第2章 七頭諸島
第5話 お天道様に聞いてやろうではないか
昏の穴は蔵の穴とも掛けられている。
実在の蔵ではなく、どこか異空間につながっている穴だが、この穴が出現する人間は蔵のごとく物品を自由に出し入れすることができる。
狩野が葦津八州を統一するまでの戦乱の世では、ここに兵糧米や矢などを入れて移動していたらしい。
時は下って戦のない世の中が来るとほぼ無用の長物となり、この穴が出現する者だけが狩野家の長、つまり大君になれるという形骸化した規則だけが残った。
夜隆は普段裂闇丸しか収納していないが、雲隆はせっせと銭の現物でへそくりを貯めていると言っていたことがある。
月隆は知らない。月隆とはそういう内緒話をしたことがない。
この穴はどうやら父系で引き継がれるものらしく、現在では狩野本家の三兄弟しか使えないようである。雲隆が死んだので、この世で月隆と夜隆の二人きりになった。
父の冬隆から直接使い方の
穴は手の平に現れるものなので、手を開けないだけで穴も開けない。
したがって、今のように竹筒を握らされた上で縛られると、縄を切るための刃物も取り出すことができなくなる。
指が砕け散りそうだ。手首も傷めるだろう。関節が悲鳴を上げている。
夜隆は激しく咳き込み、飲んでしまった水と唾液が混ざったものを吐き出しながら、息苦しさのためにあふれてくる涙を流した。
「ほら、答えろ」
獄吏にそう言われたが、気管に入った水のせいで咳が止まらない。声が言葉にならない。首を横に振って何も言えないことを表した。
すると獄吏はまた夜隆の頭をつかんで、水桶の中に夜隆の顔を突っ込んだ。
急なことに息を止めることもできず、また口や鼻から水が入ってくる苦痛を味わう。
苦しい。
痛い。
つらい。
解放されたい。
どうしてこんなことになってしまったのか。
永遠にも近い時間を呼吸困難のまま過ごして、やがてようやく頭が解放された。肩を大きく上下させながら水を吐き出す。
これで何度目だろう。もう数え切れないほどこうしている。
全身ずぶ濡れで、まだ夏は終わっていないはずなのに寒い。上半身を戒める縄の食い込みも痛い。
「どうだ、答える気になったか」
それでも、夜隆は何も言わなかった。
「俺じゃない」
愛する長兄を自分が殺すなど、ありえない。
「俺は命じていない。あいつらは嘘をついた。俺じゃない」
髪をつかまれ、引っ張られた。また顔を水桶に漬けられる。苦痛と恐怖で失禁しそうになる。
けれどそれでも夜隆は嘘の自白をしなかった。
一時の苦痛を逃れるために長兄への愛を偽るわけにはいかなかった。
このままだと溺死するかもしれない。
でも、認めたら自分は大君の座を狙って肉親を殺した大罪人になる。
自分を大事に育ててくれた家族に申し訳が立たない。まして大恩ある長兄を
涙と鼻汁を流しながら、夜隆は首を横に振り続けた。
どれだけ拷問を受けても、ありもしない罪を自供する気はない。
楽になりたい。だが楽になってはいけない。獄吏が飽きる、などということはないだろうが、少しでも時間を稼いで誰かが助けに来てくれるのを待ちたい。
誰かは来てくれるだろう、という期待もあった。なにせ自分は何も悪いことをしていない。出来の悪い夜隆を疎んじている者はいなくもなかったが、決定的に嫌われるようなことをした覚えはなかった。正義を信じた誰かが来てくれるはずだ。
「吐いたか」
その声を聞いて、獄吏が手を止めた。夜隆も顔を上げ、声のほうを向いた。
鉄格子の向こう側に人影が歩み寄ってくるところだった。
月隆だ。
助かった。これで兄にここから救い出してもらえる。
「兄上!」
夜隆は声を張り上げた。
「助けてください! 俺は無実です、ここから出してください!」
暗い地下牢のほの明るい松明に、月隆の顔が照らし出された。
一瞬、ありもしない幻覚を見た。
月隆が笑っているように見えたのだ。
彼が見せたほんの瞬間の愉悦の笑顔に、血の気が引くのを感じた。
そんなことがあるわけがない。血を分けた弟が苦しんでいる様子を見て、彼が笑うはずがなかった。
次に瞬いた時には、月隆は眉間にしわを寄せて険しい顔をしていた。やはり気のせいだったのだろう。
一見したところ、月隆が怪我などをしている感じではない。体に危害が加えられたわけではないようだ。
よかった、と胸を撫でおろした。雲隆を失って月隆にも何かあれば、夜隆は独りぼっちになってしまう。
「私はお前が心底兄上が憎くて兄上を殺したわけではないと思っている。お前は兄上によくなついていたからな」
その言葉を聞いて、夜隆は興奮した。
月隆はわかってくれているのだと確信した。
彼はずっと雲隆と夜隆がどれほど思い合ってきたか知っている。だから無実を信じてくれる、出してもらえる。
そう思ったのに、月隆はこう続けた。
「しかし、他に思い当たる人間もいない」
胸の奥が、冷える。
「弟を疑うのは本意ではないが、例の死んだ忍びが言ったという話は筋が通っているように思えてならない」
「どういう意味ですか」
「お前は兄上と二人きりで過ごす時間が長かったからな。兄上と、私を殺して円滑な大君の座の継承について話し合っていることもあるのではないか。それに、兄上は世を儚んでおられたから、引導を渡すのもそれはそれでまた慈悲なのか、とも思った。そういう私の心配が現実になってしまったようだな」
夜隆は愕然とした。
月隆は冷静な顔をしている。どこか穏やかですらある。その表情が、夜隆に、わかっているのだぞ、と言っているように見えた。
「お前は誰からも愛される気質だ。私などより慕われている。だから、言ってくれれば、私はおりたのに。しかし、さすがにこうも露骨に命を狙われては、私もそれなりに自己防衛しないとならない」
彼は悠々とした足取りでそばに来て、牢の中に這いつくばる夜隆を見下ろした。
「早く認めろ。さすればどうにかしてやる」
絶句した。
どうもこうもない。大君を弑逆した大罪人に待っているのは死だけだ。認めたら終わりだ。それは彼もわかっているはずだ。それなのに、どうしてこのようなことを言うのだろう。
混乱している夜隆の前で、彼は、うっすら笑った。
勘違いだと、思いたかった。
今やたった一人になってしまった兄弟なのに、どうしてそんな顔をしていられるのか。
「さあ、言え」
月隆がしゃがみ込んだ。目線が近くなる。
「俺が間違っていたと。俺がすべて悪かったのだと言え」
夜隆はまた首を横に振って「何を言っているのか」と呟いた。
「どうしてそんなことを。俺たち、兄弟じゃないですか。血を分けた……雲隆兄上亡き今この世で二人きりの……」
土を踏む足音が聞こえてきた。複数人が走ってきたところのようだ。
「何を馬鹿な!」
そう怒鳴ったのは先頭を来た沓間忠二郎だった。彼は仲間たちを引き連れて駆け寄ってきた。
忠二郎が鉄格子に手をかけた。
「夜隆様」
忠二郎は夜隆の守役だった男だ。本物の味方が来てくれたような気がした。手の震えが一瞬収まった。
「月隆様は正気でおられるか。本気でこの夜隆様がそのような人間だとお思いか」
忠二郎の後ろにも人が続いていた。顔を確認できたのは夜隆の何人かの従者と奥の女中たちだ。彼ら彼女らも月隆に非難の声を上げた。
月隆が目を細めてそちらを見やる。
忠二郎が拳を握り締めて訴えるように言う。
「雲隆様を弑し奉る理由がおありなのは月隆様のほうではござらぬか。月隆様が本当に恐れていたのは雲隆様が月隆様をすっ飛ばして夜隆様を後継者に指名することだったのではあるまいな」
月隆が忠二郎をにらみつける。それでも夜隆の味方たちは止まらない。
「ずっと黙っておりましたが、月隆様はご自分の生まれが側室の腹であるということに劣等感をお持ちだったということを、皆が存じております。正室のお子である夜隆様を妬んでいたのではございますまいな」
ありえない話だった。なぜなら母親が誰なのかなど些細な話だからだ。
大君になるのに必要な条件は穴を使えるかどうかだけで、月隆は立派にその条件を満たしている。
事実母親のことで月隆が軽んじられたという話など聞いたことがない。
だいたい、世の中には長幼の序というものがある。まして月隆は夜隆よりずっと優秀だ。大君にふさわしいのはどう考えても月隆のほうだ。何もしなくても雲隆が退けば月隆が大君になるのだ。
だから、月隆が心配することなど、何もないのだ。
「月隆様は夜隆様をはめた。雲隆様にとっては同じ腹で生まれた可愛い弟である夜隆様を排除するために。違いますか」
苛立ったのか、月隆は腕組みをして背中をわずかに丸めた。
「たいした推理だ。しかし証拠はない。どうやって証明する?」
忠二郎が「卑怯ですぞ」と叫ぶ。
夜隆は「忠二郎」とささやくように呼んだ。
「どうしてそのようなことを言うんだ。月隆兄上とて俺の兄だ。話せばわかる」
忠二郎が今度は夜隆をにらみつける。
「そのようなことをおっしゃっているから、はめられるのです」
来てくれた人々の中ではすでに、夜隆は月隆に陥れられたということが大前提で話が進んでいるようだ。良くない。疑われて気分がいい人間などこの世には存在しない。月隆が傷つく。
「夜隆様とて証拠はござらぬ」
「いや、大勢の者たちが忍びの最期の言葉を聞いていたと聞いたぞ」
「それこそ言わせればどうとでもなります。物的証拠をお出しくだされ」
一歩も引かぬ者たちに、月隆がいよいよ折れた。
「目障りな連中だ」
彼は一言そう吐き捨ててから、こう言った。
「では、殺すのだけはやめてやる。夜隆が本当に正しいかどうか、お天道様に聞いてみようではないか。夜隆に本当に非がないというのであれば、天命が夜隆をこの世につなぎ留めるだろう」
何を言われているのか、さっぱりわからなかった。
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