澎湃《ほうはい》 ~追放されし青年夜隆公、海上で万難を排して帰還する事~

日崎アユム/丹羽夏子

第1章 御家騒動

第1話 大君雲隆公、医師の宣告を受ける

 夜隆よるたかをはじめとする狩野かの一族の主立った者たちは、夜隆の長兄にして狩野家当主である雲隆くもたかを、固唾を飲んで見守っていた。


 家中の者たちは、雲隆を診ている侍医が、たいしたことではない、なんでもないことであったと、あるいは今後奇跡が起こってどうにかなると、発表するのを待っていた。


 しかし、無情にも、侍医は首を横に振った。

 雲隆の手首から手を離して、畳の上につく。


 雲隆は、布団に横たわったまま、微動だにしない。


「申し訳ございませぬが、私にできるのはここまでにございます」


 雲隆の正室が強張った顔で身を乗り出した。普段はどのような時にもきちんと白粉おしろいを塗りかんざしを挿していた彼女も、今ばかりは少し荒れた蒼白い素の頬と乱れたおくれ毛を衆目にさらしている。


「雲隆様はいつ頃起き上がれるようになるのでしょうか。あとどれくらいこのような状態に耐えれば」


 侍医は彼のせいでもないのに深く頭を下げた。


「ご存命の限り半永久に、と申し上げるほかございませぬ」


 正室が畳に尻をついた。そんな彼女を、古い侍女が抱き締めた。まだ現実味を感じていないのか呆然としている女あるじとは対照的に、侍女は声を上げておいおいと泣き出す。輪唱するように、一人、また一人と泣き始めて、そのうち寝間ねま全体を泣き声が満たした。


 雲隆が唯一自由になる首から上を動かした。またたきしながら口を開く。


「なるほど、私は生涯このまま寝たきりということか。首の骨を折るというのは、かようにたいそうなことであったか」


 彼は落ち着いているように見えた。こんなにも早く我が身の状況を受け入れたのであろうか。怪我をした落馬事故以来、ずっと体に力が入らない、首から下の感覚がない、と言い続けていたので、侍医の見立てはおのれの状態を確認するためだけのものであったのかもしれない。診察を受けるより前からすでにこう言われる予感があったに違いない。


「まことに恐縮ではございますが、さようにございます」

「うむ、あいわかった」


 とうの兄本人は落ち着いて受け入れた様子であるのに、はたで見ているだけの弟の夜隆も、女たち同様、すぐには兄の状況を呑み込めなかった。兄のむくんだ顔を無言で見つめて、目を真ん丸にしていた。頭の中が混乱していて、涙が出てくるには早すぎる。


 そんな夜隆とは違って、冷静に侍医へ話し掛けてきた者がある。

 次兄、つまり雲隆と夜隆の間にいる次男の月隆つきたかである。


「つまり兄上はもうお子をなせぬお体であるということだな」


 侍医が畳に額をこすりつける。


「おおせのとおりにございます」

「なるほど、では私か夜隆が結婚して子を作らねば狩野本家は断絶であると」


 急に名前が出てきたので、夜隆は驚いて月隆の顔を見た。月隆も弟に顔を見られていることに気づいて、こちらのほうを向いた。彼は至極冷静な顔をしていた。


「なんと無礼な!」


 月隆の言葉に憤慨して、家臣筆頭格の沓間くつま家当主が口から唾を飛ばして怒鳴る。


「それがかような場でおおせになることか! 雲隆様の心中をお察しせず、言うに欠いて、なんとむごい」

「なれば兄上に直接お伺いしよう。兄上は今後狩野家をどのようにすべきかとお思いか」


 雲隆が眼球だけを動かして月隆を見る。


「お前の考えているとおり、私にはもう今までどおりに狩野家の当主としての務めを果たすことはかなわぬだろう。表の政務のことも、奥の家中のことも、私にはもうどうにもならぬ」


 また、侍女が一人泣き崩れた。


「急に放り出すことになってしまって申し訳ないが、月隆と夜隆でよく話し合って、よきにせよ」


 夜隆は長兄にすがりついた。布団の上から長兄の腕をつかむ。彼が夜隆の手の力加減を感じることはないだろう。しかし、夜隆は必死に彼の腕を揺すぶった。


「そんな、夜隆は雲隆兄上なしにやっていけません」


 月隆が「たわけ」と吐き捨てるように言う。


「お前がそのようで兄上は安心して浮かばれると思うか」


 反論したのはまた別の奥の女だ。雲隆の周りにいる女たちは総じて気が強い。


「雲隆様はまだ亡くなられたわけではございません」


 そんな言葉を、月隆が鼻で笑う。


「二度と刀を握れぬ武士など生き恥もはなはだしい。死んだほうがいくばくかましであろう」


 夜隆は思わず立ち上がった。さすがにそれは聞き捨てならなかった。月隆の口が悪いのは昔からだったが、言っていいことと悪いことがある。夜隆はこの兄に人の道をはずれてほしくなかった。


 成敗してやる。


 月隆の襟をつかんで引き寄せる。月隆の足が引っ掛かって、布団の端がめくれ上がった。そばに控えていた女たちが悲鳴を上げた。


「謝ってください。まだ生きて意識を保っておられます。すぐそこで聞いておられるのですぞ」

「珍しいな夜隆、貴様が私に対してそのような態度に出るとは、これが人生初めてではないか? 可愛がってくださった兄がいなくなってようやく目が覚めたか」

「いなくなってなどいません!」


 月隆の横っ面を張ってやりたかったが、家臣の男たちが寄ってきて、あれよあれよと月隆と夜隆を引き離しにかかった。

 ここに集っているのは武家の名門の者ばかりで、こんな泰平の世でも心身の鍛錬を怠らぬ人間の集まりだから、実戦の場で立ち回ったことのない十九歳の夜隆の抵抗などたかが知れている。

 そのうち四人の男に畳の上へ取り押さえられてしまったので、どうしようもない。


 夜隆は悲しかった。


 次兄が現実主義であるのは前々から知っていたが、まさか長兄が病床に臥している場で本人を前にしてここまで辛辣なことを言うとは思っていなかった。


 確かに、この状態の雲隆にはもう家を切り盛りすることはできない。これからは雲隆が動けないことを前提にした日常を構築する必要があるだろう。それを思えば、月隆は月隆なりに心が荒んでいるのかもしれない。彼にも今後の不安があるに違いない。


 しかしだからと言って、雲隆がどんなに傷ついたか想像できないではよくない。


 自分の体が動かせなくなって一番つらいのは雲隆自身であろうに、実の弟である月隆がお支えしますの一言すら言わないとは、血を分け合い、同じ釜の飯を食って育った兄弟に対して少し無情すぎやしないか。


「落ち着きなさい、夜隆」


 雲隆の、怪我をする以前と変わらぬ優しい声が聞こえてきた。


「熱くなるな。お前らしくないぞ。お前は今までどおり、兄の言うことを聞いて暮らしなさい」

「雲隆兄上も、ですよね」

「これからは月隆を頼りなさい。私はもう、かような体なのだから」


 それが自嘲する言葉のように聞こえて、雲隆は見た目以上に傷を負っているのではないか、という心配がせり上がってきた。弟たちや家臣たちの前で取り乱したところを見せまいとして取り繕っているのではないか。それだったらなんと痛々しいことか。


 夜隆がふたたび雲隆の体に手を伸ばすと、夜隆に抵抗の意志はないこと、ただ雲隆にすがろうとしていることを察した家臣たちがどいてくれた。軽くなった体で布団に突っ伏す。


「体調が安定したら、二人の相談に助言をするぐらいのことはしよう。しかしもう私に甘えてはならぬ。月隆の言うとおり、私は死んだものと思え。今日からお前は月隆と二人兄弟なのだ」

「嫌です、嫌です」


 今の雲隆には、十九にもなってぐずぐずと泣く夜隆を、叱ることもあやすこともできぬようだった。まぶたを固く閉ざして、吐き出すように「疲れた」と言った。


「すまぬが、皆の者、寝間から下がってはくれぬか。一人にしてくれぬか」


 小姓の一人が夜隆と同様に掛け布団にすがりついて「嫌でございます」と言ったが、雲隆は許さなかった。うっすら目を開け、彼の顔を見て苦笑してこう言った。


「なに、この体では何もできぬ。早まったことを心配するようならば無用だ。私はもう二度と刀も握れぬ武士なのだ」


 やはり月隆の言葉が深く突き刺さっているようだ。けれど、夜隆にはうまい否定の言葉は浮かばない。言い方の問題はあるにせよ、動かしがたい事実だ。実際、雲隆はもう一人で立つことも座ることもできない。そんな彼が今すぐ自害をする手段はない。


「雲隆様が下がれとおおせである。皆の者、出るぞ」


 沓間家の当主が震える声でそう言うと、一人、二人と立ち上がり始めた。ふすまを開け、廊下に出ていく。月隆もしばらく雲隆の様子を見ていたが、そのうちふらりと出ていってどこかへ消えてしまった。最後に残ったのは夜隆と侍医の二人で、侍医が「参りますぞ」と言うのでしぶしぶ腰を上げた。


 廊下に出ると、小姓たちがふすまを閉めた。


 途端、ふすまの向こう側から慟哭が聞こえてきた。


 夜隆もその場に泣き崩れそうになったが、夜隆の近侍の沓間家次男忠二郎ちゅうじろうが、そんな夜隆の腕をつかむ。


「自分もまだ心の整理がつきませぬが」


 疲れた顔をしてはいたが、夜隆に比べたらずっと落ち着いていた。彼もまた雲隆が不具合を訴えてきた段階ですでに何かを悟っていたものと見える。沓間家は狩野の家中でも屈指の武闘派で、身辺での怪我騒ぎが多い。彼らはもうどうにもならないことを察していて、診断を受けるのを待っていたのではないか。


「たいへん悔しゅうございますが、月隆様は間違っておられません」


 夜隆は泣く泣く頷いた。そのとおりだ。月隆は冷静沈着な男で、今日の態度はさすがに酷薄すぎたと思うが、泣いて取り乱している自分のことを思うと、今後狩野家を支えていくのはしっかり状況を見て動ける彼なのだ、というのをまざまざと感じる。


「他の七州の当主たちがどう出るかと思うと、早めに対策を講じておくべきかと存じます」

「他の当主たちへの対策?」


 不意に漏れた予想外の言葉に、目を瞬かせる。


「何だ、それは」


 忠二郎は真剣そのものだった。


「これを機によからぬことをたくらむ連中が絶対にいるということです」


 夜隆は溜息をついた。それが沓間家の統一見解なのだろうか。雲隆にようやく診断が下った今というところで、何を早まっているのやら。


「どうして誰も彼もこう、ひとを疑うんだ。大恩ある主君が臥している中で、その主君のお心を案ずることのほかにすることがあるか」

「ございます」


 断言する忠二郎に驚く。


「夜隆様はそれだから皆に侮られるのです。お優しいのも愚か者と紙一重、そんなだから世間知らずと申しておるのです」


 強くたしなめられ、ついついうな垂れてしまう。


「しっかりなされよ。月隆様と肩を並べてこの国を守っていくという気概をお見せください。夜隆様がやるのですぞ」


 今の夜隆にはなんとも言えなかった。




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