第7話 何不自由なく育った結果

 浜で夜明けを迎えたのが幸いした。


 なんと一艘の小舟がこちらに近づいてきたのだ。


 舟に乗っていたのは、あまり身なりがいいとは言いがたい、ほぼ半裸の中年の男女二人組であった。

 二人とも日に焼けていて、特に男のほうは筋骨隆々としている。

 人間の他に網ともりを乗せている。おそらく漁師だろう。獅子浜城下の浜にもいて、毎年豊漁祭の時に交流している。


 二人は夜隆を見掛けて舟を出したわけではなさそうだ。島の浜から少し離れたところで船を止めて、網を広げ始めた。きっと普段からこのへんで漁をしているのだ。


 人間に出会えた。これでこの島を脱出できる。食事にありつけるし、獅子浜城にも帰れる。


 舟のほうへ駆け寄って、波打ち際に足を突っ込みながら「おおい」と叫んだ。

 二人がこちらを向いた。

 夜隆を見て驚いた顔をした。


「ちょっと、お兄さん、どなたかね。そんなところで何をしてるんだ」


 夜隆はためらうことなく答えた。


「俺は狩野夜隆という。無実の罪をなすりつけられて何もしていないのに島流しにあった」


 助かると思ったら踏ん張れた。体力はもうまったく残っていないと思っていたのに、結構な大声が出た。


「この島を脱出したい。助けてほしい」


 男女二人が顔を見合わせる。夜隆には聞こえない声量でひそひそと何かを話し始める。


 夜隆は砂の上に放置していた短刀を拾い上げて乱れた着物の襟元を整えた。


 あの舟に乗せてもらえれば万事解決だ。やはり自分は天に愛されている。


 二人組がふたたび舟を漕ぎ出し、こちらに近づいてきた。浜に乗り上げ、男のほうが舟からおりてくる。


「狩野夜隆様っていうと、万松州の狩野家のご子息ですな。大君雲隆様の弟君の」


 夜隆は大きく頷いた。有名人でよかった。名乗りを上げただけでわかってもらえる。


「こんな辺鄙へんぴなところにまで流されるとは、たいそうご苦労されたようで」

「でももういいんだ、お前たちのおかげでこの島を出られると思えば」


 男が女のほうを振り返る。女は仏頂面をしていたが、夜隆と目が合うと人懐こい雰囲気の笑みを作った。


「お前たちは漁師か? このへんで漁をしているのか」

「ええ、そうです。おれたちは三ノ島さんのしまの漁師で、毎朝夫婦でここに網を張ってます」

「三ノ島か」


 万松州から南にずっと行ったところにある、七頭しちがしら諸島という島々の三番目の島だ。七頭諸島にはその名のとおり七つの島がある。


「ここは何番目の島だ?」

七ノ島ななのしまですが、ご存じないんですか」

「目隠しをされて運ばれたんだ」


 七ノ島は葦津最南端の島だ。ずいぶん遠くまで連れてこられた。案の定無人島である。ここでこの二人に出会わなかったら本当に餓死するところだったかもしれない。


 だがすべてはもう解決した。人間に出会えた。


「俺をここから連れ出してくれないか?」


 二人がまた、顔を見合わせる。目配せし合う。そのが奇妙なものに思えて少し違和感があったが、二人ともすぐに微笑んだので、きっと気のせいであろう。


「わかりました。小さい舟ですが、どうぞお乗りください」


 男に導かれて、夜隆は舟に乗った。


 夜隆が舟の中に座ると、二人が櫂を漕ぎ出して浜から離れた。


 七ノ島が少しずつ遠ざかっていって、六ノ島、五ノ島が見えてくる。


 七頭諸島の何番目から人間が住んでいるのかは忘れてしまったが、少なくとも三ノ島まで行ければ集落があるのだろう。

 そこで大型船を調達して翠湖州あたりに上がることができれば、天竜家に保護してもらえるはずだ。

 そこから馬で五、六日ほど北上するか、あるいは船ならば一日二日で万松州に帰れる。


 今までどおりの暮らしができる。




 二人は夫婦で、子供は二人しかおらず、今は二人とも成長して巣立っていったため、家には夫婦二人で住んでいるという。


「何もない家ですが」


 女が言ったとおり、本当に何もない家だった。

 夜隆の寝間よりも狭い建物で、板きで、土間に漁の道具が並べられているだけだった。

 畳もなく、床は板張りで、わらでできた円座が二人分、囲炉裏いろりのそばに置いてある。

 それでも屋根の下にいられるというだけでありがたい。人工物のない無人島にいるよりは何百倍も良い。


「とにかくご飯を食べましょうか」


 女が食事の支度を始めた。夜隆は円座に腰をおろしながら「ありがとう」と言った。やっと物を口にできる。


 女が煮炊きをしている間に、男が茶碗に水を注いで持ってきてくれた。それもありがたかった。海水は飲料水に適さないことは知っていたので、渇きを癒やすのにも困っていたのだ。


 水を一気飲みする。ぬるい水だったが、塩辛くはないだけ十分だ。


 食べ物にも飲み物にも困ったのは、生まれて初めてだった。


 恵まれた人生を送ってきたものだ、としみじみ感じ入る。

 それもこれも狩野家の当主とその正室の息子に生まれたからだ。

 この夫婦の子供に生まれていたら、嵐が来たら飛びそうなこの建物の中で育てられたのだろう。夫婦の苦労はいかばかりか。それでも食事を用意してくれるという夫婦の優しさが身に染みる。


 やがて女が茶碗に粥を入れて出してきた。麦粥に菜っ葉を入れて魚醤で味付けしただけのものだったが、夜隆は勢いよく掻き込んだ。この世のものとは思われぬほど美味であった。魚醤の塩辛さ、麦の甘さ、菜っ葉の芯の歯応えがたまらなくうまい。

 これほどまでおいしい食事はそうそうない。

 今までの暮らしでは、食事のありがたみを感じていなかったからだろう。食べられることを当たり前だと思っていたから、感謝して味わおうという精神がなかったのだ。


 これからは料理人や農民、漁民にも礼を言って暮らそう、と誓った。こんなに素晴らしいものを生み出す人たちは素晴らしい精神の持ち主なのだ。武士などこの平和な世の中では何も生み出さない連中だ。


「こんな粗末なものしか出せませんで」


 女がそう言って深々と頭を下げた。夜隆は「とんでもない」と言って手を振った。


「本当にうまかった。心から感謝する。ありがとう。このご恩は一生忘れない」


 なんなら、城に帰れたらなんらかの褒美を取らせよう、とも思った。今はまだ何ができるかわからないので口約束はできないが、せめてもう少し頑丈そうな家を与えたり上等な漁具や舟を用意したりということはできないか。


 とにかく、腹がいっぱいになったら、眠くなってきた。疲労が押し寄せてくる。


「すまないが、少し横になってもいいだろうか? ここ数日ろくに寝ていないので疲れた。寝かせてもらえないだろうか」


 夫婦がにこにこと笑っている。


「わたしたちは藁を敷いて眠っているので、布団らしい布団もありませんが」


 それを聞くとちょっとたじろいでしまったが、冷たい土の上よりいいだろう。夜隆も笑顔を作って「十分だ」と答えた。


「じゃ、お休みください。おれらは漁に出ますんで」

「ああ、仕事の邪魔をしてすまなかった。ありがとう」

「ごゆっくり」


 夜隆は藁の上に横たわった。それからすぐに意識が落ちた。

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