第4話 夜隆の転落の始まり
夜隆は、その日の夜、雲隆のすぐ隣に布団を敷いて横になっていた。
深い意味はない。夜隆がなんとなく兄のそばにいたかっただけだ。
末っ子の夜隆は十九歳になった今でもそういう甘えが許される存在で、傷ついている兄に迷惑をかけるなとたしなめる者がなかったわけではないが、少しごねたら女中が布団を用意してくれた。
できることならば夜通し二人きりで語りたいことがあった。しかし、暗闇の中で雲隆に「おやすみ」と言われてしまった今、もう彼に話し掛けてはいけない気がしている。
もう兄にはできなくなってしまった寝返りを打ち、兄に背中を向けて枕に頬をこすりつける。
目を閉じると、まぶたの裏に月隆の姿が浮かんだ。侍医に雲隆の身体のことを告知された直後の、静かな足取りで部屋を出ていく後ろ姿だ。
月隆はここに来ない。
夜隆はそんな次兄をかばって何度も雲隆にくよくよ悩んでいる姿を見せたくないからだと説明してみせたものの、さすがにもう少し歩み寄ってくれてもいいのではないかと思い始めた。昔から人に弱みを見せない人ではあったが、ここぞという時には一致団結して国難に備える、というのもありえるべきことではないのか。
誰かに雲隆の様子を聞いているだろうか。どのような形で耳に入っているのだろう。そしてその兄につきっきりの夜隆をどう思っているのか。月隆も夜隆には雲隆から離れて表の仕事をしてほしいと思っているのか。
ここまできっぱりと役割分担をしなくてもいいのではないか。
月隆は、夜隆をどう思っているのだろう。
彼はもし夜隆も父や兄と同じ状態になってもこうして会いに来てくれないのだろうか。
彼には妻がない。いつだか独り身は気楽だと言っていたことがある。冬隆も雲隆にたくさん側室を持たせたこともあってあまり深く気にしていなかったようである。そんな中で先に夜隆が妻子を持つというのはどうなのか。
雲隆は夜隆に結婚してほしい。
月隆に対しては、どうなのだろう。
一人で考えていても仕方がない。明日、月隆と話し合おう。
嫁取りの件については、沓間家の当主にも話をしたほうがいいだろう。きっと雲隆に代わって他家となんらかのやり取りをしているはずだから、彼の意見も聞いたほうがいい。
目を閉じた。
闇の中、兄のかすかな息遣いだけが聞こえる。
そのはずだった。
ほんのわずか、何かがきしむ音が聞こえた。
夜隆はそれを気のせいだと思うほど愚鈍ではなかった。人の顔色を窺って生きてきた夜隆は、むしろ人間の悪意に敏感だった。
どこかから誰かに見られている。強い殺気を感じる。
大きく目を開け、体に力を入れる。すぐに起き上がれるよう、緊張感をみなぎらせる。
かた、と木製の板が動く音がした。
上だ。
目をやると、闇に目が慣れた夜隆には、天井板をはずしてこちらを見ている何者かの姿が見えた。
「曲者!」
夜隆が怒鳴った。
その声に反応して、雲隆も目を開けた。
「何事だ」
天井板の裏に隠れていた黒装束の者が飛び降りてきた。忍びだ。それが二人、三人と数を増やしていく。
跳ね起きて立ち上がった夜隆とにらみ合いながら、背負っていた刀を抜いた。
「夜隆」
雲隆も意識ははっきりしているようだが、彼は起き上がれない。本当は今すぐ安全なところに避難させたいが、夜隆より背の高い、やせたとはいえ力が入らない分重く感じられる男の体を簡単に持ち上げることはできない。
このままなんとかするしかない。
夜隆は足を軽く肩幅に開いた。
そして、左の手の平を上に向けた。
手の平の上に、闇が
その穴に右手をかざした。
穴から、刀の柄が、鍔が、そして抜き身の刀が現れた。
この穴は狩野一族の男児に伝わる異能の穴だ。
夜隆は穴から抜いた刀を構えた。亡き父から賜った宝刀、
一足飛びで忍びのうちの一人の間合いに踏み込み、刃を合わせた。
金属音が鳴り響いた。
実戦の場で刀を振るうのは初めてだったが、その手応えで、やれると確信した。
腕力で押し退け、斜め下から胴を斬り上げる。
肉に刀が食い込む感触に少しひるむ。
けれど兄を守るためには自分が斬るしかない。
一人を畳へ投げ捨てると、二人目と斬り結んだ。同時に三人目が襲いかかってきたが、乱世には一人で大勢の敵と戦ったという武士の古流剣術を身に着けた夜隆はすぐさま対応した。
「誰か! 出あえ! 出あえ!」
雲隆が怒鳴るように叫ぶ。廊下が慌ただしくなる。じきに味方が駆けつけてくれるだろう。それまで間をもたせる。
できると思っていた。
忍びは全部で四人いた。
夜隆が二人目三人目と相手をしている間に、四人目が刀を逆手に持ち替え、まだ布団に横たわったままの雲隆の胸の上にかざした。
「兄上!」
急いで向かおうとしたが、間に合わない。
「夜隆逃げろ」
雲隆がそう叫んだ次の時には、忍びは刃を雲隆の胸に突き立てていた。
「兄上」
雲隆のうめき声が耳に入ってくる。血の気が引いていく。
忍びが一度刀を抜いた。そして、もう一度、刺した。それから、同じ動作を、さらにもう一度、繰り返した。
三度も胸を刺された。
「兄上っ!」
雲隆は悲鳴すら上げなかった。
夜隆はなんとか二人目と三人目を斬り倒すことに成功したが、もう遅い。
「何事だ!」
城に詰めていた者たちがやっと到着して、縁のほうから障子を開けた。
彼らが
「何奴!」
男たちが次々と押し入ってきた。けれどもういまさらだ。
追い詰められた四人目の忍びは、それでもどこか冷静だった。その男は雲隆の胸から刀を抜くや否や自らの首に刃を添わせた。
「自害させるな!」
大声を出したのは沓間家の長男である
「捕らえよ! 首謀者の名を吐かせよ!」
大君の一番の側近の跡取り息子が号令している。皆それに従う。刀を腰の鞘に納め、徒手で忍びに向かっていく。
ここで想定外のことが起きた。
「夜隆様!」
そう叫んだのは、なんとその忍びだった。
「お申し付けられたとおりに、狩野雲隆を討ち取りましたぞ!」
全員がぴたりと動きを止めた。
覆面をしているので、忍びがどんな顔をしているかはわからない。声色からも、何も読めない。ただ、彼ははっきりと夜隆の名前を口にした。
「夜隆様、万歳! 雲隆と月隆が死ねば、夜隆様が大君に!」
「なんという」
義一郎が声を震わせて叫ぶ。
「貴様、夜隆様の命で雲隆様を殺したと申すか」
忍びはあっさりと答えた。
「いかにも! 我々は夜隆様に雇われた者、月隆の死体を見れぬのは心残りではあるが、夜隆様のためならば喜んで死ねる!」
そして、自らの首に添わせていた刃を引いた。
鮮血が噴き出し、近くに立っていた夜隆の顔や胸を濡らした。
ひどいにおいだった。不快、どころの話ではない。
心臓が耳元にあるのではないかと思うほど大きく脈打っている。自らの鼓動がうるさい。裂闇丸を握る手がぶるぶると震えている。
忍びの体が畳の上に落ちた。
虫の声が聞こえるほどの静寂が戻ってきた。
義一郎が、肩で大きく息をしている。
「……なるほど」
ややあって、彼も震える声を吐き出した。
「夜隆様は、雲隆様にとどめを刺し、月隆様に刺客を放って、それで、狩野家唯一の男子になって、大君の座を得ようと」
「違う!」
夜隆は全力で叫んだ。
「俺はそんなことは考えていない! 考えたこともない! 過去に一度たりとも」
全員が夜隆を見つめている。その瞳に映る感情はいったいどんなものなのか、混乱している今の夜隆には読めない。
「なあ、みんな、わかるだろう? 俺はそういう性格ではないと」
懇願するように訊ねた。男たちが顔を見合わせる。
「まあ、それは……」
「いや、でも……」
「なあ……」
誰かがぽつりと言った。
「大君が戦に出られる機会もないのに、なぜそこまでがむしゃらに剣の腕を磨かれるのか、とは、思ったことはあるな……何か斬りたいものでもあるのかと」
それは他にすることがなかったからだ。幼少の頃にいろんな人に褒められた唯一の特技が剣の腕だけだったから、これしかしてこなかったのだ。だいたい周囲は夜隆に男らしさ、武士らしさを求めていたではないか。自分はそれに応えてきただけだ。
そういうことを訴える余裕は今の夜隆にはない。
「すぐに月隆様のもとへ向かえ。月隆様をお守りしろ」
義一郎がごく冷静にそう指示した。名前を呼ばれた何人かの男たちが走って部屋を出ていった。
「たいへん残念ですが、夜隆様は拘束させていただきます」
残った男たちが、刀を構える。
「おとなしく投降しなされ」
夜隆はすぐに穴を開けて裂闇丸を納めた。とにかく抵抗の意志はないことを示したかったからだ。それが自らの身の潔白を証明する行為だと思った。
しかし彼らはそんな夜隆を乱暴に畳の上に引きずり倒し、上からのしかかって取り押さえにかかった。
混乱が激しくて痛みも感じない。
そのうち、両手を縛り上げられ、部屋から連れ出された。
敬愛する長兄の死に顔を見ることは許されなかった。
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