第3話 葦津八州を率いる者の家庭事情

 それから数日というもの、夜隆はほとんど雲隆につきっきりだった。


 今日も雲隆の着替えを手伝っている。ここ二、三日で男手は表に取られ、雲隆の世話をするのが奥から出てきた女中ばかりになったからだ。男手が必要だろうと思ったのである。


 夜隆の念頭には、病膏肓こうもうに入って以来布団から起き上がるのもひと苦労になってしまった父のことがある。


 父は一度倒れたらそのまま快癒せずに死んだ。

 その看病には、夜隆も母や奥の者たちと分担して参加していた。

 夜隆以外の人間はほぼ女性だったので、褥瘡防止のための体位変換を行うのは夜隆の仕事だった。

 父はかなり終盤まで夜隆を女の仕事をしているとしてなじったが、今わの際には幼子の頃にしていたように頭を撫でてありがとうと言ってから死んだ。


 雲隆はまだまだ今の体のまま生きる。


 当人は我が身のままならなさをもどかしく思っているようだったが、頭はしっかりしていて言語も明瞭だ。

 夜隆は雲隆を、これからも良き助言者として、この万松州を、ひいては葦津八州を支えてくれるものと信じている。

 したがって、狩野家にいてもいなくても変わらなさそうな夜隆も、雲隆の体の向きを変えてやれればそれなりに葦津という国へ貢献しているものといえる。


 上半身を軽く起こして、特別に作らせた座布団を腰に当て、姿勢保持をした。そろそろ昼食の時間だ。


 女たちが厨房から料理を運んできた。雲隆の尊厳を守って弟たちと同じ献立のものを用意させているが、どうしても介助する者たちの都合で細かく刻まねばならぬのが悲しいところであった。


 それを、夜隆がたずから匙を取って雲隆の口に運んだ。女たちはじっとそれを見守っていた。


 ややあって、雲隆は途中で「片づけるように」と言った。

 歯ごたえのないものは食べごたえがないのかもしれない。単純に運動量が落ちていることもある。

 どんどん食が細っていく。

 少し心配だ。


「何か不自由はございませぬか」


 雲隆の口元を手ぬぐいで拭きながら、夜隆は極力優しい声で問い掛けた。雲隆がぎこちない笑みを向ける。


「不自由しかない」


 みんな言葉を失った。掛ける言葉が見当たらない。しかしそれもそうだ。彼は日がな一日ここで横になっている。


「すまぬ。気を遣わせてしまうな」


 心優しい兄はそう言うが、かと言って撤回する気もないらしい。


「こうしておると、自分の心根がゆがんでいくのを感じる。健康なそなたたちを妬んでしまう」


 それがありのままの彼の本音なのだろう。しかし、素直に言ってくれるだけありがたい。父は不自由になっていく体を受け入れられずに息子たちに冷たく当たっていたものだ。


「私はあと何年このようにして生きればよいのか……。この先何十年とこうも屍のように生きるのかと思うと、いっそ頭でもぶつけて死んでいればと思うこともある」

「なんてことをおおせですか」


 夜隆は身を乗り出して兄をたしなめた。


「今はまだお怪我をされてから半月も経っておりません。皆兄上のご様子が落ち着かれるのを待っております。さすればまた政務につかれることもありましょう。皆今は遠慮しているだけで兄上のことを頼りにしているのです」

「そういうことを言うのはお前だけだ。月隆など見てみよ、すぐに切り替えて私がいらない体制作りに励んでおる」


 誰がそんな形で吹き込んだのだろうか。

 確かに月隆は雲隆がいなくても回る葦津国を作ろうとしているように思うが、それとて雲隆の負担を減らすために違いない。 

 長男が倒れた今、頭の切れる次男が男たちと表の仕事をし、ぼんくらの三男が女たちと奥の仕事をする。これは長男を支える者たちの務めとして至極当然のことではないか。


「兄上のお体がよくなるまでです」


 どうやら月隆は侍医の告知以来一度もここに顔を見せていないらしい。だから雲隆も必要とされていないと勘違いしているのだろう。


 月隆は忙しいのだ。夜隆がここにひきこもっている間に、月隆が表の仕事をしている。

 彼こそが雲隆の正統な後継者なので当然だ。

 それに、彼は自分の弱みを見せたがらない。雲隆のことで気を揉んでいる自分を知られるのが恥ずかしいに違いない。


「月隆兄上も雲隆兄上が心配なのです。でも、とても強がりだから。見栄っ張りだから心配しているところを見られたくないのです」


 雲隆は少し間を置いてからこう言った。


「月隆をとがめるつもりはない。誰かはやらねばならぬ。いくら泰平の世とは言っても、葦津八州を率いる者は強くたくましい将でなければならぬのだ。それに私はもうふさわしい人間ではなくなってしまった」

「そう気落ちなさいますな」

「ただの事実だ」


 何を言ったらいいのかわからなくなった夜隆に、雲隆が「すまなかった」と言う。


「またお前にきつい物言いをしてしまう。お前はいつもそうだな。はたでお前を見ていると、なんだかお前をはけ口にしている人間の多さよといつも思っていたのだが、ついに私までそのような人間に落ちるとは」

「平気ですよ、俺は右から左に聞き流すのが特技ですから」


 女たちがふと笑った。みんなすぐに姿勢を正して「失礼」と言って無表情に戻ったが、少しでも愉快であったら幸いである。彼女らもここのところずっと暗い顔をしているので、何か癒やされることでも、とは思っているのだ。


 雲隆が夜隆の顔を見る。目が合う。


「いいか、夜隆」

「はい」

「少し大事な話をする。真面目に聞いてくれぬか」

「もちろんです」


 夜隆も慌てて姿勢を正した。


「お前には今すぐなすべきことがひとつある」


 胸の奥で心臓が跳ねた。愉快だからではない。遠回しにお前は今なすべきことをなしていないと言われたような気がしたからである。

 そういえば、冬隆もお前は表の仕事をしろと怒っていた。雲隆も同じことを言いたいのだろうか。


「何でしょう」

「嫁取りだ」


 面食らった。


「さすがの俺もこんな状況で祝言しゅうげんを挙げていられるほど能天気ではございません」

「能天気だからではない。責任を感じるのであればこそ、しかるべきところから妻を迎えて万松州と他の州とのつながりを深くせねばならぬ」


 そこで、ふと、遠くに目をやる。


「私は奥に女を迎えておきながら子を残せなかった。子はかすがいだぞ、夜隆」

「そういうものでしょうか」

「とにかく、私は今いる女たちにいとまを出してやれるよう、沓間を通じて離縁状を用意するつもりだ。もしその中からそれでもなお狩野家に尽くしてくれるという娘があれば、お前がその娘を迎えよ。一人でも多くの女を奥に入れて、一人でも多くの子を作るのだ」


 大変なことになってしまった。


「何より、正式な室を持つべきだ。そしてその室の力を得ることで、狩野家を背負って立つ者として国を盛り立てること」

「そうですかねえ」

「私はそれは月隆には務まらぬと思っておる」


 看病しに来ない上の弟に愛想が尽きたのだろうか。


「お前は奥のことはわかっている。今から表のことを勉強せよ。室はその支えになってくれるであろう。おくするなよ」

「はあ……」


 夜隆はいよいよ自分が引っ張り出されようとしていることを察して、背中が寒くなってきた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る