第8話 命の軽重を考える

 突如、強い殺気を感じ取った。

 泥のように眠っていたつもりだったが、夜隆はこういう敵意には敏感だ。

 疲労のあまりもう動かないと思っていた体は、先ほど粥による栄養を得たためか、ちゃんと動いた。


 上半身を跳ね起こした。

 すると、その顔のすぐそばを鈍い灰色のかたまりが通過した。


 頬に熱い刺激が走った。

 ややあって、ひりつくような痛みを感じた。


 頬が切れた。


 切られた。

 何に、だろう。


 夜隆は目を真ん丸にした。


 目の前の男が刃物を握っている。


 漁師の男が「起きちまったか」と吐き捨てた。

 その手にある包丁の切っ先が夜隆のほうに向けられている。

 きちんと研いである包丁は魚をさばくためのもので大ぶりだった。あれで切られたら肉を断たれていただろう。背中に冷たいものが流れる。


 食事と寝床を提供してくれた親切な男が、夜隆に刃を向けている。


 男の後ろには妻である女も立っていた。彼女もひどく冷たい目で夜隆を見下ろしていた。夫の凶行に緊張している、という感じではなかった。夜隆の反応を窺い、夫のすることをただ見守っている顔に見えた。


 男が包丁を振りかぶった。夜隆は体をひねってそれをかわした。


 転がるように布団から離れ、立ち上がる。夫婦と真正面から向き合う。


「どうしてこんなことを! 危ないだろうが」


 必死にそう怒鳴ったが、男は聞かなかった。意味のない叫び声を上げながら突進してきた。


 幸いなことに、夜隆は暴漢に襲われた時のための護身術もひととおり習っていた。

 一歩男の間合いに踏み込み、男の手首をつかんで包丁を叩き落とした。


 男がうめき声を上げる。そんな男の腹に蹴りを入れる。男が土間に倒れ込む。


 そうこうしているうちに、女が動いた。視界の端に女の動きを捕らえて、次の行動はどうすべきか考えた。


 女は予想外のことをした。


 夜隆が布団にしていた藁の上の短刀を拾い上げ、胸に抱え込んだのだ。


「返せ」

「嫌だ!」


 女が叫ぶ。


「こんなのを持ってたあんたが悪いんだよ」


 意味がわからない。武器を持っていたことを咎められているのだろうか。


「あなたたちを傷つけるために持っていたわけではない」

「そうじゃない」


 夜隆が女の行動に困惑している間に、男がふたたび包丁を拾い上げる。


「これを売れば大金が入る」


 女の発言に、夜隆は仰天した。


「それは特に銘が打たれているものじゃない量産品だ。似たようなものはいくらでもある。小銭にしかならないものだぞ」

「小銭でもいい」


 信じられない発言だった。


「小銭でもわたしらにとったら大金だ」


 夜隆の背後で、男が再度包丁を振りかぶった。夜隆はそれに気づいていたが、状況を把握できず混乱している夜隆より、覚悟の決まった男のほうがわずかに反応が早かった。

 男の包丁が夜隆の着物の袖をかすめる。

 囚人用の薄い着物はさっくりと切れて皮膚が垣間見えた。


「そんなもののために俺を殺そうと言うのか」


 男が口元をゆがめて笑いながら夜隆の言葉を繰り返す。


「そんなもののために、俺を、とな」


 その奇妙な笑い方にぞっとする。


「自分にずいぶんな価値があるという自信があるらしい」


 指摘されて、初めて気がついた。

 つまり、夜隆は、自分は小銭のために殺されるわけがないくらい価値が高いものとみている。

 しかし目の前の夫婦にとっては小銭こそ貴重なもので、特徴のない短刀さえ人殺しの罪を犯してまで入手したいと思うほど貧しい。


 本当に夜隆を死なせたら彼ら自身の大事な命にも傷がつくのに、そういう判断ができないほど、この夫婦の生活は困窮している。


 自分のおごりを暴かれた気分だった。


 人間の命の軽重を考える。


 小銭ごときに殺されるべきではない夜隆の命と、小銭のために死罪になる危険を冒してでも人殺しをしようとするこの夫婦の命、どちらが重いか。


 次の行動をためらった夜隆に、男がさらに語り掛ける。


「そりゃそうだよな、あんたは狩野家のご子息なんだから、こんなところで死ぬようなタマじゃないとお思いなんだろう」


 心をえぐられるような言葉だ。


 その上、彼はこんなことを言い出した。


「でも、ツキが回ってきてあんたを殺すことができたら、刀の値段よりもっとでかい大金が転がり込んでくる」

「どういう意味だ」

「可哀想だから教えてやるよ」


 全身に鳥肌が立つ。


「狩野月隆様はあんたの首に賞金をかけてる」


 ゆっくり、繰り返した。


「兄上が、俺の首に、賞金を?」


 うまく呑み込めなかった。口には出してみたものの、言葉の意味がよく理解できなかった。


 男が包丁を振りかざしながらにじり寄ってくる。


「狩野夜隆を名乗る男の死体を役所に持っていったら賞金が貰えるんだ。あんたが本物かどうかはわからねえが、兄上が顔を見たらわかるだろ。あんたの死に顔を月隆様に見せてやるんだ」


 衝撃を受けた。


 こんな田舎の漁師でさえ、夜隆の命を狙っている。


 つまり、葦津の民全員がそのお触れを見聞きしているのではないか。


 葦津じゅうの人間を夜隆の敵に回したいくらい、月隆は夜隆の死を望んでいるのか。


 月隆は、夜隆に死んでほしいのだ。


 地下牢の中で見たあの笑みは、本物だったのだ。自分の見間違いではなかったのだ。


 月隆は、夜隆が傷つくことを、是としていたのだ。


 月隆は実の兄弟だ。お互い大切にし合うのは当たり前だと思っていた。月隆は兄である以上夜隆を信じて、愛して、心配してくれるのだと信じていた。


 しかし本当は忠二郎が言っていたことのほうが正しくて、月隆は夜隆を憎んでいる。


 振り返ってみれば、当然ではないか。


 まことに愛しているのなら、手にこんな入れ墨を彫らせるだろうか。


 自分はなんと愚かだったのか。


 弟の死をそれほどまでに願っている男が、のこのこ城に帰ってきたくらいで、もとの生活を保障するだろうか。生きてたどりつかせないために工夫を凝らしているようだし、生きてたどりついても、なかったことにして殺すのではないか。


 初めてそれに気がついた。


 能天気すぎた。


 月隆は、あの時、笑っていたのだ。


 彼は、夜隆を愛してなどいない。


 男が叫び声を上げて突進してくる。夜隆はなんとかそれをかわした。


 そして、板戸を破って外に駆け出した。


 日が高く昇っていた。この家にたどりついてから一刻か二刻ほど経っているものと思われる。


 太陽はこんなに明るく輝いているというのに、夜隆の心は暗い。心臓は激しく脈打っていて、呼吸もままならない。


 走って逃げた。なんとか林の中に逃げ込み、木陰に身を隠した。息が荒くて声が聞こえないか不安だ。


 何もかもが不安だ。


 手がぶるぶると震えている。


 夫婦は追い掛けてきていたはずだが、林に入った時点で見失ったのかもしれない。しばらく身を潜めていても、草を踏み分ける音は聞こえてこなかった。無音だ。風もなく、獣の声もしない。


 草の上に尻をつけ、膝を抱える。


 月隆は、夜隆の死を望んでいる。


 どんなことよりもそれが怖かった。


 本当に危機が迫った時には助けに来てくれるのではないかと、心のどこかではそう馬鹿なことを考えていた。なんだかんだ言って兄は弟を守るものだと思っていた。確かに月隆は少し淡白なところはあったが、それは冷静さや真面目さや照れといったものから来ているのだと思い込んでいた。


 単純に、夜隆を疎んじていたのだ。


 これからどうしたらいいのだろう。


 兄に嫌われて生きていける弟があるはずもない。


 だが死ぬのは恐ろしい。


 たとえそれが月隆の望みであったとしても、夜隆は死にたくなかった。なんとか生き延びたかった。


 今後のことについて、考えようとする。困惑したままの頭で、どうにか答えを絞り出そうとする。


 現状、わかっているのはふたつだけだ。


 ひとつ、名乗らないほうがいい。自分が狩野夜隆であることを知られたら、月隆の命令を真に受けた人々に襲われる。


 ふたつ、自分にはもう行く場所はない。

 目的地を見失った。

 生き延びるためにはただひたすら逃げるしかない。落ち延びる先はこれから考えなければならない。


 あとついでに、武器を失った。

 短刀がない。穴も使えない。身を守るのは徒手空拳のみだ。身を隠して逃げるのにこれで十分であるとは、夜隆には思えなかった。


 どうする。

 次は何をする。

 どこに行く。


 何もわからない。


 寄る辺なさが恐ろしくて、涙も出なかった。夜隆はしばらくその場で膝を抱えたまま震えていた。


 兄弟三人で過ごした日々のことが、頭の中をぐるぐると回る。


 あの時も、この時も、月隆は夜隆に死ねばいいと思っていたのだろうか。


 あまりにも、苦しい。


 だが、それでも、生きたい。死にたくない。


 どうにかしなければならない。





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