第6話 どうにもならなくなったら、これで自害せよ

 まだ子供だった頃、ある正月に兄弟三人で羽子板に興じたことがある。


 父が勧めた遊びであり、父の目が届く範囲内でやるように、と言われた。


 夜隆は末っ子で、長兄の雲隆とは六年、次兄の月隆とは三年違う。

 元服前の小さな体では、身体能力にも当然大きな差が出る。

 夜隆は同年代の子供たちよりは運動が得意なほうだったが、体が大きな兄たちには敵うはずもない。


 月隆に顔面に羽根をぶつけられては、なぜ勝てないのかと地団駄を踏んだものだった。


 しかし父が羽子板を勧めたのは息子たちの身体能力を見るためではなかった。


 彼は羽根をうまく受け止められなかった夜隆に罰を与えた。

 羽子板を持ってきた家来に墨も持ってこさせた。

 手を開いて差し出すように、と言われたので言われるがままにすると、夜隆の手の平に見慣れぬ文字のようなものを書いた。

 そして、穴を出してみなさい、と言った。


 どうしてこの流れでそうなるのか疑問には思ったが、父の言うことに逆らうという考えがなかった夜隆は、素直に穴を出すことを試みた。


 開かなかった。


 いくら念じても、特に意味のない掛け声を出してみても、手の平の空間はうんともすんとも言わなかった。


 夜隆も幼いながらすでにこれが狩野家の人間の証であることは知っていたので、穴を出せなくなった自分は家族ではない、仲間はずれにされてしまう、と思って泣いた。


 父は言った。


 ――昏の穴は、手の平が開いた状態でないと出せぬ。手の平に力を封じる呪印を書くと、手の平は閉じているのと同じ状態になる。もしお前たちが悪者に捕まって手の平に何かを書かれそうになったら、必死で抵抗するように。書かれてしまった場合は、どうにかして消すように。


 雲隆も月隆も神妙な顔をして頷いた。城の中で御曹司として大事に育てられてきた三兄弟は、自分たちの能力にそんな弱点があることを知らなかったのだ。


 見せしめにされた夜隆は、兄上たちでもよかったのにどうして俺ばっかり、とまた喚いたが、その時は井戸水で手を洗うことによって元に戻ったので、その後なあなあにされてしまった。


 あの時の恐怖は今でもはっきりおぼえている。


 けれど、今感じている絶望感は、それよりもっと強い。


 月隆は配下の者に命じて夜隆の手の平に入れ墨を入れさせた。


 あの時父が書いた文字に似ている呪印だった。


 手首に鉄の枷をはめられ、抵抗できない状態にされた夜隆は、一針一針が狩野家からの脱落を意味する模様を描き出すのを泣き喚きながら見ていることしかできなかった。


 その様子を、月隆はずっと見物していた。彼は夜隆の絶叫を聞きながらも沈黙していた。




 それから三日ほどが経過した後、夜隆は牢獄から出されて、海に連れていかれた。


 万松州の都獅子浜ししはまは、その名のとおり海に面していて、火山の溶岩でできた黒い砂の浜がある。

 夜隆はその浜に連れていかれて、船に乗せられた。

 長距離を移動するための帆船だ。

 しかし乗り込むのは数名の役人と夜隆だけのようである。

 途中で目隠しの布をあてがわれて周囲の様子を見られなくなったので、最終的に何人が船に乗ったのかはわからない。


 手の平がひりひりと痛む。今は目隠しをされているのでどうなっているのか見られないが、手の平の疼くような痛みが心をさいなんでいる。


 どれくらい波に揺られただろうか。

 まだ暑さの残る晩夏の空気にさらされながら、時間と距離の感覚が完全に麻痺するまで船で進んだ。


 このまま沖に出るのではないか、すわ補陀落渡海ふだらくとかいか、と思い始めた頃、ある浜辺に着岸した。


 浜に座らされる。

 そして、目隠しをはずされる。


 数人の男たちに囲まれ、見下ろされている。


「ここはどこだ」

「ある島です」

「どこの何という島だ?」

「夜隆様には教えるなと言われております。とにかく、島です」


 文字どおりの島流しにあったわけか。


 男たちが夜隆の手首を縛っていた縄を解いた。上半身も自由になった。

 だが、抵抗する気にはなれなかった。

 周りには屈強な男たちがいて、彼らはみんな佩刀はいとうしている。

 対する夜隆は丸腰で、手に呪印の墨を入れられたせいで裂闇丸を取り出すことができない。

 それに、何日も食事を取っていないために頭も働かなかった。かろうじて水だけは与えられていたが、空腹で今にも倒れそうだ。


 男のうちの一人が、夜隆の目の前、砂の上に一本の短刀を置いた。ありふれたこしらえの短刀だった。目の肥えた夜隆は、一目見て安物だとわかった。


「月隆様からのお慈悲です」

「お慈悲?」

「どうにもならなくなったらこれで自害せよとのお言葉です」


 頭を殴られたような衝撃を受けた。


「しかし、月隆様は、夜隆様は天に愛されたお方だとお思いです。これ一本で万松州に戻ってくることがあるならば天命による奇跡だから、狩野家の一員として改めて迎える、とおおせです」


 その言葉にすがるほかなかった。昏の穴を出せなくなった自分にはもう大君になる資格はないが、それでも獅子浜城で暮らせるというのであればそうしたかった。獅子浜城に帰りたい、そして今までどおりの生活に戻りたい。夜隆の頭はそれでいっぱいになった。


「奇跡……」


 つまり万にひとつの可能性しか想定されていないように思われるが、それでも言うとおりにするしかない。


 月隆の慈悲をこいねがう。


 震える手を短刀に伸ばす。

 周りを囲む男たちが腰の刀の柄に手を掛け、「我々が離れてからにしていただきたく存じます」と言う。

 夜隆は慌てて手を離した。空腹と不安で頭がいっぱいの夜隆に彼らを傷つける気力はなかったが、彼らは一応夜隆が古流剣術の一流の使い手であったことをおぼえていると見た。


 夜隆がその場に座ったまま沈黙していると、男たちは「では、御免」と言って船に乗り込んだ。そして、夜隆が言葉を発するのを待たずに船を漕ぎ出してしまった。あっという間に岸を離れ、遠くなっていく。


 浜に一人、取り残された。


 空はすでに暗くなっていた。星が輝いているほうが東で、太陽が沈んでいくほうが西ではないか、と思う。どちらも遠くに陸地があり、かすんだ山が見える。


 葦津八州はほぼ円形の巨大な島で、内部に大きな浅い湾があり、南のほうに外海に出る入り口がある地形となっている。湾の中ならばどこに行っても対岸の山が見える。つまりここはまだ葦津湾の中だということになる。船さえ調達できれば、一日二日でどこかの州にたどりつく。それが唯一の救いだった。


 いつまでもこうしていても仕方がない。


 夜隆はなんとか立ち上がった。


 海とは反対側に林が見える。だが、時刻はもう日暮れだ。火を持たない人間が入っていくのは危険である。林の周囲を迂回するように浜や平地を歩くことにした。


 足取りは重くてふらつく。けれどいつまでもあそこにいたら、それこそ餓死してしまう。どこの島かはわからないが、とにかく民家を見つけて食べられるものを恵んでもらわなければならない。


 行けども行けども砂浜と林だった。


 何も、ない。


 民家どころか、ここがどこの島か判別するための目印も、何も、ない。


 焦燥感が、募っていく。


 夜が、更けていく。




 朝が来る前には、夜隆は島を一周してしまっていた。


 最初に船をおりた浜辺に座って、東の空に浮かぶ朝日の光を浴びる。


 頭がおかしくなりそうだ。


 月隆がくれたという短刀を、握り締めた。


 この苦しみから逃れるためには、これで自分の首なり腹なりを切りつけるしかないのではないか。


 手が震える。


 怖い。


 雲隆が殺されたあの夜には侵入した忍びたちを容赦なく斬ったというのに、自分を斬るのは恐ろしすぎる。


 死にたくない。

 帰りたい。


 涙がこぼれる。


 平和だった日々に帰りたい。

 雲隆がいて、月隆がいて、家臣たちの息子らがいて、近侍や女中といった使いの者たちがいた。大勢の人に囲まれて、のんびり暮らしていた。


 なんと能天気だったのだろう。


 左手で短刀を握ったまま、右の手の平を開く。

 呪印が刻まれている。

 この呪印は洗っても落ちまい。

 これでは獅子浜城に帰れてもあの日々には帰れないのではないか。


 獅子浜城に帰れるのだろうか。自分は短刀一本しか持たず、腹を空かせて立ち上がることも億劫な状態でいる。


 しばらくその場で膝を抱えて泣いた。


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