第10話 そういう時代はもうあってはならないはずなのだ
こうして乗り込んだ帆船は、葦津国で建造される船の中では最大級のもののように思われた。葦津最大の港湾都市獅子浜と、第二の都市である翠湖州の州都
夜隆は
「ずいぶん立派な船だな」
周りで慌ただしく動き回っていた船乗りのうちの一人が、そんな夜隆に気づいて、「おうとも」と答える。
「これだけ立派な船だと、どこまでも行ける気がしないか?」
夜隆は首を傾げた。
「行き先は万松州だろう? 七頭諸島からでも一日二日の航路だ。どこまでも、というのは大袈裟だな」
船乗りの男たちが、夜隆を見つめる。しかし喫水線を眺めている夜隆は気づかない。
「船籍はどこだ? これくらい大きな船だと、所有者は狩野家か天竜家ぐらいのものじゃないか? でも、この船は万松州では見たことがない気がする」
「お兄さん、万松州を知っているのかい?」
「あ、いや」
ここでは氏素性を明らかにしてはいけないのだった。定期的に獅子浜港に通う生活をしていたことが露見してはいけない。
おそるおそる振り向く。
いつの間にか、大勢の男たちに見られていた。
囲まれている。
みんな笑顔ではあったが、どことなくぎこちなく見えた。
夜隆の胸中に不安がよぎっていった。
これが獅子浜城の中でのことだったら、なんだかんだ言い訳をでっち上げて逃げ出していたことだろう。末っ子の夜隆はこういう空気の変化には敏感なのだ。
しかし船の上では逃げられない。なんとか彼らの機嫌を損ねないようにしないといけない。
とはいえ、なぜ彼らの様子がこんなに硬直化したのか、夜隆には見当がつかなかった。これから万松州に行くこと、夜隆が万松州の地理に明るいこと、お互いたったそれだけの情報しか開示していないのに空気が張り詰める理由がわからなかった。
「お察しのとおり、この船は天竜家の所有だ」
ある男が言った。夜隆は「ふうん」と頷いた。けれど何かが引っ掛かる。何が、だろう。わからない。
この船は何かがおかしい。でも、夜隆には、その何かの正体がわからない。
船はすでに出港していた。三ノ島の港からどんどん離れていく。対岸に見えるのは翠湖州だろうか。
天竜家の船なのに翠湖州に向かわないとは、大丈夫なのだろうか。
それとも、ちょうど翠湖州から来たばかりで、すぐに帰港する必要はないということだろうか。
船が、ゆっくり、陸地から離れていく。
何もかも気のせいだと、夜隆は自分に言い聞かせた。万松州に帰れる。すべてそれでいいではないか。
無事に獅子浜にたどりついたらどうしたいか考えて、自分の心に前を向かせようとする。
獅子浜にたどりついたら、雲隆を弔いたい。
夜隆は雲隆の葬儀に出られなかった。
地下牢にいたのでどういう手続きを踏んでいたのかわからなかったが、父の例を思うと、死後七日程度で国葬だろう。そして四十九日喪に服す。葬儀は終わっているだろうが、獅子浜城下はきっと服喪中だ。
菩提寺の墓に手を合わせたい。けれど今の夜隆が狩野家にゆかりのあるところに出入りするのは危険だろうから、どこか家を借りた時に部屋の中に小さな祭壇を作って水と花を供えるのがせいぜいだろうか。
とんでもなく転落してしまった。兄の菩提を弔うことも許されない人生になってしまった。
月隆は、夜隆にこういう人生を歩ませたかったのか。
遠くに目をやった。近づいてくるはずの獅子浜の港を拝みたかった。
そこでようやく違和感の正体に気がついた。
七頭諸島の北の端、
七頭諸島から獅子浜まで直線距離を行くなら、前方に咲耶山が見えてくるはずである。
それが、ない。
慌てて甲板を駆け回り、咲耶山を探した。
夜隆は目を丸く見開いた。
船の後方に、優美な山がほんの小さな三角形の姿で見えた。
遠ざかっている。
「あの」
夜隆はそのへんにいた船乗りの男の腕をつかんだ。
「この船は万松州に向かっているのではなかったか?」
男が一瞬顔を不愉快そうにゆがめた。
その様子からは苛立ちさえ感じられて、夜隆は少したじろいだ。
しかし男は次には満面の笑みを浮かべた。
といっても、夜隆を安心させようとして笑ったわけではなさそうだ。
その目が、ぎらついている。
なんとなく、馬鹿にされているような気がした。
夜隆を見下して、嘲笑っている目だ。
「お前、万松州から来たんだな」
夜隆は男から手を離して、一歩離れた。
「どこで気づいた」
「咲耶山から離れているような気がして……」
「そうだ、よくわかったな。この船は南に進んでいる」
血の気が引いた。
「南とは……具体的に、どこに向かって……?」
七頭諸島の南にあるのは、海峡だ。翠湖州とその西向かいの
男が、不揃いな歯を見せて笑った。
「さてな。お前らを買い取ってくれる
周囲の男たちが、夜隆に飛びかかってきた。夜隆は身をよじってかわした。だが、いくら大型の船とはいっても甲板の空間は限られているので、逃げようがなかった。船はどんどん咲耶山から離れている。海に飛び込めば待っているのは溺死ではないか。
夜隆以外の三ノ島から乗り込んできた人々にも、男たちは一斉に襲いかかっていた。状況がわからない人たちは悲鳴を上げながら逃げ惑ったが、あっという間に捕まってしまう。甲高い悲鳴が上がる。
「あんたたち、騙したのかい」
そう叫んだ女に、船乗りの男が叫び返した。
「どうせお前らなんか葦津から消えたところでばれやしないさ! お国への最後のご奉公だと思って、金に替わりな!」
羽交い絞めにされながら、夜隆も叫んだ。
「まさかお前ら、人身売買をしようというのか」
異国に葦津人を売って、収益に変えようとしている。
「奴隷貿易をしようというのか!」
男たちが下卑た笑いを上げた。
「人間はこの葦津が輸出できる最上の商品だ」
反吐が出そうになった。
葦津政府は人身売買を禁じている。
買った人間は当然買われた人間を粗雑に扱う。それはそもそも人の道に反しているし、現実的に買われた奴隷が逃亡すればまた別の犯罪が増加したという調査結果もある。まして異国ともなれば戻ってこられる望みがない。それこそ貴重な財産を流出させることになる。
富も栄誉も人材の不足があれば成り立たない。決して奪われてはならない。だから葦津国では奴隷はあってはいけないものなのだ。
初代大君が葦津国を統一した時に目指していたのは、そういう社会ではなかった。
誰もが安心して暮らせる戦のない世を、穴を持つ者たちは望んでいた。
自分たちの穴に米を隠し持って他人に奪われぬよう神経を張り詰めさせていた時代は、終わったはずなのだ。
貧しいがゆえに、騙されて船に乗せられて、どことも知れぬところに連れていかれる。
こんな恐ろしいことがあってたまるか。
夜隆は自分の足を抱えようとしていた男の顔面を蹴った。男がうめいた。血があふれた口から、白い歯が転がり落ちる。
夜隆の想定外の抵抗に驚いたらしい男たちは一瞬たじろいだ。その隙をついて、腕を振り払った。
解放された。
しかし船縁まで来て、愕然とする。
逃げられるはずがない。なにせここは、船の上、海の上だ。
すぐに男たちが追いついてきた。
胸倉をつかみ上げられた。
夜隆の襟をつかんだ男が、拳を振り上げる。
拳が夜隆の頬にめり込む。
口の中が血の味でいっぱいになった。
崩れ落ちた夜隆に、男たちはさらに暴力を振るい続けた。
殴り、蹴り、踏みつけた。
夜隆は痛みと疲労で立っていられなかった。その場でうずくまって、自分の将来に絶望しながらただひたすら嵐のような時間をやり過ごしていた。
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