第11話 このまま二度と意識が戻りませんように

 三ノ島から連れてこられた人々は全員、手に鎖をかけられて船底に連れていかれることになった。


 甲板の床についている戸板を開ける。


 三ノ島の人々は暗い地下階に恐れをなして立ち止まったが、船乗りたちが鞭を持ってきて打ち始めたので、誰も逆らえなかった。


 鎖を引っ張られながら、おそるおそる階段をおりていく。

 夜隆もその列の最後尾をよろけながら続いた。


 この船の底は二重構造になっているようだ。

 ひとつ階段をおりたところには木箱や壺などが並べられていた。側板に窓がついていて、外の空気を取り入れられるようになっている。

 とはいえ時刻はすでに夕方になっている。差し入る太陽の光の角度は低い。


 船乗りたちが鞭で床を鳴らして威嚇しながら怒鳴った。


「お前ら、服を脱げ!」


 鞭がしなるたびに人々が震えて身を寄せ合う。


 誰かが「何のために」と問い掛けると、男たちが「決まってるだろう」と答えた。


「布を売るためだ。お前らは布を身につけるのももったいない」


 みんな擦り切れてつぎはぎのある服を着ているのに、それでも売るというのか。


「言うことを聞け!」


 何もしていないのに、たまたま近くにいただけの老女が鞭で打たれた。

 彼女は「ひい」と悲鳴を上げながらうずくまり、震える手で帯を解いた。

 それを見て、他の人々もこわごわと動き出した。


 しかし、夜隆だけは従わなかった。


 服を着ていることが人間らしさの証であるような気がしたからだ。


 そんなことまで奪われてはたまらないと、なんとか声を上げた。


「こんなの、何の価値もないだろう」


 自分が着ているのは囚人服だ。質に入れても金にならない。というよりまず、普通の質屋は断るだろう。


 ところが、鞭を持った男はこう答えた。


「油をつけて松明にするくらいのことはできる」


 尊厳と体温を守る布を、油をつけるために買われるぼろとして売りたいらしい。


 絶句している夜隆に、また別の男が歩み寄ってくる。


「お前、さっきから生意気なんだよ」


 男は手に小刀を持っていた。西日で刃が黄金色に輝いている。

 一方夜隆は素手だ。


 本能的に危険を察知して身を引いた。

 けれどそんな夜隆を嘲笑いながら、男が距離を詰めてくる。


「若くて健康な男は働き手として高く売れるから、あんまり傷はつけられないんだが」


 男が刃を夜隆の顎の下につける。冷たくて硬い感触が皮膚に当たる。


「後ろを向け」

「え……」

「こちらに背中を見せろっつってんだよ」

「どうして……」

「早くしろ」


 足を思い切り踏まれた。痛い。逆らえない。


 小刀から慎重に顎を離して、ゆっくり、後ろを向く。


 夜隆が完全に背中を向けると、突然、背後に立っていた男が夜隆の頭をつかんだ。正確には、髪を結っている組紐のすぐ近くだ。もうもとの身分に戻れる可能性は万にひとつもないとは思っているが、それでもなんとなく習慣で城にいた時と同じように総髪髷の形で髪をまとめたままにしていたのである。その髪を、ひっつかまれてしまった。


「何をする」


 後頭部という弱点に触れられて、心の臓が縮こまるような思いがする。


 小刀を組紐のすぐ近くにあてられた。


 全身の産毛がぞわりと立ち上がった。


 ぞり、という音がした。


「……何を」

「お前、いいとこのお坊ちゃんなんだろう」


 頭皮が引きつれる。頭が少しずつ軽くなっていく。


「こんな綺麗な髪、田舎じゃ女でもそうそういないからな」


 寒気が、する。


 後頭部に、冷たい風を感じる。


「高く売れるぞ」


 ぞりぞり、ぞりぞり、と、刃が髪を削ぐように切っている。


「やめてくれ!」


 それは出家する時にすることだ。つまり、俗世との完全な別れを意味していた。もはやこの世の人間ではないと言っているも同然だ。

 手に墨を入れられた時と同じくらいの恐怖を感じた。

 もしかしたらそれ以上かもしれない。昏の穴が使えなくてもただの人間になるだけだが、髪を落としたらもはやこの世の人間ではない。


「そんな」


 頭が完全に軽くなった。


 短くなった髪が、頬や耳にぱらぱらとかかった。


 思わずその場に座り込んでしまった。


 手で自分の頭に触れる。

 長く伸ばしていた髪がもうそこにはない。

 不揃いの頭は鏡で見たらさぞかし不恰好だろう。

 しかしもうそれを気にしていてもいい身分ではない。


 男たちが声を上げて笑った。


 嘲笑われている。


「男のくせに髪がちょっと短くなったくらいでそんな顔をするなんてな。おもしれえ」


 夜隆の髪を切った男は、組紐でまとめられたままの長くて黒い髪を持って階段を上がっていった。


「おら、立て」


 また別の男が、夜隆に蹴りを入れる。


「いいから服を脱げ」


 そのうち近くにいた他の男が寄ってきて、夜隆の帯を乱暴に解いた。着物を引き剥がされる。ふんどしひとつになったところで、むりやり立たされた。


 裸の人々が列に並んで、幽鬼のようにのろのろとひとつの方向へ動いていく。


 奥のほうの床にまた戸板があった。

 船乗りがその戸を開けた。


 すさまじい異臭が漂ってきた。漂う、というよりは、解き放たれた、といっても過言ではないくらいの急激な空気の変化を体感した。半裸の人々も一斉に「うう」「くさい」と呟いてうめき、顔をしかめた。


 階段の下は真っ暗で、ここからでは何も見えなかった。地獄に向かって続いていく階段のように見えた。


「ここがお前らの部屋だ」


 頭が理解を拒んだ。


 人々の手首に巻きつけた鎖を、男たちが引っ張った。鎖に巻き込まれた手首の皮膚が痛い。


 階段の下に引きずっていかれる。

 人々は次々と悲鳴を上げたが、抵抗らしい抵抗をすることもなかった。


 夜隆も気力を失っていた。


 服もなく髪もない今何もできない。

 ここからもう下はない。

 あとは死ぬだけだ。

 そう思い、ふらつく足取りで階段をおりていった。


 船乗りの一人が、小さな油灯を持っていた。


 小さな、小さな、今にも絶えてしまいそうな光で、船の底にある地獄を照らし出した。


 そこには、人間が丸太のように転がっていた。


 数十人の人々が、手足を拘束されて、横たわっている。わずかな空間をも有効活用できるようにということか、上下に積み重なっている人々もあった。ひょっとしたら、今見えている以上の数の人間がいるのかもしれなかった。


「並べ」


 男が言った。


「お前らもそこに横になれ」


 鎖がついたまま、引っ張られる。

 足がもつれて、横たわっている人々を蹴り飛ばしてしまう。

 蹴られた人は小さくうめくだけで何も言わなかった。


 床板がぬるぬるしている。きっと糞尿が垂れ流しになっているのだ。この強烈なにおいは排泄物が発酵しているにおいなのだ。


「……厠に」


 夜隆は、色を失った唇で言った。


「せめて……その前に、便所に……」


 男が「はあ?」と馬鹿にした声を出した。


「次の船着き場についたら市場に行く前にまとめて水洗いしてやるから気にするな」


 また別の男が、笑った。


「漏らせよ。俺たちはお前みたいな金持ちがだらしなく小便や糞を垂れ流すところを見たいんだよ」


 そしてそのまま、床に引きずり倒された。


 男たちが階段を上がっていくにつれて、船底は暗くなっていった。戸板を閉めると、まったくの闇に包まれた。


 目が利かない。


 それもそのはず、ここは喫水線の下、海の中だ。少しでも何かあれば真っ先に水に沈むところだ。


 誰も何も言わなかった。どこかからすすり泣く声が聞こえてきたが、それに声を掛ける者はなかった。夜隆も、何もしなかった。


 床にあおむけになり、どこからか流れてくる液体に濡れながら、これが人間でなくなるということか、とぼんやり考えた。


 これが底辺で、本物の地獄だ。


 いっそのこと早く売られたいとすら思った。


 奴隷市場につく前に水洗いしてもらえるのだそうだ。そのほかに何の楽しみもなかった。


 死ねたら楽なのに、と思って、目を閉じる。


 早く死んでしまいたい。


 このまま二度と意識が戻りませんようにと、祈った。


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