が立ち上がった。


「俺たちも慈善事業じゃねえからな。可哀想だけど、人間は食料にはしづらいから船に乗せておけない。相当煮込まないと食えたもんじゃないんだわ」


 夢之助も一緒に立ち上がる。


「次の浜はあとどれくらいだ」


 克自がそう言うと、どこからともなく出てきた男が「あと半刻ほどです」と告げた。丁寧な言葉遣いをしている。克自はこの船の中では地位のある男なのだろう。


「どうにもならない奴らはそこに並べておくかね。物好きが拾いに来るだろ」


 どこかの浜辺に置き去りにされるらしい。七ノ島におろされた時のことを思い出した。あの時のままならなさを思うとやはりとどめを刺してほしいが、今の夜隆は声を出すことすら億劫だった。


「全速前進」


 そんな克自の言葉に、海賊たちが「おう」と返事をした。


 克自が歩き出すと、夢之助もその後ろについていこうとした。一瞬だけちらりと夜隆のほうを振り返ったが、彼は冷たい目で夜隆を見下ろしただけで、特に何も言わずに去っていった。



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