第3章 奴隷船

第9話 いちかばちか、船に乗る

 いつまでも林の茂みに隠れているわけにはいかない。


 あの夫婦に追いつかれる可能性は、まだ、まったくなくなったわけではなかった。


 三ノ島の島民が全員あの夫婦と同じことを考えている可能性もある。


 七頭諸島には街がない。つまり大きな市場がないということだ。夜隆はそういう社会でどんな経済が回っているのか知らなかった。全員金がなくて困っているのではないか。


 その場合、やはり、大きな賞金がかかっている夜隆の首は喉から手が出るほど欲しいのではないか。


 島民全員で山狩りを始めたらどうなるのか。


 土地勘のない夜隆は、何においても不利だ。しかも手ぶらである。いくら鍛えていると言っても、連日の責め苦で心身が疲弊しており、判断能力にも不安があった。自然を相手に仕事をしている漁師たちが包丁や銛を手に追いかけてきたら、絶対に敵わない。


 判断能力が不安だ。


 何を考えても、悪いほう、悪いほうに考えてしまう。疲れているからだろう。生きたいという気持ちが、時々、実兄にこれほどまで疎まれてもか、という闇に呑まれそうになる。


 今後どうやって生きていくべきか。

 死にたくないが、生きられるのか。


 月隆は、夜隆の死を望んでいる。


 思考の渦の中に引き込まれそうになった。なんとか追い払って、茂みから顔を出した。


 周囲の様子を窺う。


 人間の姿はない。


 黒っぽい浜に白波が押し寄せている。


 静かな海だった。獅子浜の海に似ていた。同じ葦津湾の中の浜だからだ。


 まだ獅子浜を離れてから何日も経っていないはずなのに、ひどくなつかしい感じがした。


 しばらく海の様子を眺めていた。それは郷愁から来た行動で、深い意味はなかった。

 けれどそのうち、あるものは右から左へ、またあるものは左から右へ、視界の奥のほうに動いているものがあることに気づいた。


 船だ。


 沖のほう、浜と対岸の間を、大型の船が行き来している。


 あのうちのどれかに乗ることができれば、三ノ島を脱出できるのではないか。


 おそるおそる、茂みから全身を出す。

 やはり、人間の姿は見えない。誰にも見られていない。


 三ノ島を出たい。七頭諸島を離れて、葦津の本島のほうに移動したい。

 万松州に帰れるかどうかは未知数だが、とにかく人間が多いところに移動して、人混みに紛れたほうがいい。木を隠すなら森だ。都会に出て、若い男が一人でふらふらしていてもおかしくないところに身を落ち着けてから、今後のことを考えるのだ。


 近づいてくる船があった。

 大型の帆船だ。

 立派な帆をいくつも張った船が、こちらに近づいてきている。


 といっても、夜隆の目の前に来てくれるわけでもない。この近さからすると、三ノ島のどこかに港があって、そこに接岸しようとしているのではないか。


 夜隆に近づいてくる人間は、ろくなものではない。

 けれど、港というものは、往々にして人が集まるところだ。

 港に行けば、大勢の人に紛れて、船に乗れるかもしれない。

 獅子浜の港はにぎやかなところで、船の乗組員や商売に携わる者たちはもちろん、物見遊山に来ている人までたくさんいた。


 夜隆は歩き出した。

 帆船のゆくえを追い掛けて、小走りで浜を急いだ。

 土地勘のない林の中を移動するよりはましだと思って浜に出てきてしまったが、警戒も怠らなかった。


 しかし三ノ島の浜は静かだ。日が高くなってきたためもあるだろう。漁は早朝に行うものに決まっている。


 どれほど歩いたことだろう。

 ややあって、夜隆は港らしき場所に出た。


 だが、期待していた港とは違う様相であった。

 盛り土と石組みでできた港には、いかにも貧しそうな、ろくに着物も着ていないような人たちがぽつぽつと並んでいた。

 波止場にはかろうじて突き出た木製の桟橋がふたつあって、その両側に係留のための飛び出た杭がある。全部で四艘留められるようである。

 たったの四艘、それも大型の船は着岸できない。

 これはかなり不安だ。


 夜隆はおそるおそる人々の間に出ていった。

 けれどみんな夜隆には注目しなかった。

 ちらりと盗み見る人もいないではなかったが、声を掛けてくる者は皆無であった。


 そういえば、夜隆もきちんとした着物は着ていない。薄汚れた、ところどころ漁師の男に包丁で切られた箇所のある、囚人服だ。きっと変な奴だと思われているだろう。いかにも訳ありだ。それはそれで怪しまれないかと思ったが、ここにいる人間は何も考えていないらしい。


 先ほど沖に見えた大型の帆船が、こちらに近づいてきている。


 帆船の乗組員は、少し離れたところに碇をおろした。黒い巨大な鉄の碇が、海の中に沈んでいく。


 碇が完全に海中に吞み込まれると、今度、彼らは小型の舟を両舷からおろし始めた。帆船本体は接岸せず、港と帆船の間の行き来はこの小舟でするようだ。


 そのうち小舟に筋骨隆々とした船乗りたちがおりてきて、櫂を漕いで桟橋に近づいてきた。


「おーい、迎えに来たぞ!」


 屈強な男たちが、日焼けした顔で叫んだ。笑顔だった。


「街に行こうぜ! 三食用意してやるぞ!」


 波止場で待っていた人々が、桟橋に近づいていった。それまで生気がなかったのが嘘のように目をぎらつかせて、我先にと小舟に乗り込もうとした。


 船乗りたちが笑いながら「みんな乗せてやるから落ち着け」と声を掛ける。


 異様な光景だった。


 夜隆は怖気づいた。


 三ノ島の食い詰めた島民たちが、船に乗るために押し寄せている。


 これはいったい何が起こるのかと、一歩引いてしまった。


 そんな夜隆に、船乗りのうちの一人が気づいたらしい。


 ある男が舟からおりて、こちらに近づいてきた。

 夜隆は身の危険を感じてさらに一歩後ずさったが、もう完全に目が合っているので、逃げられない。

 男は夜隆よりも背が高く、肩幅もあり、いかにも強そうだった。


「どうした、お前」


 男が声を掛けてきた。その表情は明るい。歯を見せて笑っている。


「お前も行きたいんじゃないのか」


 夜隆は一瞬考えた。


 彼は夜隆をこの島の人間だと思っているのではないか。


 ぼろぼろの服装で波止場に並んでいたのだから、同類だと勘違いされたに違いない。


 だからと言って否定するわけにもいかない。


 夜隆がここの人間ではないことが知られたら、何が起こるかわからない。自分が狩野夜隆であることは、絶対に知られてはならないのだ。


「連れていってもらえるのか」


 慎重に言葉を選んで、そう訊ねた。男はいとも簡単に「ああ」と頷いてみせた。


 そして、夜隆が一番欲しかった言葉を口にした。


「今日の行き先は獅子浜港だ。万松州で仕事を探せるぞ」


 もしかしたら一生聞くことはないかもしれないとも思った故郷の地名が、こんなにも簡単に聞けた。


「これは獅子浜に行く船なのか」

「ああ。知らせてもらえていなかったのか?」


 夜隆は少し悩んだが、男のほうが勝手に頷いた。


「まあ……そういう恰好をしてるところから、なんとなく察しがつく」


 これは、囚人服なのだ。


「珍しいことじゃない。七頭諸島は、昔から流刑地だった。本物のワルが送り込まれることもあれば、言いがかりをつけられて追放された人間が来ることもある」


 にたりと、唇の端を吊り上げ、歯を見せる。


「あんた、見るからに人がよさそうだ。しかもいいところのお坊ちゃんだろう。何か事情があるんだろう?」


 夜隆は複雑な心境だった。自分の正体が暴かれてはならないという気持ちと、この人ならわかってくれるのではないかという気持ちが、心の中でせめぎ合う。


「どっちにしても、ずっとここにいるわけにはいかないだろう。出るところに出て、ちゃんとしたお裁きを受けたほうがいい。じゃないとこの島で一生自分の氏素性を隠して毎日生きるか死ぬかの人生を送ることになる。それはつらいよな?」


 月隆に嫌われている自分がちゃんとしたお裁きを受けられるかどうかは疑問だが、男の言うとおり、その人生はつらい。


 獅子浜は都会だ。どこかに隠れ住んで日雇いの仕事を探すこともできるだろう。

 それに、万松州には獅子浜以外にも街がある。もし獅子浜がいづらくなれば他の街に引っ越せばいい。

 最悪万松州と地続きの他の州に逃げることもできる。


 脱出手段が限られた島にいるよりは、ずっとましではないか。


「俺も、船に乗せてくれないか。万松州に行きたい」


 男は「もちろんだとも」と言って、夜隆を導いた。

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