第2話 しっかり者の長男雲隆、甘えん坊の三男夜隆

 翌日、夜隆は雲隆の寝間で、小姓が雲隆に食事を取らせるのを見守っていた。


 雲隆は無表情のまま、小姓が匙ですくったものを口に含み、嚥下していた。一応丸めた掛け布団を背もたれにして上半身を軽く起こしているが、体幹が立たないために、ほんのわずかな衝撃で崩れ落ちそうになる。それを、また別の小姓が支える。雲隆の世話のために多くの工夫と労力が必要となった。


 ついこの間まで、雲隆は何でもできる男だった。

 この葦津あしづという国を統べる大君たいくんとして、すべてが整っていて隙がない印象だった。

 食事も、背筋を伸ばし、正しい姿勢に正しい作法で、米の一粒も残さずに食べていた。

 威厳と奢侈しゃしの間を慎重に見極める目を持ち、過不足のない料理を作らせていた。


 それが今となっては、食べさせやすいように細かく刻んだ見目の悪い料理を一口一口運んでもらっている。 


 身分の低い者に身の回りの世話をさせるのはむしろ仕事だと言えなくもなかったが、このほんの数日の間に起きたことだと思うと、急すぎてあまりにもむごい。


「夜隆」


 食事の合間に、雲隆が言った。


「お前は食事をしておるか」


 夜隆は首を横に振った。


「兄上のことが心配で、固形物が喉を通りません」

「それはよくない。握り飯でもこさえてもらって、食べられるだけ食べなさい。お前まで体調を崩すようなことがあってはならぬぞ」


 こんな状態になっても、この長兄は末弟の身を案じている。


「これから先は、お前がこの国を守っていくのだから。体を壊すことだけはあってはならぬ」


 引っ掛かる物言いだ。


「それはそうなのですが、俺のようなぼんくらは何もしなくても月隆兄上がなんとかしてくださいますよ」


 雲隆は「これ」とたしなめた。


「自分で自分のことをぼんくらであると認めるのではない。精進せよ」

「はい、申し訳ございません」


 しかし、夜隆をぼんくらぼんくらと罵っていたのは、兄弟の父である先代の大君だ。


 父の冬隆ふゆたかは剛毅な君主で、質実剛健にして豪放磊落なところから家臣のみならず広く民衆にも慕われていた男だった。


 ところが去年の冬くらいから少しずつ調子を崩して、今から数えて半年ほど前、とうとう床に臥して動けなくなった。


 人一倍筋肉質だった父がやせ衰えていくところを見るのは非常につらかったが、そんな父を見ておいおいと泣いているのは夜隆だけで、雲隆と月隆は今後の政務のことを冷静に考えていたのをおぼえている。

 雲隆は夜隆の六つ上、月隆は夜隆の三つ上だから、当時は二十四歳と二十一歳だったはずだ。むしろ家臣たちのほうが泣いたり悔んだりしてはどうかと勧めるほどには、気丈な態度であった。


 半年前のある夜、父が息を引き取る数日前、いよいよおのれの死期を悟った父が、兄弟三人を寝床に招いて、最期の声掛けをした。


 ――雲隆。

 ――はい。

 ――お前は文武両道に秀で、真面目で民の信頼も厚い。非の付け所のない自慢の跡継ぎだが、だからこそやっかむ者も出てくるであろう。ますます精進せよ。そしてもう少し周りの人間を頼るといい。沓間なり、他の州の当主たちなり、お前の力になってくれる者は必ずある。何があっても悲観せず、ふところを開いておれ。

 ――はい。


 ――月隆。

 ――はい。

 ――お前は特別智謀に長け、いついかなる時も落ち着いていて、見ている親としては安心感がある。しかし少し聡すぎて情が薄く感じられてしまうこともあろう。事実お前はあまりにも冷静であるから、民にはお前を酷薄とそしる者が出てくるに違いない。世には仁の心も必要であることを心得て、周りに気を配るようにな。

 ――はい。


 ――夜隆。

 ――はい。

 ――お前は……、あー、お前は、特にない。

 ――えっ。

 ――お前は軟弱でどうしようもない。母に似て見栄えだけは良いのだから、兄たちの足を引っ張らぬ程度で切り上げて、良家に婿に行き、可愛がられるように。


 そんな父の最期の言葉が胸に突き刺さって抜けない。


 しかし父の言うことはもっともだ。この国は人のできた長男雲隆が大君として治めていれば十分で、その補佐役として何事もそつなくこなす次男の月隆が政務の事務方などをこなしていれば何の問題もなく、三男のみそっかすの夜隆はへらへら笑って生きてきたおまけだ。


 末っ子としての生来の要領の良さを買われて正月などの祭事には呼ばれるが、普段は邪魔者扱いされている。

 けれど、夜隆はその状況を甘んじて受け入れてきていた。兄たちが背負っているような重い責任など感じたくなかった。

 できるだけへらへら笑って生き続けて、難しいことには首を突っ込まずにやっていきたかったのだ。


 だから学問もそこそこにしてしまったし、体が動かすことは好きなので武術の腕は磨いたが、趣味の延長であり武士の魂を感じているわけではない。


 そういう夜隆に対して、雲隆はこんなことを言う。


「お前がもう少ししっかりしていれば、お前に大君の座を譲るのだがなあ」


 夜隆はぎょっとした。


「何をおおせですか、まずは月隆兄上でしょう」

「順番でいけばそうなのだが、私にとってはお前こそ唯一の弟なのだ」


 雲隆と夜隆は正室の子で、月隆だけは側室の子である。三人とも狩野家の父方に遺伝する異能を受け継いでいるので、兄弟であることに間違いはない。だが、腹違いというものはかくも隔たりを感じてしまうものか。


「月隆兄上とて、狩野家の嫡流ですよ」


 夜隆が月隆をかばうと、雲隆が苦笑した。


「だが、私は月隆を信用しておらぬ」


 この前、侍医に不治の身になったことを宣告された時に冷たい言葉を吐いたからか。


 血は水より濃い。長幼の序もいかんともしがたい。それに何より、夜隆は父お墨付きのぼんくらである。月隆が大君となり、夜隆はやはりしかるべき時にしかるべきところへ婿に行く、それがこの家の最良である。そう、夜隆は固く信じている。


 月隆はしっかりしている。態度は少々そっけないが、夜隆はこの次兄にもたいへん世話になって育った。どんな時にも落ち着いている月隆には、優しい雲隆とはまた違ったあこがれがあるのだ。それにしても、考えれば考えるほど彼の足を引っ張ってきた気もする。やはり、月隆にすべてをゆだねて夜隆は婿に行くのがよろしかろう。


「月隆兄上はちょっと話し下手と言いますか、誤解されがちな言動を取ることはありますが。それこそ俺が腹芸で仲を取り持てばいいのでは」

「いいか、夜隆」


 食事を終え、口元を清潔な手ぬぐいで拭かれた雲隆が、真剣な目で、真剣な声を出す。


「人の前では言えぬが。他の七州のことをあまり信用しすぎるな」


 葦津という国は八つの州からできている。狩野家が治めるここは万松州ばんしょうしゅうという。


「特に、天竜てんりゅう家には気をつけよ」


 天竜家は、万松州から船で二日南に行ったところにある翠湖州すいこしゅうを統治している家である。今は鳴秋なるあきという齢二十七の若い男が当主として治めている。


 翠湖州は、その名のとおり、大きな美しい湖のある州だ。十年ほど前、その湖に流れ込む川の上流で、銀山が見つかった。天竜家はその旨をすぐに中央政府に知らせて、葦津国全体でその富を分かち合うことを決めた。


「天竜家が、どうしましたか?」


 夜隆も子供の頃はよく鳴秋に遊んでもらったものだ。三男でみそっかすの夜隆は身に差し迫った危機を感じることもないので、翠湖州まで足を伸ばしたこともある。風光明媚で、どことなく気品を感じる土地柄であった。


「どうやら月隆と鳴秋は文を取り交わしているようなのだ」

「それはいいことではありませんか。万松州と翠湖州のつながりが強固であれば、みんな安心します」

「たわけ」


 溜息をつかれてしまった。


「鳴秋のやつ、恭順の意を示したように見えるが、腹の中では何を考えているかわからぬ。なにせ二百年もにらみ合ってきたのだ。そうやすやすとねじれが解消するわけはないと思うぞ」

「心配しすぎですよ」


 夜隆はちょっと笑ってみせた。


「二百年も手を出さずに狩野家がこの国を治めるのをよしとしてきたんですよ。いまさら悪だくみをするわけがない。その証拠に、銀も毎年きちんと納められているではありませんか。それがどうしてわざわざこの泰平の世を掻き乱そうなどと」

「そうだなあ」


 雲隆が少しのんびりした声を出した。


「お前と話していると、すべてが私の心配しすぎのように思えてくるな」

「そのとおりですよ」

「私個人の好みを言えば、そういう人間も家中に一人は必要なような気もするのだがな。さて、どうしたものか」


 それからも、夜隆はしばらく雲隆の話し相手になった。この寝間から出ることのできない雲隆に、少しでも部屋の外のことを知ってもらいたかった。

 おしゃべりな夜隆は、城内のことであれば情報通である。世間のことを何も知らないとは言われるが、家中のことはすべて知っていると自負していた。

 雲隆が不安になりませんようにと祈りながら、夜隆はしゃべり続けた。

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